第3話:目覚める遺跡
異世界の遺跡で、ホビットの少年フィンが試される――。
第3話では、守護者との対峙、試練への“応答”、そして遺跡の奥へと導かれる流れを描きます。
癒しの力に頼るのではなく、自分の意志と言葉で前に進むことを選んだフィン。
その足取りが、彼自身の物語を確かに刻み始めました。
扉の向こう――
そこは、異質なほどに静かな空間だった。
石造りの床に、天井から吊るされた光の粒がふわふわと漂い、
それだけで部屋全体がほんのりと照らされていた。
外の風も鳥の声も届かず、まるで世界から切り離された“箱”のような空間。
「……まるで、誰かが作った“部屋”みたいだ」
フィンは足音を立てないように一歩踏み出す。
冷たい石の感触が靴越しに伝わり、その“確かさ”に思わず息を呑んだ。
壁には装飾も窓もない。
ただ、正面の広間中央に、ひとつだけ――
石の台座と、その上に置かれた黒い本があった。
表紙には金の文字で何かが記されている。
だが、それは見えているのに読めなかった。
言葉の形をしているはずなのに、意味が脳に届かない。
視線は掴んでいるのに、理解だけが素通りしていく。
「知ってるはずなのに……思い出せない?」
不思議な感覚だった。
まるで、記憶の深層にだけ届く言語のようだった。
フィンはペンダントの存在を思い出し、胸元に手を添えた。
ペンダントは小さく脈打つように震え、かすかに光っていた。
まるで、「進め」と言っているようだった。
彼が本に指先を近づけた、そのとき。
――ふっ、と風もないのにページが一枚、音もなくめくられた。
思わず後ずさる。
だが本は勝手に開かれたまま、中央に浮かぶような文字を映し出していた。
“記録を始動します”
その瞬間、台座の縁がじわじわと輝きを放つ。
床に刻まれていた文様もまた、連動するように淡く発光し始めた。
「な、なんだこれ……仕掛け?」
だが、金属や歯車のような構造はどこにも見当たらない。
これは――生きている。
まるで、この空間そのものが“意志”を持って目を覚ましているような錯覚。
耳の奥で、重低音のような“起動音”が響き始める。
規則的で、乾いていて、それでいて妙に心臓の鼓動と重なる感覚。
ペンダントの光が強まり、本のページがもう一枚だけ静かにめくれた。
その先に記されていたのは――幾何学的な図形とともに、見覚えのある印。
「……これは、扉の紋章と……同じ……?」
思わず息を呑む。
その瞬間、床全体が微かに震え、何かが目覚めようとしていた。
フィンは反射的に周囲を見渡す。
天井に浮かぶ光の粒が、ひとつ、またひとつと色を変え、空間全体の光度が増していく。
石の壁に淡く線が浮かび上がる。
幾重にも重なる魔法陣のような模様が、無音で広がっていく様子は、まるでこの空間が彼を受け入れて“準備”を整えているようだった。
そして、中央の台座がわずかに沈む。
“最初の記録者”として、彼は選ばれたのかもしれない。
そんな直感が、静かにフィンの胸に灯る。
台座が沈みきった瞬間、空間に“重さ”が満ちた。
空気が一変する。
柔らかく光っていた天井の粒たちは一斉に暗転し、代わりに床の文様が強い光を放ち始めた。
淡い青白い光が、まるで神経のように床を走る。
その中心――
フィンの目の前で、台座が沈んだ箇所から音もなく石の柱が競り上がる。
柱の表面には、見たこともない文字と図形が浮かび、淡く輝いていた。
(これは……何かの“起動装置”?)
目を見開いたそのときだった。
「――認証完了。試練を開始します」
無機質でありながら、どこか意志を帯びた声が空間に響いた。
フィンは思わず後ずさった。
台座の裏手、奥の壁が音を立てて開き始める。
石がせり下がり、奥から黒い影のようなものがゆっくりと姿を現す。
それは、鎧のような体を持つ“何か”だった。
人間に似た体格だが、頭部には顔がなく、代わりにひとつの楕円形の水晶がはめ込まれている。
まるで仮面のように表情がなく、その無機質さが逆に恐ろしさを引き立てていた。
「守護者……?」
そう思った瞬間、遺跡全体に再びあの声が響いた。
「第一段階試練:対話能力確認。戦闘回避不可時、起動者の資質を測定します」
守護者と呼ばれたそれが、静かに足を踏み出す。
その一歩ごとに床がわずかに揺れ、文様が光を強めた。
まるで、この遺跡そのものが守護者の動きに反応しているようだった。
フィンは咄嗟に身構えた。
武器はない。防具もない。ただ、体一つとペンダントだけ。
だが、そのペンダントが胸元で強く光り始めていた。
“逃げるな”――まるでそう言われているような光だった。
「……やるしか、ないのか」
心臓の鼓動が速くなる。
足が竦む感覚があったが、それでも後ろには退かなかった。
村での暮らしでは感じたことのない、自分の“意志”が背中を押していた。
守護者がもう一歩近づいた。
そして、右腕をゆっくりと掲げた。
カチリ――
腕の関節が回転し、内部から鋭い刃のようなものが伸び出す。
(来る――!)
その瞬間、フィンの視界が一閃の光に包まれた。
刃が振り下ろされる。間に合わない――そう思った。
が、何かが“鳴った”。
ペンダントが、悲鳴のように高く光を放ち、
守護者の刃がフィンの目前で止まった。
「……え?」
光の壁が、彼の前に展開していた。
透明な膜のようなバリアが、まるで彼を守るように浮かんでいる。
遺跡が反応したのか。ペンダントか。それとも、自分の意志か――
分からない。けれど、確かなことが一つある。
この場所は、フィンを“試している”。
刃が振り下ろされる直前、
フィンの目の前に出現した光の壁は、攻撃を防ぐだけでなく――
彼と守護者の間に“問い”を投げかけるようだった。
その透明な壁は、感情を帯びてはいなかった。
だが確かに、「応えよ」と告げていた。
刃を止めたまま動かない守護者。
空間全体が静まり返り、どこまでも冷ややかな緊張が満ちていた。
そのとき、天井から響くような機械音声が鳴り響いた。
「応答待機中。資質照合開始――カウントダウンを開始します。残り、30秒」
「資質……?」
突然の言葉にフィンは戸惑った。
状況は飲み込めていない。
だが、それでも直感だけは告げていた。
この空間は、彼の言葉を“待っている”。
「……俺が、どういう人間かってことか?」
沈黙が続く中、彼は深く息を吸い、言葉を絞り出した。
「俺は……ただ、この目で世界を見たいだけだ。
村の掟に縛られたままじゃ、何も分からない。
怖いし、正直、何も持ってないけど……それでも、俺は前に進みたい」
ペンダントが光を強めた。
まるでその言葉に呼応するように、胸元で震え始める。
「知りたいんだ。
世界の果てに何があるのか。
俺自身が、何者になれるのか――それを、知りたい」
その瞬間、空間が応えるように震えた。
守護者の胸部に埋め込まれた水晶体がゆっくりと明滅し、
床の文様が再び淡く輝き出す。
「応答完了。起動者の意志確認。資質分類:探求、行動、観察。すべて通過」
静かな機械音声が、空間に結果を告げた。
守護者はゆっくりと武器を収め、仮面のような顔を一瞬だけ彼のほうへ向けた。
そして、背を向けると、石の床へ吸い込まれるようにして沈んでいった。
フィンはその場にしばらく立ち尽くした。
まるで、自分の中の“弱さ”を、真正面から見つめさせられたような感覚。
だが同時に、それでも「言葉にして前に出た」自分を――ほんの少しだけ誇らしく思えた。
「通ったんだな……試練を」
誰に問いかけるでもなく、呟いたその声が、虚空に吸い込まれていく。
すると、床に刻まれていた文様の一部がゆっくりと消えていき、
代わりに部屋の奥――影に隠れていた壁が静かに開いた。
開いた先には、またしても扉があった。
だが、今度の扉には取っ手も鍵もなく、代わりに“記録”と書かれた文字が浮かび上がっていた。
「……記録?」
その言葉の意味は分からなかった。
けれど、ペンダントは再び淡く光り、扉の方へと脈打つような反応を示している。
フィンはゆっくりと足を踏み出した。
重い石の床が、彼の歩みに合わせて小さく鳴る。
扉の前に立つと、それは音もなく開いた。
中に広がっていたのは、書庫だった。
だが、村にあったような埃まみれの木棚ではない。
巨大な柱のように並ぶ石版、宙に浮かぶ文字、天井から垂れ下がる光の帯。
どれも見たこともない、不思議な“記録”の形だった。
「ここは……」
言葉を失ったまま、フィンはゆっくりと足を踏み入れる。
本でもなく紙でもなく、すべてが“空間そのものに刻まれた知識”のようだった。
ペンダントが再び反応する。
目の前に、ひとつの台座がせり出し、そこに半球状の装置が現れる。
「まるで……触れろって言ってるようだな」
慎重に手を伸ばし、装置に触れた瞬間――
脳裏に、膨大な“映像”が流れ込んできた。
空を翔ける船。浮かぶ都市。異形の獣。崩れた塔。
そして、光に包まれたひとつの人物が、手を伸ばしている。
「これが……世界……?」
情報ではない。記録でもない。
これは“記憶”だ。誰かの旅の痕跡。
それを感じ取った瞬間、フィンの胸に熱が灯る。
「――行こう。俺も、歩く側にならなきゃ」
そして彼は、記録の部屋の奥に開いた、新たな通路へと足を踏み出す。
旅の始まりが、今、確かに動き出した。
映像の奔流が止まったあとも、フィンはしばらくその場から動けなかった。
息を整えながら、浮かんだ光の残滓をじっと見つめる。
船のようなものが空を翔け、大地を裂く獣が吠え、塔の上から無数の光が降り注ぐ。
それは夢ではない。誰かが実際に見た“記録”――おそらく、この遺跡が集めてきた断片たちだ。
「……知ってる世界じゃない。でも……なぜか怖くない」
未知への恐怖よりも、知ることへの渇望が勝っていた。
あの世界を見たい。あの空を歩く人々に、自分もいつか届きたい。
その願いは、フィンの心の奥底に静かに根を張っていく。
ペンダントの光が収まり、石の台座が静かに引いていく。
そのとき、部屋の奥から“カチリ”と何かが動く音が響いた。
反射的に振り返ると、記録の部屋の壁の一部がわずかにずれ、縦長の裂け目のような隙間が現れている。
「……隠し扉?」
近づいてみると、確かにそこには細い通路が続いていた。
石の床とは明らかに違う――やや温もりを持った、不思議な材質の道。
何のために作られたのか分からない。だが、向こうから風が流れている。
「……行ってみるしか、ないな」
恐る恐るその隙間に身を滑り込ませる。
通路は人ひとりがやっと通れるほどの幅で、ほんのりと青い光が足元を照らしている。
いくつもの角を曲がり、少しずつ下りながら進むと、やがて開けた空間にたどり着いた。
そこには――何もなかった。
正確には、“何かがあった”形跡だけが残っていた。
砕けた台座。剥がれ落ちた壁の一部。
そして、中央には“誰かが座っていた”と分かるような、くぼみのついた椅子の跡。
「……何があったんだ、ここで」
廃墟と呼ぶにはまだ新しく、だが誰の気配も感じられない空間。
静まり返ったその場所に、かすかに“残響”のような何かが響く気がした。
――来るべき者が、ついに訪れた。
それは、誰の声でもなかった。
けれど、耳ではなく心に響いたその“感覚”は、フィンにある種の使命を植えつけるのに十分だった。
気づけば、彼の足元にひとつの“石板”が置かれていた。
丸く滑らかな表面に、先ほどの書庫で見た文字とよく似たものが刻まれている。
だが、今度は読めた。
『通過者へ:記録を継ぐ者、または、世界を観測する者。あなたはその入口に立ちました。』
「……観測者?」
その言葉の意味を探ろうとしたとき――
部屋の隅の壁に、次なる通路がゆっくりと開いた。
今度は明らかに“出口”だと分かる構造。
風が吹き込み、遺跡の外――もしくは、さらに別の空間へ続くと伝えてくる。
フィンは立ち上がり、深く息を吸った。
「俺は、“選ばれた”ってわけじゃない。けど――来てしまったからには、やるしかないよな」
そして、彼は通路の奥へと歩き出す。
探していたのは「世界の外」でも「神の力」でもない。
自分の目で“世界を知る”こと。
その足取りは、はじめて“恐れ”ではなく、“意思”によって踏み出されたものだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
この第3話では、フィンが“守られる存在”から“進む者”へと変わる姿を描きました。
遺跡の奥で触れた記録は、かつて世界を旅した者たちの記憶。
そしてフィンは、その意志を継ぐように、次の扉へ足を踏み出します。
次回、第4話では、いよいよ遺跡を抜けて、外の世界との本格的な接触が描かれます。
ホビットの少年の小さな旅が、やがて伝説となる日まで――。