30話:風に歌えば、王の名を
子どもたちの笑い声の中で、ふと紡がれた言葉――“王様”。
それはただの冗談かもしれない。ふざけた歌の中の一節にすぎない。
けれど、語りは“意図しないところ”で根を張り、
やがて人の記憶に、伝承に、名として刻まれていく。
王都へ向かう途中、フィンは初めて“語られる側”になる瞬間と向き合いました。
風の中に、その兆しは静かに芽吹いていたのです。
春の陽が高く昇りきった昼下がり。
王都へ続く街道の途中、小さな村が静かに広がっていた。
名前のない集落。地図にも載らないような、道ばたにある吹き溜まり。
それでも人は住んでいた。家があり、畑があり、井戸があり――子どもたちの笑い声があった。
「……ここ、前に一度だけ通った気がするな」
フィンが呟いた。
「うん。あのときは、ほんの休憩だけしてすぐ出たよ」
リナが思い出したように言い、荷袋を軽く背負い直す。
道端には干した大根やトマトの皮が並び、ゆるく吹く風にひらひらと揺れていた。
石畳ではない、踏み固められただけの土の道。
その先に、小さな広場があった。
「なんか……声、しない?」
ノーラが足を止め、眉をひそめる。
かすかに、鼻歌のようなものが聞こえた。
風に乗って、それははっきりと耳に届いてくる。
「びゅーんと飛ぶぞ、かぜなぎくん♪」
「きゅーんとささるぞ、ことばのつるぎ♪」
「こわいものでも ひとことかたれば――」
「おともだち〜♪」
最後のフレーズで、数人の子どもたちが笑い声をあげながら地面に転がる。
その光景に、三人は思わず足を止めた。
「……なんだ、あれ?」
リナがぽつりと呟く。
「今、“かぜなぎ”って言ったよね……?」
ノーラが目を細める。
フィンは言葉を失ったまま、ただ広場を見つめていた。
子どもたちは、無邪気に遊んでいる。
年齢はおそらく五、六歳から十歳前後。
縄跳び、鬼ごっこ、空き箱で作った盾と剣。
――その中に、彼らの“歌”が溶け込んでいた。
「ことばのつるぎって、フィンのことじゃん……」
リナが呟くように言ったそのとき、ひとりの少年がフィンに気づいた。
「――あっ!」
少年の目が丸くなり、次の瞬間、村全体に響くような声を放った。
「かぜなぎくんだーーっ!!」
広場がざわついた。
子どもたちの視線が一斉にこちらに向き、数秒の静寂の後――歓声が上がった。
「ほんとだ! あのときのひとだ!」
「ことばのつるぎの人!」
「王様だーっ!!」
「……今、なんて言った?」
フィンが思わず口にした。
子どもたちは、一気に駆け寄ってきた。
笑顔。泥まみれの手。背の低い身体。
その中心にいた少女が、フィンのマントを指差して叫んだ。
「王様、また来てくれたんだね!」
「……いや、王様じゃなくて、俺は――」
フィンが否定しようとしたそのとき、別の子が続ける。
「お母さんたちが言ってたよ。
“あの人は風の王様みたいだった”って。
村を守ってくれて、すっごく静かで、でもかっこよかったって!」
リナとノーラがフィンを見る。
言葉ではないけれど、“まさか本当に言われてたのか……”という驚きが目に浮かぶ。
「王様〜、これうたって〜!」
「ねえ、かぜなぎくんの歌!」
「剣ふって〜!」
子どもたちは、遊び半分、本気半分の目でフィンを囲む。
フィンは、ただ呆然とその中心に立っていた。
“王様”と呼ばれたこと。
ふざけたようでいて、確かにそこに“伝説の芽”があった。
誰かが語った。
子どもたちが歌った。
言葉が歌になり、記憶になり、繰り返され――それが“風の王”という形をとり始めていた。
まだ称号ではない。
まだ認知でもない。
けれど、それは確かに「語り継がれたもの」の最初の形だった。
「俺は……王様じゃ、ないんだけどな」
フィンは、子どもたちの前でそう呟いた。
だけど、返ってきたのは笑い声と、
「じゃあ、“王様みたいな人”でいいよー!」
「“かぜなぎくん王様”!」
「王様ってことにしちゃおー!」
そう言って無邪気に笑う彼らの姿に、フィンはもう、否定の言葉を続けられなかった。
やがて、子どもたちは輪になって、また歌いはじめた。
「びゅーんと飛ぶぞ、かぜなぎくん♪」
「きゅーんとささるぞ、ことばのつるぎ♪」
「こわいものでも ひとことかたれば――」
「おともだち〜♪」
風が吹いた。
その風が、誰かの語った“王様”という言葉を、遠くへ、静かに運んでいくようだった。
陽が傾きはじめ、村の広場にも長い影が差していた。
遊び疲れた子どもたちが家へ戻り、残されたのは、どこか空気の抜けたような静けさ。
「……王様、ね」
リナが、誰に言うでもなく呟いた。
フィンは村の井戸の縁に腰かけ、膝に手を置いたまま、何も言わなかった。
表情には困惑も否定もない。ただ、風に当てられたように、どこか遠くを見ていた。
「笑って流すと思ってたけど、案外黙るんだな」
ノーラが手持ち無沙汰に短剣の柄を撫でながら言う。
フィンはようやく、小さく息を吐いた。
「……王ってのは、誰かを導く人だろ。
俺は、そんな器じゃない。ただ、語ってるだけで」
「でも、語り続けた結果が“王様みたい”って呼び方なら……それはそれで、ちょっと誇ってもいいんじゃない?」
リナの言葉には、からかいも混じっていたけれど、根は優しかった。
「フィンの語りは、誰かを立たせてきた。
……だったら、その姿を見て“王様”って言いたくなる気持ちも、分かるよ」
フィンは静かに目を伏せた。
子どもたちの歌が、まだ耳に残っていた。
「びゅーんと飛ぶぞ、かぜなぎくん♪」――
名を与えられるとは、こういうことなのかもしれない。
自分では望んでいなくても、
誰かが見た“姿”を、語るようにして。
「……子どもたちは、本気じゃない。ふざけてるだけだ」
「ふざけてたって、語りは語りだよ」
ノーラの言葉は、皮肉でも肯定でもなかった。
「言葉ってのは、想像以上に広がる。
子どもが言えば、親が笑う。親が笑えば、誰かに話す。
それが繰り返されるだけで、ただの呼び名が――称号になる」
“語り部の王”。
まだ誰も、そんなふうには呼んでいない。
けれどその種は、今、確かに蒔かれた。
風に乗って、根を張り、芽吹いていく。
「王都に入ったら、もっと多くの人と出会う」
フィンは立ち上がり、風薙の柄に手を添える。
「語られるってことの重さを、もう少し……受け止められるようになりたい」
「なら、まず“王様”って言われても顔を引きつらせない練習からだね」
リナが笑いながら、軽く肩を叩いた。
「風の王様、か……」
フィンが空を見上げる。
空は澄んでいて、風はどこまでも、歌のように軽かった。
村を発ったのは、午後の陽が少しだけ傾き始めた頃だった。
道端の影が長く伸び、風が木々を撫でるたび、草の先に宿った光がちらちらと揺れる。
小さな村は、何事もなかったように、また静けさを取り戻していた。
けれど、その静けさの中には、子どもたちの歌が、まだどこかに漂っていた気がした。
「びゅーんと飛ぶぞ、かぜなぎくん――」
リナが、誰にも聞こえないくらい小さく、口ずさんだ。
「覚えるなよ、それ……」
フィンが苦笑気味に言うが、リナは平然としている。
「いいじゃん。可愛い歌だったし。
あれ、たぶん王都の子たちにも広まるよ?」
「やめてくれ」
と言いつつも、フィンの頬はほんのわずかに緩んでいた。
道は、緩やかな登り坂に差し掛かっていた。
この丘を越えれば、王都の外壁が視界に入る――そんな場所。
ノーラが先頭を歩き、時折振り返って周囲を確認していた。
風が逆巻くたび、彼女の髪が舞い上がる。
「人の気配……今のところは、ない。
でも空気が違うな。都市の匂いが混じってる」
確かに、風が運んでくる匂いには、土と草だけではない、灰と金属の香りが混じっていた。
遠くから、馬のいななきと、鍛冶場の槌音のようなものがわずかに響いてくる。
王都の影が、もう近いのだ。
やがて、登りの道を抜け、丘の頂に出た。
そこからの景色は、思わず息を呑むほど広がっていた。
王都の城壁が、灰色の帯のように大地を切り取っている。
その内側には、何層にも重なる建物の屋根が、まるで波のように重なり合っていた。
遠くに見える中央塔は、まるで空を指す槍のようだった。
威圧感すらあるその造形に、フィンは自然と足を止めた。
「……でかいな」
ポツリと漏らす言葉は、語彙に乏しく、それでも十分だった。
「一度来たのに、そう思う?」
リナが横から問いかける。
「前は……ただ通り抜けただけだったから」
フィンは答える。
「でも今回は、ちゃんと“中に入る”つもりで見てるから、違って見える」
「今回は、“見られる側”にもなるんだろうしね」
ノーラが低く、だが鋭く言った。
誰かに見られる。
誰かに記録される。
誰かに、勝手に“意味づけ”される。
王都に足を踏み入れるということは、そういう場に入るということだ。
「行こう。どうせ立ち止まってても、壁の向こうは変わらない」
フィンは再び歩き出した。
風薙の柄を指先で確かめながら、道を踏みしめる。
草が揺れた。
その音にまじって、どこか遠くから、子どもの笑い声が聞こえた気がした。
「王様〜って、また呼ばれたりしてね」
リナが楽しそうに言う。
「頼むから、それだけは勘弁してくれ」
そう言ったフィンの背に、風が吹き抜けた。
王都へと続く道は、もう曲がることはない。
このまま進めば、すべてが始まる。
そしてきっと、何かが――語られる。
王都の外壁は、近づくにつれて“壁”というより“影”に見えはじめた。
高く、広く、厚い――まるで語られない過去が積み重なって石になったかのように、
その灰色の構造物は、静かに人々を迎え入れ、そして同じだけ拒んでいた。
門前には、既に旅人と馬車の列ができていた。
行商人が荷を下ろし、書類を見せながら、兵士に笑顔で話しかけている。
しかし、フィンたちが近づいたとき――その空気が、わずかに、変わった。
兵士の一人が、目を細めてこちらを見た。
その視線には、警戒でも敵意でもない、“すでに決まっていた”何かがあった。
「フィン・グリムリーフ、だな」
名簿を見ることもなく、兵士はそう告げた。
まるで、誰かが“この時間にこの人物が来る”と記してあったかのように。
「はい」
フィンは静かに頷く。
兵士は返事をしない。
代わりに門の内側へ手旗で合図を送る。
少しして――城門の内側から、ひとりの人物が姿を現した。
ローブの女だった。
紺色の、光を吸い込むような厚手の衣。
肩には王都の紋章、腕には記録庁の刺繍。
手には書類を収めた細長い革筒を抱えていた。
「……ようこそ」
女は、わずかに頭を下げた。
だが、その動きには礼よりも“確認”の重さがあった。
「王都・記録管理局より参りました。
フィン・グリムリーフ様。あなたの語りについて、複数の報告を受けております。
本日中に、記録庁へお越しください」
声は丁寧で、響きも穏やかだった。
けれど、言葉のひとつひとつが“決定事項”として並んでいた。
「……“お越しください”ね」
リナが小さく口元で繰り返したが、ノーラが無言で彼女の袖を引いた。
「わかりました」
フィンは、返答を選ぶ間もなく、自然にそう答えていた。
女はそれ以上の挨拶をせず、すぐに背を向けた。
まるで、挨拶のためではなく、“連れていくためだけ”に来た存在だった。
門が開く。
ぎぃ、と鈍い音を立てて、石造りの門扉が内側へ引かれる。
外の陽射しとは異なる、微妙に冷えた風が中から吹きつけてきた。
王都の空気。
それは整っていて、濁っていない。
けれど、どこか“人が作った空調”のような匂いがした。
「……圧がすごいね」
リナが低く呟く。
「監視されてる。目だけじゃない。……耳もだ」
ノーラが視線を動かさずに言う。
王都の中央通りは、人で賑わっていた。
荷車の車輪の音、売り子の声、行き交う貴族の馬車。
整然としていて、それでいてまるで芝居のように“用意された混雑”だった。
だが、その中でフィンたちは――異物だった。
目立たない装束のはずなのに、視線が集まる。
警戒ではない。好奇でもない。
ただ、“観察”という目。
まるで、すでに「記録の対象」として、彼らの姿が“分類”されているようだった。
フィンは歩きながら、自分の鼓動の音が妙に耳に響いていることに気づいた。
かつて、語ることで救った命。
語ることで泣かせた人々。
語ることで繋いできた、幾つもの縁。
――だが、ここではそれは“素材”でしかない。
語りを、記録し、仕分けし、保管する。
それがこの街の「語り」に対する姿勢なのだ。
「俺の語りは……分類されるようなものなのか」
そう呟きかけたそのとき。
リナがぽつりと答えた。
「分類されるのが嫌なら、自分で“名前”をつければいいよ。
あんたの語りにしかない、名前を」
ノーラは言葉を挟まなかったが、彼女の歩き方は変わらなかった。
何があっても、背を預けられる――その歩幅だった。
フィンは深く息を吸い、吐いた。
王都の空気は冷たく、しかし澄んでいた。
風薙の柄が、腰で軽く鳴った。
「……じゃあ、見せてやろうか。
“語られる前に、語った男”ってやつを」
記録庁の塔が、通りの先に見えていた。
まるで観測塔のように空を切り裂いて立つその建物が、
彼を“語りの標本”として迎え入れようとしている。
だが、その語りはまだ終わっていない。
終わらせてなど、やらない。
そう、これは――“語り部の王”と呼ばれるまでの、前日譚にすぎない。
そして、王都。
語りが制度に取り込まれ、管理される都市。
そこでは、フィンの“語り”も、名も、意志すらも、他人の言葉で書き換えられてしまうかもしれない。
それでも彼は、自分の歩んだ軌跡を、誇りを持って“語る側”として貫こうとしています。
“語られる前に、語った男”――
フィン・グリムリーフの名が、誰かの記憶に残り始めるとき、
それはもう、ひとつの伝説の始まりなのでしょう。
次回、第31話。
記録庁の扉が開き、彼の語りが「定義されようとする」場面が描かれます。
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