35話:囁きは塔より降りてくる
語りは、ただ伝えるだけのものではない。
語ることで、誰かを救うことも、否定することもできる――
第35話では、“語られなかったもの”と向き合う中で、フィンたちが初めて「国家そのもの」と真正面からぶつかりました。
沈黙課との遭遇、そして“記録庁”からの正式な接触。
語りの資格とはなにか。
語りは、誰のためにあるのか。
その問いが、いま塔の上からフィンに降りかかります。
王都の外壁が見えてきたのは、午後も傾き始めたころだった。
灰色の石造りの壁は、陽を浴びて輝くこともなく、どこまでも無表情だった。
だが、それを見上げた瞬間、フィンの背筋にひやりとしたものが走る。
「……見られてる」
フィンがつぶやいた。
「え?」
リナが隣で眉を寄せる。
「壁じゃない。あの向こうにある、“塔”だ」
「記録の塔」――ノーラが言葉を継いだ。
王都中央にそびえる、記録庁の中枢。
そこでは、語られた言葉のすべてが審査され、分類され、記録される。
そして、それに値しないとされた語りは――“なかったこと”にされる。
「この空気……懐かしいような、いやなような」
リナが口を引き結ぶ。
「王都に入ったら、語ることにも責任が伴う。
誰かの名前を呼ぶだけで、調査対象になることもある」
ノーラの声は淡々としていたが、その目には警戒の光があった。
「じゃあ、俺たちが村で歌ったあの“祝詞”も……」
「王都の記録審査課に“未登録語りの流布”として報告されてるかもしれない。
とくに“王”という単語が混ざっていたなら、尚更」
フィンは黙ったまま歩を進める。
この国では、語るという行為は“証明”であると同時に“申請”でもある。
語った言葉は、常に誰かに届く。
そして、その誰かが“語る資格があったか”を決める。
だからこそ、この王都では――誰も“本当の意味”では語らない。
語りは常に、“誰かの目”を意識して形を変えていく。
やがて、彼らは王都外縁にある古い施設の前にたどり着いた。
それは、記録庁の正式な施設ではない。
かつて“語られなかった者たち”の帳簿が一時保管されたとされる――控え倉庫だった。
門は石造りで、崩れかけていた。
壁には「庁外管理区域につき立入禁止」の錆びた札。
だが、ノーラは懐から古びた札を取り出し、それを門の隙間に差し込む。
青い魔紋が一瞬だけ光り、音もなく鍵が外れる。
「記録庁が塔中心に再編されたとき、多くの“分類不能”な語り帳が廃棄された。
……けど、全部が燃やされたわけじゃない。
いくつかは、黙ってここに“避難”させられた」
「語りを……“避難”……?」
リナの声に戸惑いが滲む。
「語りってのは、力だから」
フィンがゆっくりと答える。
「正しく使えば、人を救える。
でも、記録庁が怖れてるのは、“誰かが自由に語り始めること”なんだ」
扉を開けると、冷たい空気と、乾いた紙の匂いが押し寄せた。
内部は広く、天井が高い。
埃の積もった棚の列。
背表紙のない帳簿が積まれ、いくつかの木箱には“抹消待ち”の札。
フィンは、足を止める。
その光景に、何とも言えない胸のざわつきを覚えた。
「ここにあるのは……全部、“語られたけど、記録されなかった”もの?」
「そう」
ノーラが棚をなぞりながら応える。
「語った本人が死んだ。
語られたことが“都合が悪かった”。
あるいは、“誰も耳を傾けなかった”――そういう語りの墓場」
リナが、一冊の帳簿を手に取った。
中には、震える文字で書かれた日記のような語り。
「母が笑った」「弟が泣いた」「ぼくは今日、風を見た」
「……子どもの語り?」
「分類に値しなかった、ってことだろうね」
ノーラがため息をつく。
フィンは、棚の奥にあった灰色の箱をひとつ手に取る。
焼け焦げていて、何かがこびりついていた。
でも、表紙の端には小さく、薄れたインクでこう書かれていた。
“風印・王名ノ一閃の出所について”
「……!」
フィンの目が見開かれる。
風印・王名ノ一閃――
自分が語りの中で、無意識に放った技名。
記録された覚えなど、どこにもなかった。
「これ……俺の語りじゃない。
でも、“語られた記録”が、どこかに残ってた……?」
ノーラとリナも手元をのぞき込む。
中には、技名の由来と思しき“失われた語りの断片”が並んでいた。
「これ、明らかに“塔では登録されてない”語りだ」
「でも残ってる。……記録庁の誰かが、捨てきれなかったのかもね」
その瞬間だった。
どこかで“風が鳴った”。
建物の外――王都の中心から、塔の風見鶏がきぃと音を立てて回ったのだ。
塔が、こちらを見ている。
記録の塔が、“語ってはいけない語り”が再び動き出したことを察知したかのように――。
フィンは静かに息を吐いた。
「俺が語る。
ここに残された語りを、“なかったこと”にさせない。
語りは誰かの力じゃない。……俺が、証明する」
「これは……俺が語ったことじゃない。
でも、間違いなく“俺の中の何か”と繋がってる」
フィンは、手にした古びた帳簿をゆっくりと開いた。
ページの端は焼け焦げ、インクは水でにじんだように不鮮明だった。
それでも、断片的に読み取れる言葉があった。
《風を纏い、名を語る剣――》
《記録されなかった者が、名を刻んだ技》
《語りが記憶と結びつくとき、未来が揺れる》
「“未来が揺れる”……?」
リナが顔をしかめる。
「これ……預言書じゃないよね?」
「いや、これは“誰かが過去に見た未来”だ」
ノーラが帳簿の奥から、もう一枚の羊皮紙を抜き出す。
それには日付も名前もなかったが、明らかに“事件報告書”の形式をしていた。
《外縁域における未登録語りの覚醒事例》
《対象者は未成年。名称なし。語りによる実体干渉を確認》
《危険性高。記録庁による再検討の対象とするが、正式分類は保留のまま凍結》
「これは……俺のことじゃないのか?」
フィンがぽつりと呟いた。
「“名称なしの語り手”。“未登録語り”。“語りによる実体干渉”。
それって、今のフィンと同じじゃない?」
リナの声が震える。
「というか……“昔にも同じような語り手がいた”ってことかも」
ノーラが指を止めた。
「記録庁は、“語りを力に変える者”を恐れてた。
だからこうして……名前も記録せず、存在すら曖昧なままに封じてる」
「じゃあ、“語り”って本来はもっと自由なはずだった?」
フィンが言った。
「だけど、今の記録庁は、それを“登録制”にして、選ばれた者にしか使えなくしてる」
ノーラが頷く。
「今の語りは、“記録庁の都合のいい言葉”しか残されない。
語っても、記されなければ、それは“なかったこと”になる」
「……それって、殺すより残酷だよ」
リナが息を吐いた。
「生きてる証を、消すんだから」
外から風の音が強くなった。
まるで塔が“警告”しているかのように、倉庫の扉がきぃと軋んだ。
「誰かが……来る」
フィンは背筋を伸ばし、帳簿を閉じた。
「語りの気配に、誰かが気づいた。
この倉庫が“動いた”と記録庁が知ったなら、見逃されるはずがない」
「塔が本格的に“調整”に動く前に、出ないと」
ノーラが言う。
「記録庁には“沈黙課”がある。
……語る前に黙らせるためだけの部署。
本庁の正式な書類には出ない、影の課だよ」
「まさか、それって……」
リナが言葉を詰まらせた。
「そう。村で“黒衣の者たち”がいたでしょ。
あれが、沈黙課の“実働部隊”。
彼らは、語られる前の語りを潰す」
倉庫の外から、何かが“立っている気配”があった。
足音はしない。
声もない。
ただ、“見られている”という圧力だけが――ゆっくりと重くなる。
「俺は……逃げないよ」
フィンが言う。
「語りたいんだ。
この国のどこかで、語れなかった誰かのために。
名前も、記録も、覚えてる人さえいなくなっても、
“ここにいた”ってことを……ちゃんと語ってやりたい」
「フィン……」
リナの瞳が揺れた。
ノーラは静かに微笑んだ。
「なら、語ればいい。
記録庁が恐れるくらい、“自由な語り”を見せつけてやろう」
そのときだった。
倉庫の屋根を突き抜けるように、空の上で雷鳴が一閃した。
雲一つないはずの空に――黒い印のような雲が一瞬、塔の上空を覆った。
「塔が……応答してきた」
ノーラが呟く。
「語りを封じるために、“塔の声”が動く」
「だけど――」
フィンは剣を背に構えた。
「俺の語りは、“声を封じられた人のため”にある。
王都がそれを嫌うなら、それでもいい。
……語るって、そういうことだろ?」
その瞬間、塔の最上層から――一筋の光が地上に落ちた。
誰かが“こちらを見ている”。
誰かが、“記される前に封じよう”としている。
けれど、それでも――フィンたちは、語る。
語ることが、生きた証を残すことなら。
語ることが、記憶を未来につなぐことなら。
この沈黙の国で、彼らの語りは、希望の風になる。
空から降った光は、塔からの“視線”だった。
否――“命令”だ。
王都を覆う網のような記録網が、塔の命に従って動き出す。
その動きは早く、そして静かだった。
フィンたちが古倉庫から一歩踏み出した瞬間、空気が変わった。
「……来てる」
ノーラの手が、腰の短剣に伸びる。
「足音も、魔力もないのに……なんで分かるの?」
リナが緊張で声を潜める。
「“語りの気配”が消えるの」
ノーラの声が低くなる。
「そこだけ、空気が沈んで、語りが通らなくなる。
あれは、“沈黙課”特有の現象。……彼らが来た証拠」
まるで、そこにだけ“記憶”が存在しないかのような空間。
何もない。声もない。語りも、意味を成さない。
ただ、“見ている”という圧だけが濃密に降り注ぐ。
フィンの視線が、倉庫の反対側の路地に止まる。
そこにいた。
黒衣の人影――ひとり。
フードを深くかぶり、顔は見えない。
彼は何も言わず、ただその場に立っていた。
手に何も持たない。
だが、“動かない”という行動自体が、明確な警告だった。
「……あれ、ひとりだけ?」
リナが問う。
「“ひとり”じゃない」
ノーラが呟く。
「沈黙課は、“複数で存在しない”のが特徴。
同時に出現せず、同時に語られることもない。
だから、彼らの情報は“記録されない”。」
「語られない存在……」
「そう。“記録庁の剣”じゃない。
彼らは、“記録すらされないために存在している”」
黒衣の男が、動いた。
わずかに頭を傾ける。
その仕草ひとつで、空気が一段階、冷え込む。
「……語れない」
フィンが呟いた。
「言葉を発しようとすると、胸の奥が締めつけられる。
これって、“語りの拒絶”か?」
「フィールド展開型の沈黙領域。
語り系統の魔術、術技、スキルすべてを“無効化”する」
ノーラが地を蹴った。
その瞬間、小太刀が風を裂いた。
だが、黒衣は動かない。
ノーラの斬撃が届く寸前、黒衣の体がぼやけ――“空白”になる。
切り払った刃は虚空を滑り、地面に弾かれた。
「……すり抜けた?」
リナが絶句する。
「いや、“語られなかった”だけ。
今の斬撃は、“存在したことにならなかった”」
ノーラが歯を食いしばる。
「そんなの……戦いようがないじゃん!」
「語りの世界で生きる者は、語られなければ“いたこと”にならない。
彼らは、それを逆手にとって存在している。
“誰にも語られない”という力を、盾にしてるのよ」
だが――そのとき、風が吹いた。
フィンの手の中にあった帳簿がめくれる。
先ほどの“風印・王名ノ一閃”の記述が視界に飛び込む。
その一文が、胸に刺さった。
《名を呼ばれた剣は、語られざる敵にも届く。》
「……名を呼ぶ」
フィンが呟く。
「そうだ、名前がないから通じない。
なら、俺が勝手に名をつけてやる。
“語られてない”なら、俺が語ってやる!」
黒衣の男が、ゆっくりと顔を上げた。
顔はない。
だが、確かにこちらを“否定”している視線を感じる。
「“黙殺者”――お前の名は、今日ここで俺がつける」
フィンの声が、沈黙領域の中で響いた。
その瞬間、風が爆ぜた。
沈黙領域が、ひび割れた。
黒衣の体が揺れ、一瞬だけ“語りの力”が通った。
「語られたな」
ノーラがすぐさま跳び込む。
鋭い一閃が、今度は虚空を裂かない。
黒衣の裾を斬り裂き、わずかに血のような霧が舞う。
「見えた――!」
リナが背後に回り込み、低く構える。
「かぜなぎ、連奏斬!」
彼女の語りに応じて、風が旋律を刻む。
技名が空気を震わせ、抑圧された語りの力が復活する。
黒衣の男は、姿を曖昧にしたまま後退する。
そして、塔の方向に向き直り――一礼のような動きを見せた。
「“報告”した」
ノーラの声が低くなる。
「……沈黙課は、語りが通じた相手を記録庁に“報告”する義務がある。
あとは、塔がどう動くか次第」
フィンは、沈黙課の消えた路地を見つめながら言った。
「塔が来るってことは、こっちも――“語り切る覚悟”を決めなきゃな」
リナが頷く。
「もう、逃げる場所も、隠す意味もないよ」
ノーラが最後に言った。
「次に来るのは、“記録庁そのもの”かもしれない」
沈黙課の黒衣が消えたあとの空気は、妙に静かだった。
けれど、その“静けさ”は、ほんの束の間の猶予に過ぎないことを、誰もが理解していた。
「……語ったことで、塔が動く」
フィンが呟く。
「いや、“語れた”ことそのものが異常だったのよ」
ノーラが語るように言った。
「沈黙課は語られない者。その存在に名がついたとき、塔はそれを“例外”として認識する。
そして、“記録庁”が動き出す」
「沈黙の中に名前を刻むなんて……それだけで、“規則違反”なんだね」
リナが少し顔を曇らせる。
「でも、それが俺の語りだ」
フィンが拳を握る。
「語られない命に、名前を与える。
そのことで、“語っていい世界”を取り戻す。
それが、俺にできることだって……ようやく分かった」
その瞬間、足音が響いた。
塔の方向から――いや、王都本庁の中枢から、使者が現れたのだった。
ローブ姿。記録庁の紋章。
だが、沈黙課とは違い、その装いは明らかに“公式”のものだった。
長身で、女性。
ゆるく束ねた銀髪に、黒曜石のピンが輝いている。
彼女の名は――
「……ミレナ・フロイライン」
ノーラが小声で告げた。
「記録庁第一記録区所属、“記録の塔”の主任監理官。
……語りの適正判断と分類裁定を司る、“語りの門番”」
ミレナは足を止め、無言で一礼した。
その所作は、どこか古風で、美しかった。
「あなたが、フィン・グリムリーフですね」
静かな声。
だが、心に深く届く声だった。
フィンは頷いた。
「記録庁本庁より通達があります」
ミレナが告げる。
「あなたが語った語り、“黙殺者への命名”、および“未登録語り技の使用”に関し、記録庁は現在、“観察分類”への一時登録を決定しました」
「……記録されたってこと?」
リナが反射的に言う。
「正確には、“記録すべきか判断中”です。
……つまり、“存在してもいいか”を審議している段階」
「そんなこと……」
フィンは低く言った。
「語った時点で、それはもう存在してるんだ。
語った人間がいて、聞いた人間がいる。
それだけで、十分だろ」
ミレナは、わずかに目を伏せた。
「私は記録を裁く者であって、信じる者ではありません。
けれど……あなたの語りが、塔を動かしたのは事実です」
そして、彼女は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
その封には、金の印章が押されていた。
「これが、正式な通達文です。
“フィン・グリムリーフに対し、語りの初期適正調査および記録分類会議への臨席要請”――」
ノーラが声を潜める。
「……それって、“語りの資格者”として正式に審査されるってことよ」
「逆に言えば、“資格がない”と判定されたら?」
リナが問う。
ミレナは、少しだけ表情を曇らせた。
「その場合、“語ったという記録自体が無効化”されます。
記録庁が認めない語りは、国の歴史からも除外される。
……いなかったことになるのです」
「――ふざけるなよ」
フィンの声が震えた。
「俺の語りは、誰かを救うためにあった。
語られなかった命に、もう一度意味を与えるためだった。
それを、“認められるかどうか”で決めるって……誰が、そんな力を?」
ミレナは、わずかに首を横に振った。
「私ではありません。
……でも、あなたが“語りで世界を動かす覚悟”があるのなら、
記録庁の中に入る価値はあるでしょう」
「塔の中に……?」
「はい。
――“語りの中枢”に踏み入る者として、あなたに残された猶予は、もう多くありません」
銀髪の女は、歩き出した。
背筋を伸ばし、王都の記録庁本庁へと、まっすぐに――。
その背中を見送りながら、フィンは呟いた。
「塔に上る。
誰かの命が“なかったこと”にされる世界を、
……終わらせるために」
その言葉は風になって、倉庫の壁に刻まれた誰かの“語れなかった記録”にそっと触れた。
そして、その瞬間――
塔の最上層、まだ誰も知らぬ“語りの座”で、
もうひとつの記録が、静かに動き出していた。
塔が動きました。
それは、「語られた」という事実が、もはや無視できないものになった証。
誰かが名を持たず消えたこと。
語られなかった想いが、力を持ち始めたこと。
フィンは、その“語れなかった記憶”に向き合う覚悟を固めました。
次回から、物語は記録庁本庁編に突入します。
フィンの語りは、制度の中で試され、
“王と呼ばれた男”が、どんな記録を残すのか――
どうぞご期待ください。
物語を「面白い」「続きを読んでみたい」と感じていただけましたら、
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読者の皆さまの声が、作者の筆を進める大きな原動力になります。
どうか応援のほど、よろしくお願いいたします。




