32話:沈黙の先にあるもの
王都を離れ、語りを封じた剣として歩き始めたフィンたちが出会ったのは、
“語られなくなった村”でした。
そこに残っていたのは、名もない記憶、消された足跡、そして――語ることさえ奪われた敵。
語られぬ命と、語らせぬ意思。
どちらも“名”を持たないからこそ、フィンは剣を抜きました。
第32話は、ただのバトルではありません。
「語れないことを、どう記すのか」
そんな問いが、彼の胸にひとつ深く刻まれた回です。
乾いた風が吹いていた。
王都を離れ、数日。
街道を外れた小道は、舗装もされていないむき出しの大地へと変わり、
踏みしめるたびに草と土の匂いがわずかに立ち上がる。
背負った風薙の重みが、いつもより身体に食い込む気がした。
剣は重くなったわけではない。
だが、“語りを捨てて剣を選ぶ”と口にしてから、世界が少しずつ違って見える。
言葉を吐かない分、感覚が研ぎ澄まされているような、そんな緊張。
歩くたびに、靴の底から伝わる地面の感触が濃くなった。
その一歩一歩に、理由を問われている気がする。
“お前はなぜ、ここに立っている?”と。
(理由なんて、もう一つしかない)
誰かを救いたい。
それはたぶん、語りのときと変わっていない。
だが今は――“届かない声”を、無理に言葉で追いかける気はもうなかった。
語れなかった命。
語っても救えなかった命。
語ることで自分が救われたと錯覚しただけだった命。
「……この道の先だ」
フィンが呟くと、後ろからノーラとリナの足音が静かに重なった。
「前の集落からの報告だと、しばらく人の出入りはない」
ノーラが言った。
「家畜も餌を求めて逃げ出した形跡がある。
匂いの散り方を見る限り、獣に荒らされたのは最近じゃない」
「じゃあ、中にまだ人が……?」
リナが声を落とす。
「生きていれば、だ」
フィンはそのまま歩を進めた。
背の高い草を押し分け、森と畑の境界線を抜ける。
そこに広がっていたのは、名前も記録も持たない、小さな村の影だった。
草屋根の家が並んでいる。
だが煙は上がっていない。
水路も枯れ、畑には雑草が生い茂っている。
だが――“崩れてはいない”。
焼け落ちたわけでも、踏み荒らされたわけでもない。
そこにあったのは、“音もなく止まった生活”だった。
「……妙だな」
フィンが立ち止まった。
「こんなに静かすぎる」
ノーラも周囲を見渡しながら、眉をひそめた。
「生活感は残ってるのに、まるで“人の気配”だけが丸ごと消えてる」
「語られなくなった村」
フィンは、かつて記録庁で聞いた言葉を思い出す。
――“語られない者は、存在しなかったも同じ”。
――“名が記録に残らなければ、地図からも消えていく”。
そうした“消滅”を、人為的に起こせる者がいるのだとしたら――
フィンは背中の風薙を握った。
語りではない。
ここで必要なのは、名前を呼ぶことではなく、“何が起きたのか”を暴く意志。
「リナ、物資倉を見てくれ。
ノーラ、村の外周に痕跡がないか確かめて。
俺は……この村の中心を見てくる」
ふたりは無言で頷き、すぐに散った。
その素早さが、逆にこの静寂の異常さを物語っていた。
フィンは一人で、村の広場へ向かった。
かつて祭りや告知が行われたであろう掲示板には、何も貼られていない。
破かれたわけでも、剥がされたわけでもない。
――初めから、何も“語られなかった”。
掲示板の隅に、ひとつだけ木の人形が置かれていた。
それは――小さな剣を背負った子どもの姿。
フィンは静かにしゃがみ込み、それを見つめた。
(語られずに消えた者たちを、今度こそ“記す”)
それが、自分がここに立つ理由。
王様でも、英雄でもなくていい。
“語られなかった”命を、せめて自分だけでも、覚えていたい。
村の中心に立ったフィンは、風の動きを確かめるように目を細めた。
枝葉は揺れていた。
だが、空気には“音”がない。
鳥も、虫も、家畜すら鳴かない。
まるで、ここだけが“時を抜かれた空間”のようだった。
背後から足音。
振り返ると、リナが戻ってきた。
「食料庫、開いてた。……中には何も残ってない。
でもね、荒らされた形跡はないんだ」
「持ち出された?」
「たぶん。袋の紐がちゃんと閉じられてて、棚も整ってた。
乱暴に持ち逃げした感じじゃない。……まるで、誰かがきちんと整理して出て行ったみたいに」
続いて、反対側からノーラが戻ってきた。
「家畜の柵の外に、複数の足跡。軽装の兵士だな。
靴底の擦り方、隊列の間隔、村に入った痕がある」
「誰かいた?」
「……“いなかったように見せた跡”がある。
火も使わず、物も壊さず、痕跡だけを消していった。
でも、完全には隠せてない。地面に小さな裂け目が残ってた。
――“語られたくなかった者”の、退路の跡だ」
フィンはゆっくりと息を吸った。
仄かに、焦げた木材の匂いが混じっていた。
(確かに、誰かがここにいた)
(そして――誰かが、“何もなかった”ように仕立てた)
「ノーラ、リナ。……広場の井戸を見てくれ」
ふたりが動く。
フィンはその隙に、人形のあった掲示板の裏へ回った。
そこに――ひとつだけ、文字が刻まれていた。
《ミナミの森に いった あのひとたちは もどってこない》
震える筆跡。
子どもが、小さな指で彫ったような浅い傷。
それは“語られなかった命”の、唯一の証言だった。
「フィン!」
振り向くと、ノーラが井戸の底を覗き込みながら手招きしていた。
リナが手鏡を持ち出して、井戸の中に陽を反射させる。
「見える?」
光の中、フィンの視線がとらえたのは――
割れた木桶。その底に沈んでいたのは、小さな金属片。
記録庁の印が入った、携帯用の識別タグだった。
「……記録庁の人間が来ていた?」
「でも、連絡はなかった。村ごと“沈黙”させられた可能性がある」
ノーラの言葉に、リナが顔をしかめた。
「でも、それって……国家の中で誰かが、“記録されない処理”をやってるってことじゃ……」
「あるいは、記録庁以外の――何か」
フィンは風薙の柄に触れた。
再び沈黙が落ちた。
語れないまま、誰かが“消された”かもしれない村。
その足元に、かすかに“戦の気配”が残っていた。
そして、木陰の奥で――何かが、こちらを見ていた。
風が、止まった。
空に浮かぶ雲が厚くなり、日差しが隠れたのではない。
空気そのものが――動きを止めたように、沈黙に包まれていた。
リナがわずかに肩を震わせる。
普段は屈託のない声で仲間を和ませる彼女の唇が、固く結ばれていた。
ノーラが手を伸ばし、腰の小太刀に軽く触れる。
音を立てないように、しかし確実に“構える”。
フィンの目もまた、広場の先――風車の影の先にある“何か”を見据えていた。
「……感じるな」
ノーラが言った。
「いる。確実に。……見てる」
「でも姿がない」
リナが低く返す。
気配はある。
しかし足音はない。
動く音も、息づかいもない。
まるで“そこに気配だけが存在している”かのようだった。
フィンは剣に手をかけた。
風薙――風の記憶とともにあるその剣が、手のひらに冷たく馴染む。
言葉はいらない。
いま必要なのは、“語られない存在”に対して、どう向き合うかだけ。
「来るぞ」
ノーラが先に動いた。
次の瞬間――空間が“きしんだ”。
風車の影から、黒い影が飛び出した。
いや、“飛んだ”というより、“現れた”という感覚に近かった。
黒装束。
顔を覆い、目だけが見える。
無音で着地したその者は、明らかに“気配を殺す訓練”を受けた者だった。
「接触」
ノーラの声とともに、空気が割れた。
彼女が踏み込む。
小太刀が、影の腕をはじいた。
刃と刃が交差する音が、ようやく沈黙を破った。
フィンは動かない。
いや、動けなかった。
“敵”の目を見ていた。
そこには、怒りも、悲しみも、使命感もなかった。
ただ――“命令されたことだけを実行する”という機械のような意志。
それは、フィンがかつて向き合ってきた“語りかければ届く誰か”とはまったく別種の存在だった。
「語りが……通じない」
思わず口に出た。
敵は何も言わない。
戦いに意味を求めるでもなく、名乗りを上げるでもなく、
ただノーラを排除しようと機械的に剣を振るう。
その無音が、逆にフィンの心を締めつけた。
(語れない相手――)
(いや、語る気のない相手――)
この国の片隅で、
誰にも知られずに人を消し、語られぬまま村ごと沈めた“何か”。
それと今、剣で向き合っている。
「フィン!」
リナが叫ぶ。
もう一人、別方向から黒装束が現れた。
今度はフィンの背後。
迷いはない。
風薙が抜かれる。
空気が裂けた。
風とともに、剣が走る。
“語るためではない”。
“救うためでもない”。
ただ――“斬るため”。
剣が、風の記憶をまといながら、沈黙を断ち切った。
斬撃のあと、黒装束の男は一歩、退いた。
感情はない。
それでも、フィンの剣に一瞬だけ“目”を向けた。
その刹那、確かに何かが揺らいだ。
心ではない。命令でもない。
“記憶”が、風に触れて、軋んだ。
(こいつらにも、語れる過去が――)
その思考を振り払う。
今は、剣の時間。
語りは、あとでいい。
「全員、集中。敵は複数。隠密型、殺し屋だ。
意図は不明――けど、“記録されない殺し”をしてくる連中だ」
ノーラが頷く。リナが武器を構える。
語られない村。
語られない敵。
語られない戦い――
だが、ここで彼らが“生き残る”ことができれば。
それが、“語るための第一歩”になる。
敵は三人いた。
それが分かったのは、風の流れが変わったからだ。
一人は正面――ノーラと交戦中。
一人は左から、リナの弓を警戒しつつ間合いを探っている。
そして最後の一人が、フィンの正面、わずか十歩の距離に立っていた。
「……距離、詰めてくるぞ」
ノーラが短く告げる。
同時に、小太刀の刃先で火花を散らし、相手の懐へ踏み込む。
カツン――!
刃と刃が交錯し、鋼が鋼を削る音が走る。
フィンの目は、正面の敵を見据えていた。
構えは低い。利き腕は右。脚の重心は左。
動きは柔らかいが、迷いがない。
――“戦闘に特化した殺し屋”。
この相手に、語りは届かない。
名前も、信念も、記憶も、捨てたか封じたかしてここにいる。
ならば――斬るしかない。
フィンは、一歩、踏み出した。
風が足元を巻き上げる。
「風詠・連奏斬――!」
剣が三連に閃く。
風を滑るような斬撃が、間断なく敵へ迫る。
だが、相手もただの暗殺者ではなかった。
軽く身体を沈めると、斬撃をすべて“紙一重”で受け流し、逆にカウンターを狙ってくる。
シュッ――!
空気を裂くナイフ。
フィンは上体をひねり、足で草を踏みしめて避ける。
続けて飛び込んできたのは、蹴りだった。
沈み込んだ体勢から跳ね上がるような回し蹴り――
予想よりも重く、力のある一撃だった。
「……語らないくせに、熱があるな……!」
受けた衝撃で足が滑りかけた。
だが同時に、敵の脚を踏み込むように捉え、剣を横一文字に振る。
「風語・響断――ッ!」
空気が爆ぜた。
風薙の軌道が、風を巻き込み、低い衝撃波となって広がる。
敵の動きが、一瞬だけ鈍った。
その隙を見逃さず、フィンは一気に距離を詰め――斬りかかる。
だが――。
敵の目が、こちらを見ていた。
“感情のない目”ではない。
ほんの一瞬――ごく僅かに、“何か”が宿っていた。
(こいつにも、何か……ある?)
迷いが生まれる。
そして――その一瞬が、命取りになる。
ガッ――!
剣が止まった。
敵のナイフが、フィンの剣の軌道をずらすように受け流す。
フィンの頬を裂いて、風が鋭く通り抜けた。
「フィン!」
リナの叫びが飛ぶ。
だが、次の瞬間。
ノーラの小太刀が、別の敵の肩口に食い込んだ。
「一対一なら――そっちの方が得意なんだ」
その言葉が、フィンを呼び戻した。
迷っている暇はない。
ここで殺されれば、名もない死者と同じだ。
この村のように、語られないまま、ただ消えるだけ。
ならば――
「……俺は、語るために、生き延びる!」
風薙を振り上げる。
「風印・王名ノ一閃――!」
風が砲弾のように集中する。
剣先に重ねられた“王の名”など、フィンは今は気にも留めない。
けれどその斬撃には、“ここで終わらせない”という覚悟だけがあった。
斬った。
敵は避けきれなかった。
風の軌道に飲まれ、刃を受けた肩口から後方へ飛ばされる。
無音で倒れたその身体は、起き上がらなかった。
それでも、最後の瞬間に見せた“目”だけが――忘れられなかった。
「語られない命を、斬った」
その現実に、フィンは呼吸を一つ、深く刻む。
語りが通じない相手。
語る前に斬らなければならない状況。
それでも、その命が、ただの“敵”で終わっていいのか――
その問いに、まだ答えはなかった。
戦いが終わる。
リナが矢を引き絞ったまま警戒し、ノーラは肩を上下させながら深く息を吐いた。
そして、フィンもまた、剣をゆっくりと納めた。
沈黙が戻る。
だが、その静けさは、村に漂っていた無機質なものとは違っていた。
今は、誰もが“言葉にならない何か”を抱えている沈黙だった。
「……あいつらは、語られることを拒んでるんじゃない」
フィンが、ぽつりと言った。
「語られる価値がないと思い込まされてるだけだ。
――だから、自分の名前すら、口にできない」
誰も返事はしなかった。
けれどその言葉は、確かに“ここにいた命”への最初の語りかけだった。
“語られない命”を斬るという行為。
それが、どれほど重たいことかを、フィンは肌で感じ始めています。
語りでは救えなかった。
だから剣を取った。
でも、剣を振るうことにもまた――語れぬ重みがある。
戦いは終わっても、記憶は消えません。
消せません。
誰かの名前が、命が、沈黙のまま消えていくなら――
せめて自分の中に、ひとつ“語れる形”で残していく。
そんな静かな決意を込めて、次回からは“敵の正体”に迫っていきます。
引き続き、どうぞよろしくお願いします。




