29話:語られる者として
語る者であるはずのフィンが、初めて「語られること」に向き合う回となりました。
王都から届いた正式な要請は、“語り”という力を外部から定義しようとするものであり、
それはフィンにとって、自らの言葉を他者に委ねることを意味します。
道中に現れた“語りを拒む者たち”の存在は、物語の空気を静かに変え始めました。
これは、「語るだけでは届かない世界」がすぐそばにあるという予兆。
草の香りが濃かった。
朝露が葉の先に宿り、風が揺れるたびにきらりと光を落とす。
その一滴が、石畳のひびに落ち、音もなく消えた。
小道の脇に咲く白い花。
名も知らぬ、背の低い多年草。
その花に、フィン・グリムリーフは足を止めていた。
指先は動かない。
摘もうともせず、ただ視線を向けているだけ。
花びらは五枚。中心には、黄色い葯が小さく揺れていた。
風に押されるように傾きながら、それでも根は、土に踏ん張っている。
「……花、好きなの?」
少し後ろから、リナの声がした。
軽い調子だったが、真意を探る色が混じっていた。
「いや。ただ……なんで咲いてるのかな、って思ってた」
フィンは答えながらも、視線を外さなかった。
目の前にあるのは、ただの花一輪。
だがその“そこにある”という存在感は、妙に心を引きつけた。
「誰も語らなくても、気づかなくても……咲いてるんだよな」
その言葉に、リナは静かに隣に並んだ。
背中越しに見える小道は、まだ朝靄が残り、遠くの木々の輪郭を曖昧にしている。
「語られないって、存在しないのと同じなのかなって、考えてた」
ぽつりと、フィンは言った。
言葉の温度は冷たくない。むしろ、迷いが滲んでいた。
「王都の騎士団、帰るときに言ってたよね。正式な要請が届くって」
リナの声もまた、揺れていた。
目の前の花ではなく、フィンの横顔を見ているのが分かる。
「うん。……もうすぐだと思う」
「向こうが動き始めてるのは、間違いない」
その“向こう”という言葉の中には、まだ実体を持たない漠然とした不安があった。
語りを研究する王都。
“語る者”を記録し、管理しようとする気配。
そして、何より――語りが「使えるかどうか」で判断される空気。
それは、フィンにとって“語り”の根本を歪めるものだった。
「……語られるってのは、怖いな」
「語るのはあんたの役目じゃなかったの?」
リナの問いは、優しさを装った刃だった。
鋭くはないけれど、心の奥に触れる。
フィンは小さく息を吐いた。
白い花から目を離し、空を見上げた。
淡い光が雲間から差し込んでいた。
まるで、何かが自分に問いかけてくるような、そんな光。
「語ることはできるよ。でも、語られるのは……選べない。
“誰かの言葉”で、自分が形作られていく感覚。
それは……ちょっと、怖い」
「でも、それってきっと、悪いことばかりじゃないと思う」
リナは笑っていなかった。
まっすぐに、静かな声だった。
「誰かに語られるってことは、あんたが“そこにいた”って証になる。
ちゃんと、誰かに届いてたってことになる。
あたしは……そういうふうに語られたいって、思ってるよ」
その言葉に、フィンは言葉を返せなかった。
ただ、頷くには少しだけ時間がかかった。
道の先で、ノーラが立ち止まっていた。
背を向けて、景色を見ているようで、でもほんの少し、こっちに気配を向けていた。
フィンは一歩、前に出た。
風が、花を揺らす。
音もなく、地面の露を弾く。
「……もう少しだけ、考えてみるよ」
そう言って歩き出した背に、リナの「うん」という短い返事が追いかけてくる。
空はまだ高く、風は冷たくはなかった。
それでも――何かが、変わり始めている予感だけは、確かに胸にあった。
昼を過ぎたばかりの陽が、瓦屋根の影をじりじりと伸ばしていた。
宿場町の石畳には乾いた埃が舞い、風が通り抜けるたびに、木製の風鈴がかすかに揺れた。
その音は、どこか落ち着かない。
心をなだめるには不規則すぎて、耳にひっかかる音だった。
フィンは、宿屋の一角にある古びた郵便詰所の前に立っていた。
道中、たまたま立ち寄った小さな町――にもかかわらず、そこに彼宛の手紙が届いていた。
「お前が……フィン・グリムリーフさんかね?」
詰所の老人が、手の皺まで刻み込まれたような厚紙の封筒を取り出した。
しっかりと封蝋が押され、見慣れない刻印が輝いている。
受け取った瞬間、フィンは、微かな重さを感じた。
それは紙の重さではなかった。
“これから自分が踏み込むもの”の、空気ごと封じられたような重圧。
手袋を外し、封を切る。
紙の擦れる音が、耳にやけに響いた。
中にあったのは一枚の文書。
王都直属――情報統括局印。
丁寧すぎる文面。過剰な敬語。過不足ない“協力依頼”。
けれど、そのどれもが――まるで、温度がなかった。
「“語りによる特殊現象”……?」
リナが横からのぞき込み、眉をしかめる。
「なんか、物扱いみたいじゃない?」
ノーラが封筒の裏をひっくり返し、指先で封蝋を弾いた。
「“参考と研究のため”……。へぇ、あんた、今じゃ標本扱いか」
冗談めかした言葉だったが、空気は笑えなかった。
フィンは何度か文面をなぞるように目で追ったあと、小さく息を吐いた。
「“一度王都に来てほしい”“断る権利も尊重する”……でも、どっちにしても、監視は入るだろうな」
その言葉に、リナがぎゅっと唇を結ぶ。
「来てほしい、じゃなくて“来させる”って顔してるよね。
この文、逃げ道が全部ふさがれてる」
ノーラは、椅子の背もたれに深く沈んで、天井を仰いだ。
「それで、行くの?」
静かに、だが明確な問いだった。
フィンは文書を折り、封筒に戻しながら、少しのあいだ何も言わなかった。
外では、子どもが風車を回しながら走っていた。
カラカラと鳴るその音が、やけに遠く、無関係に思えた。
「……行くべきなんだろうなとは思う。
けど、俺が語ってきたことを、あいつらが“解体して”記録するだけなら、意味がない」
「語りは誰かのためであって、数字にするもんじゃないもんね」
リナがぽつりとこぼした。
「でも行かなきゃ、逆に“語られないまま観察される”ようになる。
ただでさえ、もう何人かには尾をつけられてるような感じもあるし……」
ノーラが目を閉じたまま、つぶやく。
「つまり、行くにしても“自分の意志で行った”ことにしなきゃ、食い物にされるってこと」
フィンはうなずいた。
風がまた吹き込んできて、机の上の紙片をふわりと舞い上げた。
「行くよ。ただし、俺のやり方で」
その一言に、リナが小さく笑った。
「そう言うと思った」
ノーラは目を開け、鋭い視線でフィンを見た。
「じゃあ、王都で誰に何を語るか――そこをちゃんと決めておきなよ。
言葉は武器じゃないけど、あんたのは“踏み台”にはされるからね」
フィンは、封筒を胸元にしまいながら立ち上がる。
その背中に、風がまた一筋通った。
外の陽射しは少しだけ傾き始めていた。
だが、日差しの中にある影はまだ薄い。
これから深くなる影を、彼らは――それぞれの言葉で、迎えることになる。
朝霧がわずかに町を包んでいた。
屋根の瓦に溜まった露が、朝日に照らされて鈍く光る。
遠くから荷馬車の車輪の軋む音がかすかに響き、誰かが石畳を掃く音が空気を整えていた。
宿場町の一角――その路地裏にある小さな裏門の前に、フィンたちは立っていた。
人目を避けたというわけではない。
ただ、旅立ちの気配をできるだけ静かにしたかった。
「王都まで、三日。急げば二日ってとこだね」
リナが地図を折りたたみながら、口元をきゅっと引き締める。
荷袋はすでに軽く調整され、杖の代わりに背中にくくりつけた細長い道具袋が揺れていた。
「……遠くはないけど、近くもない。
それ以上に、あっちが“近づいてきてる”って感じがするよ」
「実際、もう監視されてる気配くらいあるしね」
ノーラが背中のナイフホルダーを締め直す。
彼女の動作には無駄がなく、冷静さと警戒が混じっていた。
「情報局の招待って、名ばかりの拘束ってこともあるからね。
王都は、“調べてから語る”より、“語らせてから操作する”ってとこ」
フィンは静かに歩き出した。
背にかけた風薙の重みが、いつもよりわずかに重く感じられる。
「……行くって決めた以上、覚悟はしてる。
ただ、行って“語らされるだけ”なら、意味はない」
「語りを奪われるのが一番怖いもんね」
リナがそっと微笑む。
「でも大丈夫。あたしがあんたを“語り直す”役やるから」
その言葉に、フィンは一瞬だけ笑った。
わずかに、目が和らぐ。
「ありがとう。でも、それはあくまで最終手段だな。
できれば、自分の語りは自分で守りたい」
空は、雲ひとつなく晴れていた。
風は優しく、だが旅路を急かすように背を押してくる。
「……一度、王都に入ったら、“外”は狭くなる」
ノーラがぽつりと呟く。
「今みたいに、好きに語って、好きに黙ってってわけにはいかなくなるかもね。
語られる側になるって、きっとそういうことだよ」
その言葉は、風よりも鋭くて、優しかった。
フィンは無言でうなずく。
「でも、だからこそ行くんだ。
“語られる前に、自分の言葉を準備する”。それだけは、しておきたい」
町を出る道には、まだ誰もいない。
朝霧の中、三人の影だけが長く伸びていた。
「それに……」
フィンはぽつりと呟く。
「これから先、俺が語れなかった命にまた出会う気がする。
そのとき、ちゃんと向き合えるようにしておきたいんだ」
その言葉に、リナもノーラも何も言わなかった。
けれど、その背中に宿る空気は、明らかにひとつの方向を向いていた。
荷袋の紐がきゅっと鳴る。
風が揺れる。
どこかで扉が軋んで開いた音がした。
それでも、三人の足取りはぶれなかった。
王都――かつて語られることを拒んだ者たちが集まる場所。
そこへ、自分たちの語りを携えて向かう。
「さあ、行こう」
フィンの声は、旅立ちには似合わないほど静かだった。
だが、その声に込められた決意は――
これまで語ったどんな言葉よりも、はっきりと“未来”を示していた。
王都へ向かう街道は、ゆるやかな起伏を繰り返していた。
春を迎えたばかりの丘陵地帯は、草が伸び、野花が咲き、ところどころで蜜蜂が低く羽音を立てている。
だがその景色の中に、どこか“静かすぎる”空気があった。
鳥のさえずりは少ない。
旅人の姿も、朝方以降、ほとんど見かけない。
すれ違う商隊の数が、目に見えて減っていた。
「……変だな」
フィンがぽつりと呟いた。
「人通りが、少なすぎる」
リナが周囲を見回しながら歩幅を狭める。
「昨日の町では“王都の祭礼準備”があるから混むって言ってたのに」
ノーラは道の端の木陰に目を向けた。
そこに踏みならされた形跡がある。
「誰かが、通った痕跡はある。でも、引き返してる形。
……何か、“ここより先へ行きたくない理由”でもあるのかね」
風が、一瞬止んだ。
その瞬間、遠くの空で“黒い帯”が揺れているのが見えた。
煙――いや、雲に混じる黒い靄のようなもの。
それは、地平線をゆっくりと這うように移動していた。
「焚き火の煙にしちゃ規模が違うな」
ノーラが短く言う。
フィンはその“黒”を見たまま、静かに息を吐いた。
「……王都周辺で、何か起きてる」
午後、三人は森沿いの道へと差し掛かった。
陽はまだ高いが、木々の影が道を斑に染めている。
地面はわずかに湿っており、足音がやや吸われる。
「止まって」
ノーラが鋭く言った。
三人の足が同時に止まる。
「人の気配。前方、丘の影。……複数。急がない足取り」
風に混じって届くのは、草のこすれる音と、わずかな靴の接地音。
獣ではない。狩人でもない。――明確に“こちらへ来ている”。
やがて、丘の影から四人の人影が現れた。
若い。誰も鎧は着ておらず、民の服装に見える。
だが、その立ち方は旅人ではない。
まるで、“ここで待ち伏せしていた”かのように――自然すぎた。
「こんにちは、フィン・グリムリーフさん」
名を呼ばれた瞬間、リナとノーラの気配が変わった。
剣に、手が触れる。
空気が冷える。風が止まる。
「……誰だ?」
フィンの問いに、四人のうちのひとりが答える。
若い男。穏やかな目と、よく通る声。
「私たちは、記録に残らない者です。
名を持たず、役目もなく――ただ、“語られない者”として、あなたを見ています」
背筋に、氷が流れたような感覚が走った。
「語る力は、時に真実を歪める。
あなたの語りが、人を救ったとして――それが、“誰かの記憶”を塗り潰したことに、気づいていますか?」
問いではなかった。
確認。あるいは、宣告。
「あなたは、選ばれつつある。
“語られる存在”として、次の段階へ――」
フィンは、黙ってその言葉を聞いていた。
胸の奥に、何かが鈍く、軋むように動く。
(語ることは、力じゃない。
でも――それが“望まれた形で広まる”とは限らない)
「答える必要はありません」
青年はそう言って、背を向けた。
「ただ、語りとは――すべてを救うものではないことを、どうか忘れないでください」
四人は、森の中へと歩み去っていった。
その背中は、まるで“誰かにすでに語られた結末”のように、無言だった。
「……今の、どういう意味?」
リナが震える声で言う。
ノーラが目を細める。
「予告だよ。あれは――“語りの否定者”だ」
風が、遅れて森を抜けてきた。
その風の中に、“語り”とは別の何か――“拒絶”の匂いが、わずかに混じっていた。
フィンは、背中の風薙の柄にそっと触れた。
「……王都に入る前に、出会うべき相手だったのかもな」
その夜、三人は森を抜けた先の村に宿を取った。
誰も多くを語らなかった。
だが、それぞれの胸の中で――“語り”の意味が、静かに揺れていた。
語ることを信じてきたフィンにとって、
「語られたくない者」や「語りを否定する者」の存在は、これまでの価値観を揺さぶるものです。
それでも彼は、自分の語りを手放さない。
だからこそ、王都へ向かう――それは戦うためではなく、“語る準備”を整える旅でもあります。
次回、第30話では子どもたちの何気ない“歌”が、やがて伝説へと変わる瞬間が描かれます。
ついに、“風の王”という言葉が、物語の中に現れ始めるのです。




