34話:声を失くした町
“語りの国”において、語ることが禁じられた村。
そこに残っていたのは、封印された帳簿と、“語らせない者たち”の影。
第34話では、フィンたちが“語りを奪う者たち”と初めて真正面から向き合い、
その矛盾と不条理に対して、“語りで返す”選択をしました。
語れない村に落ちた一つの名前――
それが、風を変え、沈黙に揺らぎをもたらした物語です。
朝靄を割って、一条の道が続いていた。
森を抜け、低い丘を越えた先に、次の集落が見えてくる。
かつて王都の巡回詩人がたびたび訪れたという、“記録協力村”。
語りと記録の文化が根づいた、はずの場所。
だが、門をくぐった瞬間――空気が、明らかに違った。
「……静かすぎる」
ノーラが立ち止まり、警戒の視線を村の中心に投げる。
確かに、物音がない。
人の気配はある。
炊煙も、干された洗濯物も見える。
生活の痕跡はあるのに、“声”だけが消えていた。
「……昨日までの、あの沈黙の村と似てる」
リナが呟いた。
フィンは無言のまま歩き出し、村の通りをゆっくり進む。
道端の花壇は手入れされ、家畜の鳴き声が遠くから聞こえる。
壊れた家もない。破壊の痕跡もない。
ただ、誰も挨拶をしない。
誰一人、言葉をかけてこない。
扉の隙間からこちらを窺う目があるのに――口が開かない。
「語ることを……恐れている?」
その仮説を確かめるように、フィンは一軒の家の前で足を止め、
「失礼します」と柔らかく声をかけた。
――返事はない。
だが、扉がすっと閉じられる音がした。
「会話すら禁じられてるのかもしれない」
ノーラが言った。
「でも、誰が?」
リナが、通りの掲示板の端に視線を向けた。
そこに貼られていたのは、王都の公式な布告ではなかった。
記録庁分室の名を冠した、粗雑な木札だった。
《本村における語り・記録行為は、当面の間停止とする。
違反者は聴取のうえ拘束対象とする。
――記録庁分室第3管理課》
「記録庁……?」
リナの声に、明らかな困惑が滲んだ。
「でも、記録庁って“語りを推奨する”側だよね? なんで逆のことを……」
ノーラは板の裏面を確認し、低くつぶやく。
「これは、地方の分室が勝手に出してる文書。
本庁の発行番号がついてない。……命令というより、“現地裁量”の処理」
「つまり――“記録庁の中で動いてる、別の意思”があるってことか」
フィンが静かに言う。
国家を支える語りの制度。
命を記録し、存在を保証するはずの機関。
その一部が、“語らせない”という選択をしていた。
「これはもう、偶然じゃない」
「誰かが、意図的に“語りの網目”をほつれさせてる」
リナがうつむく。
「語らなければ、存在しない――はずだったのに、
今は“語ったら消される”って、逆になってるよ……」
そのときだった。
裏路地の奥から、かすかな足音が聞こえた。
誰かが、フィンたちの存在に気づき、そっと逃げようとしている。
フィンがそっと目配せし、ノーラが静かに動く。
リナが背後を固め、追わず、ただ“待つ”。
すると、小さな影がそろそろと姿を現した。
「……あの……きこえた、から……」
それは、小さな少年だった。
痩せた体に泥のついた服。
けれど目だけは、大人のように深く濁っていた。
「おじいちゃんが、もう“語っちゃダメ”って言った。
……だから、みんな、怖くて黙ってる……」
「誰が“語っちゃダメ”って言ったのか、知ってるか?」
フィンが膝をついて、目線を合わせた。
少年は、ゆっくり首を振った。
「……知らない。でも、“黒い人”が来てから、
誰も、名前を呼ばなくなった」
黒い人。
記録に残らない命令を持ち、語りを封じる影。
ノーラが目を細める。
「……あいつら、記録庁の“外”の存在じゃない」
「庁内の誰かが、“別命”を使って現場を支配してる。
上からじゃなく、下から国を沈黙させていく方法で」
フィンはゆっくりと立ち上がった。
語らなければ存在しない、という常識は――
今や、“語れば消される”という恐怖に塗り替えられようとしていた。
だからこそ。
今こそ。
語らなければならない。
「次は、記録庁そのものに踏み込む必要がある」
フィンの声に、ノーラもリナも、躊躇なく頷いた。
少年が不安そうに見上げる。
フィンは微笑んで、優しく言った。
「名前は、大事なものだ。
語るってことは、“生きてる証”を渡し合うことなんだよ」
少年はしばらく黙ってから、
「……ぼくの名前、“ライカ”っていうの」
と小さく答えた。
それは、この町に生まれた最初の語りだった。
そのひと言が、風を変えた。
語りは、まだ――消えていない。
少年――ライカは、しばらく口を噤んでいた。
けれど、フィンが「ありがとう」と笑顔で返した瞬間、わずかに頬を赤らめた。
「……こっち、来て。たぶん、まだ誰もいないから……」
ライカは小さな足で、村の裏手にある倉庫へ案内した。
畑の道を迂回し、誰にも見られないように木陰の下を縫うように歩くその姿は、明らかに“日常的な隠れ方”だった。
「……どのくらい前から、誰も喋らなくなった?」
リナがそっと尋ねる。
「ずっと前、じゃないと思う。
でも、“黒い人”が来てから、おとなたち、すごく怖がって……」
「黒い人って、どんな姿だった?」
ライカは立ち止まり、木の枝を拾って地面に描いた。
頭巾。長衣。顔は見えない。
そして、左腕には“短剣の紋章”。
それは記録庁の正式な印ではなかった――が、ノーラは眉をひそめる。
「それ、もしかして……“補助観察課”の古い印かもしれない」
「でも、その課は廃止されてるはずじゃ……?」
「うん。十年前に本庁統合されてる。……だから、正式には“存在してない”はず」
存在していないはずの課の印を持った者が、
村の語りを封じていた。
「ライカ、案内してくれてありがとう。
このあとは僕たちがやる。危険かもしれないから、家に戻って」
フィンが穏やかに言うと、少年は黙って頷いた。
「……ぼくの“ことば”、守ってくれてありがとう」
そう言って、小走りで帰っていった。
彼が消えたあと――ノーラが背中越しに言った。
「……ああいう子に語らせることで、“存在”をつなぎとめられるのが、この国だったのに」
「今は逆だ。語らせたら消される。
語りが、生存権じゃなく“危険信号”に変わってる」
倉庫の扉を静かに開けた。
中は薄暗く、埃の匂いと古い紙の酸化した臭いが充満していた。
本来なら農具があるべき棚に、並んでいたのは――“語り帳”だった。
それは、かつてこの村で交わされた名前、記憶、言葉の記録。
だが、そのすべてに“黒いインク”が塗られていた。
名前の上から墨が引かれている。
ページごと破られている箇所もある。
物理的に“記録を無効化する処理”が徹底されていた。
「……記録抹消。文書封印。……これはただの封印じゃない。
“二度と語れないようにする”ための処理だ」
ノーラが低く言う。
リナが震えた手で、破かれたページを拾い上げる。
そこには、かろうじて残った言葉があった。
――「ライカは、歌がうまい」。
それだけだった。
「子どもの……歌を、“記録から外した”の……?」
リナがかすれた声を漏らす。
フィンは黙って、そのページを手に取った。
破れた端が、風に揺れ、わずかに音を立てる。
「語る価値があるかどうか、決めるのは――“語り手じゃない”ってことだ」
その瞬間、倉庫の外に、足音が落ちた。
重い。
規則正しい。
複数人。
「……来たな」
ノーラが窓の隙間から覗く。
「黒衣。……三人。片腕に“偽印章”。顔は見えない。
補助観察課の亡霊たちか――あるいは、“何者かの指揮下”にある動員組織」
「村の中を歩き、語り帳を探してる。
……たぶん、この倉庫に気づくのも時間の問題だ」
フィンは、一度だけ深呼吸した。
この国の語りは、希望だった。
でも今、その語りが――誰かの選別によって封じられようとしている。
「見つかっていい。むしろ、こっちから出ていこう」
フィンの声が低く響いた。
「語りを奪う者に、語りの力を見せてやる」
風薙の柄を握る。
剣を抜くためではない。
“存在の証明”として、その背にあることを告げるために。
「次は、“記録庁”に語らせる番だ」
倉庫の扉の前に、影が立った。
黒衣の人影――三体。
顔を覆い、紋章は曖昧に塗りつぶされ、ただ沈黙だけを纏っていた。
その動きに迷いはなく、戸口を塞ぐように位置取りしている。
「……無言、か」
ノーラが低く構えを取る。
「問いも、命令もない。ただ“いる”だけで、こっちの行動を封じるつもりだ」
言葉ではなく、“空気”で命令している。
語らずに、支配する。
語る力ではなく、語らない圧力。
フィンは剣を抜かなかった。
その代わりに、語った。
「この村は、声を失った。
お前たちが“語らせない”ことで、ここに生きた者たちは――“記録からも外れた”」
黒衣たちは、微動だにしない。
返事はない。
だが、一歩だけ詰めてきた。
「それで消せると思うな」
フィンの声が、倉庫の内部に響いた。
「記録されない命にも、“重さ”はある。
語られなくても、誰かが覚えてる。
忘れられても、誰かが拾って語り直せば――それはもう、消えない」
風薙の鞘が、かすかに鳴る。
黒衣たちは、応えるように片足を踏み出す。
一触即発。
ノーラが、そっと小太刀を抜いた。
リナが背後の帳簿と破かれたページをまとめ、懐に収める。
「語り帳の残滓、私が預かる。……命より重い記録になるかもね」
リナの声は震えていなかった。
黒衣の一人が、懐から“巻紙”を出した。
古びた羊皮紙。
そこに記されていたのは――
《抹消対象:外部語り手集団。観察継続中、発言権封鎖》
《命令者:空白》
命令者の記録が――空白だった。
つまり、“誰かの名を使っていない命令”ということだ。
「記録の国で、“誰が命じたかも書かない命令”なんて通るわけがない……!」
リナの叫びに、黒衣の一人がわずかに首を傾げた。
まるで、“記録されないことこそが正義”とでも言いたげな――冷たい肯定。
「語らなければ、誰も責任を取らずに済む。
“語られない正義”ほど、都合のいいものはない」
フィンの声に、黒衣の一体が一歩だけ下がった。
そして、背後から四体目が現れる。
黒衣――ではなかった。
それは、王都風の装束に身を包んだ、若い男だった。
「記録庁……?」
ノーラが低く問いかける。
男は頷かない。ただ、静かに語った。
「……語りの限界を、我々は見てきた。
語ることで生まれる暴力、語ったことを盾にする者たち。
だから、“語られないことこそが秩序”だと、私は学んだ」
「……その秩序で、村が滅びてるんだぞ」
フィンが食い下がる。
「語らないことは、誰も守らないことと同じだ」
男は静かに首を振る。
「記録庁本庁は、もうすぐ機構改革を迎える。
“語る価値のある者”と“語る価値のない者”の選別が進んでいる。
我々は、“先行して秩序を適用している”だけだ」
ノーラの目が鋭くなる。
「つまり、今の記録庁はもう、“記す”機関じゃないんだ。
“語る者を選ぶ側”に回った」
「それでも俺は、語る」
フィンが踏み出す。
「俺は、“語りの力”を信じてる。
誰かの名を、誰かが呼んでやる。
そのことに意味があると信じてる。
それがなくなったら――この国は、ただの“数字と命令の墓場”になる」
黒衣の男は、数秒の沈黙ののち――笑った。
「ならば、語ってみせろ。
記録に残すことすら拒否されているお前たちが、どこまで届くか」
それを最後に、男は背を向けた。
黒衣たちも一斉に撤退し、沈黙のまま村の奥へと消えていく。
ただ、その背中には――“監視の目”ではなく、“警戒の気配”があった。
「……語りが、脅威になってきてる。
だからこそ、奴らは先に“黙らせ”に来た」
ノーラの言葉に、誰も反論しなかった。
語る力を、奪われた村。
語る者を、裁こうとする組織。
そして、記録庁という巨大な機関の“ひび割れ”。
「……語られることを恐れてる奴が、今この国を動かしてる」
フィンが呟いた。
「だから、俺はもっと語る。
もっと、名を呼ぶ。
語り継ぐ。
たとえそれが、“王に逆らうこと”になったとしても――」
黒衣たちが去ったあと、村には沈黙が残った。
でもその沈黙は、先ほどまでのものと“質”が違っていた。
“支配による沈黙”ではない。
“問いが生まれたあとの沈黙”だった。
フィンは風薙を背に収め、軽く息を吐いた。
全身が汗ばみ、喉が乾いている。
「……語るって、重いな」
その呟きに、ノーラが応えた。
「でも、語らないままでいれば、きっともっと重くなる。
言葉があれば、人は自分で自分を救える。……少しだけでも」
リナが荷を置き、帳簿の破片を広げていた。
その中に、ひときわ細かい文字が残る一頁があった。
“市場の角で歌ったあの日、ライカがくれた花はまだ枯れない”
誰かの小さな、ささやかな語り。
けれど、確かにそこには命があり、関係があり、愛情があった。
「……この一行だけで、十分だよね」
リナがぽつりと言う。
「これだけで、“生きてた証”になる。
そして、その証を語る人がいれば……それはもう、消せない」
そのときだった。
村の中心部――長屋の屋根の上から、歌声が落ちた。
「びゅーんととぶぞ、かぜなぎくん♪」
「きゅーんとささるぞ、ことばのつるぎ♪」
あの歌だった。
子どもたちがリフレアの町で歌っていた、ふざけた祝詞のような唄。
語りと遊びの境界線が曖昧な、でも確かに“命に届いた歌”。
「……ライカだ」
リナが立ち上がる。
屋根の上には、ライカがいた。
満面の笑みで、腕を広げて風を受けながら、歌っていた。
「こわいものでも ひとことかたれば――」
「おともだちー♪」
その声に、村のどこかで軋んだ扉が開いた。
さらにもうひとつ。
そして、窓がひとつ、開く音。
「……ひとり、だけじゃない」
ノーラが目を細めて周囲を見渡す。
屋根の下で、老女が手を合わせていた。
口を動かしている。
声にはなっていないけれど、確かに“口ずさんで”いる。
そして、通りの奥から、小さな声が――。
「……“きゅーんとささるぞ、ことばのつるぎ”……」
声のバトンが繋がる。
誰もが“名前を呼ぶ”ことを恐れていた村で、最初に呼ばれたのは、
フィンでも、記録庁でもなく――「かぜなぎくん」だった。
語りの剣。
誰かが語った武器の名が、笑いとともに歌われ、
そしてそれが、村の“再起動スイッチ”になった。
「……くだらない歌だって、思ってたけど」
リナが笑った。
「でも、こんなふうに誰かを救えるなんて、思ってなかった」
「語りは、そういうもんだよ」
フィンが答えた。
「格好よくなくていい。正確じゃなくていい。
でも、“覚えてる”ってことを伝えられる。……それが、生きてる証になる」
日が差し込む。
薄曇りだった空に、一瞬だけ光が射し込んだ。
扉がまたひとつ開く。
そして、誰かが庭先に出て、ほうきを手に持った。
当たり前の日常。
けれど、その一動作が――“語り”だった。
言葉はなくてもいい。
動作が語る。
視線が語る。
そして、記憶がまた、誰かの中で息を吹き返す。
「……また、誰かが“消される語り”をしようとしたら」
ノーラが言う。
「私たちが、それを“拾って語り直す”番ね」
「うん」
フィンがうなずいた。
この国では、語ることが力であり、同時に責任でもある。
だからこそ、力を持つ者が“語り”を独占してはいけない。
語りは誰のものでもない。
生きているすべての者が、持っているものだ。
風が通る。
もう、あの重たい沈黙の風ではなかった。
「フィン!」
背後から、ライカが走ってきた。
「ぼく、また歌うね。
今度は、みんなで歌える歌、作ってみる!」
「じゃあ、次はお前が“語り手”だな」
フィンが笑って言った。
「語るって、誰かの声を受け取って、それをまた渡すことだからさ。
……お前の番だよ、ライカ」
少年は大きく頷いた。
村は静かに息を吹き返しつつあった。
声はまだ小さい。
でも、それは確かに“希望の音”だった。
声を失った村に届いたのは、子どもの歌。
誰かが記した“くだらない祝詞”が、結果として村の命を繋ぎました。
語りは、完璧でなくていい。
間違っていても、ふざけていても――
“想いが届く”なら、それは剣よりも強い。
語ることを恐れていた人々が、再び口を開き始めたとき、
フィンの中でも“語りとは何か”という問いに、ひとつの答えが灯りました。
次回、物語は再び王都へと向かいます。
記録庁の中で蠢く“真の沈黙”と、フィンたちの“次の語り”に、どうぞご注目ください。




