26話: 罪の重さを測るもの
心の重みは、誰にも測れない。
それでも、誰かを守るために振るった剣と、語るという選択が、
いずれ“英雄”と呼ばれるものの始まりになる。
第26話では、戦いの後に訪れる“静けさ”と、それを生き延びた者たちの葛藤を描きました。
フィンの胸に残った痛みは、仲間たちとのやり取りによって少しずつ和らいでいきます。
けれど、その優しさは、けっしてすべてを癒すものではなく――。
王都への道が開かれた今、彼の“語られる運命”は次なる章へと進み出します。
ここは、東方の城塞都市エルン・トラース。
幾筋もの街道が交差し、交易と文化が入り混じるこの町は、数年に一度、“記憶市”と呼ばれる特別な市を開く。
古文書、遺品、口伝、そして――忘れられた誰かの言葉が、品物として並ぶ奇妙な祭だ。
フィン・グリムリーフたちはその市を訪れ、町に滞在して三日目の夜、突如として襲撃を受けた。
敵は、正体不明の傭兵部隊。
だが戦いの中で、彼らが“記憶の呪装具”を用い、兵士や住民の記憶を操作していたことが発覚した。
それは明らかに、普通の傭兵の仕業ではなかった。
――“語られる存在”を消すために動いている。
襲撃を生き延びた者たちは、皆そう感じていた。
そして今――
襲撃から三日が経ち、エルン・トラースは、深い静寂に包まれている。
朝靄に煙る町の外れ、崩れかけた石垣のそばで、フィンは立ち尽くしていた。
剣を持つ手ではなく、左手で帽子のつばを軽く握り、眉をひそめている。
「……あれで、本当に良かったのか」
ひとりごとのように呟いた声は、誰に届くでもなかった。
倒した敵の中には、洗脳されていた者もいた。自分の意志ではなく、操られた末の最期。
フィンは、その“重み”に胸を締めつけられていた。
石垣の向こうから、草を踏む音が近づいてくる。
振り返ると、リナが手を振りながら歩いてきた。長いポニーテールが小さく揺れている。
「おはよう、早いね。寝てなかったでしょ」
「……なんか、頭がぐるぐるして寝れなかった」
リナはフィンの隣に立つと、ぽんっと彼の背中を軽く叩いた。
「うん、わかる。わたしも。なんか、変な夢見たし」
「……どんな夢?」
「んー、敵の顔が全部、うちの親父だった」
「それは……ちょっと嫌だな」
二人の間に、わずかな笑いが生まれた。
でも、すぐにその笑みは静まり、風の音が会話を切った。
「……戦ってるとき、俺、“あの人たち”が敵に見えなかったんだ」
フィンが口を開いた。
“あの人たち”――洗脳され、恐怖に満ちた目で向かってきた市民兵たちのことだ。
「斬るべきだった。守るために、仕方なかったってわかってる。……でも、それでも、俺の中のどこかが“やめてくれ”って叫んでて」
「フィン」
リナが真っ直ぐな瞳で彼を見た。
「それ、あんたが“ちゃんと生きてる”ってことじゃん。自分のしたこと、見て、考えて、悩めるって、ちゃんと人間してるってこと」
「人間……」
「そう。王様とか、語り部とか、英雄とか、そんな肩書きより、よっぽど立派」
その言葉に、フィンは小さく息をついた。
「……ありがと、リナ」
彼の背中から少しだけ、強張りが抜けていく。
遠くで、鐘の音が鳴った。
修復された市庁舎の朝礼の合図だ。
「行こっか。あんた、これから町長と会うんでしょ?」
「……うん。たぶん、“英雄様の報告”ってやつ」
「気負わなくていいよ。あんたのままで、ちゃんと見てもらいな」
そう言ってリナは先に歩き出す。
フィンは一歩遅れて、後を追った。
――罪の重さは、きっと誰にも測れない。
でも、それでも前に進もうとする人の姿は、きっと、誰かの希望になる。
市庁舎の扉を開いた瞬間、フィン・グリムリーフは立ち止まった。
会議室と呼ばれる広間には、修繕されたばかりの窓枠、焦げ跡の残る天井、そして――無言の人々がいた。
長い卓を挟み、三十人ほどの市民と兵士が並んでいる。
誰もが、静かに彼を見つめていた。
「……入っていいのかな、俺」
フィンが小さく呟くと、後ろからリナが押すように背中を叩いた。
「大丈夫。堂々としなよ。何かやましいこと、したっけ?」
「……少なくとも、俺は……してないと思う」
「なら、それで充分」
二人は足を進める。
中央の席――町長の座る高椅子の前まで来ると、フィンは小さく一礼した。
町長――グロース老人は、白い髭を手で撫でながら、長い沈黙の後、静かに言った。
「君が……フィン・グリムリーフか」
「はい。町の一市民として……あのとき、できる限りのことをしました」
短く、感情を押し殺すような口調だった。
すると、グロースはわずかに口角を上げた。
「そうか。ならば――その“限り”の力が、我々を救ったのだな」
その瞬間、部屋の空気が揺れた。
並んだ市民のうち、何人かは目を伏せたが、数名はそっとうなずいていた。
「我々の町が攻められたのは、語りの力を持つ者を庇っていたからだ――そう噂する者もいる。
だが私は、君が語ろうが語るまいが、あの夜、町は燃えていたと確信している」
町長は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「我々は君に感謝している。……だが同時に、問わねばならない」
フィンの喉が鳴る。
「君は、剣を振るった。言葉を使い、人を動かし、敵を斬った。……その覚悟は、今も、変わらぬか?」
重い質問だった。
誰も口を挟まず、時計の秒針さえ聞こえるような静寂が落ちる。
フィンはゆっくりと拳を握り、答えた。
「……変わらないとは言えません。自分の中で、正しかったかどうか、今も迷っています。
でも――あの夜、守れた命があったのなら、それだけは……信じていたいです」
長い沈黙ののち、町長はうなずいた。
「それで充分だ。……英雄というのは、そうやって、迷いながら歩くものだろう」
周囲に再びざわめきが広がる。
ある者は拍手を、ある者は安堵の吐息を、ある者は沈黙のまま敬意を示していた。
「こちらは町からの贈り物だ」
町長は封筒を差し出した。
そこには、感謝状と王都からの召喚文が入っている。
「王都の使節が君に興味を示している。――だが行くかどうかは、君が決めることだ。
誰の命令でもない。ただ、“君自身がどう歩むか”を、問われている」
フィンは封筒を受け取ると、深く頭を下げた。
そして――そのまま会議室を後にする。
外の広場では、子どもたちが遊んでいた。
木の枝を剣に見立てて、笑いながら追いかけ合っている。
その中の一人が、大声で歌い出した。
「びゅーんと飛ぶぞ、かぜなぎくん♪」
「きゅーんとささるぞ、ことばのつるぎ♪」
「どんな敵でも はなしあえば ともだちさ~♪」
「おともだち~♪」
笑い声。拍手。合唱。
フィンは立ち尽くし、その光景を見ていた。
「……違うんだよ」
誰に向けたのか、自分でもわからなかった。
でもその言葉には、どこか拭えない痛みが滲んでいた。
その夜、フィンは宿の裏手――街灯すら届かない路地の一角にいた。
瓦礫と廃材が積まれ、石畳の隙間からは草が生えかけている。人の気配のないその場所だけが、町の喧騒から切り離されたように静かだった。
手には、昼間町長から受け取った封筒。
中には、礼状と――王都からの召喚状。
その紙の感触が、やけに重たかった。
「……もう、戻れないのか?」
誰に問いかけるでもなく、ぽつりとつぶやく。
語り部。英雄。王都が注目する存在。
それは、彼が“なりたくて”なったわけではなかった。
思えばずっと、流されてきた。
レンブレア村で始まった小さな依頼。
たまたま救った子ども。
助けた少女。
逃げなかった敵兵。
語った記憶。
そして今、王都。
“選んだようで、何も選んでいない”。
そんな思いが、心をゆっくりと締め付けていた。
「また、考え込んでるの?」
背後から声がした。
フィンが振り返ると、蒼銀の髪を揺らすノーラが、両手にパンの包みを提げて立っていた。月明かりの下、いつもの冷めた目が、少しだけ柔らかかった。
「……ノーラ」
「ほら、これ。朝買ったけど、あんたが昼も夜も何も食べてないから、取っといたのよ」
彼女はフィンの隣に座ると、膝に紙袋を載せて、ひとつを彼に渡した。
パンは、表面がかりっと焼かれ、中にはくるみと蜂蜜の甘み。
噛むたびに、じわじわと温かさが口の中に広がっていく。
「……おいしい」
「そりゃ、特製だもん。王都にも店出してる老舗らしいよ」
ノーラはもう一つのパンにかじりつきながら、ぽつりと漏らした。
「……さっき、広場で子どもたちがまた歌ってた。“かぜなぎくんが~”って」
フィンの手が止まる。
「“英雄の歌”だってさ。……笑っちゃうよね」
「……笑えないよ」
「だろうね。でも、あたしは、少しだけ救われた」
ノーラが視線を落とす。
「昔、あたしの兄も語り部だった。……でも、その力が怖がられて、最後は――何もかも、奪われた」
その声には、普段のような強さがなかった。
「けど、あんたは……まだ語れてる。まだ、笑えてる。
それがどれだけ“奇跡”か、わかってる?」
フィンは何も言えなかった。
口にするには、重すぎた。
ノーラの“失った記憶”と、“見届けてきた現実”が、今の言葉に全て詰まっていた。
しばらくの沈黙の後、フィンはポケットから石を一つ取り出した。
小さな、銀色に近い灰色の石――魔物との戦いで拾った、名もなき鉱石。
「これ、セレドさんに渡そうと思ってた」
「……あの兵士? 洗脳されてた人?」
「うん。彼、戦いのあと泣いてた。たぶん、記憶の一部が戻ったんだ。
でも……俺は、何もできなかった。ただ、見てるしかなかった」
ノーラがゆっくりと立ち上がり、フィンの前に回り込んだ。
「それで充分じゃない。人の“痛み”に目を背けなかったって、それが何より、語り部としての――」
「俺は、“語り部”である前に、人でいたいんだよ!」
叫んでいた。
フィンは思わず、拳を握りしめていた。
「語ることも、剣を振るうことも……誰かの命の上に立って、“立派だ”とか“希望だ”とか言われるのが、怖いんだ」
「……フィン」
「誰も救えなかったって、思い知るんだよ。あの夜みたいな夜を過ごすたびにさ……!」
しばらく、言葉が出なかった。
ノーラは何も言わず、そっとその拳を包み込んだ。
「……それでも、あんたのそばには、人がいる。
リナがいて、あたしがいて、たぶん、町の子たちも、兵士も――歌を作ってる人たちも。
……あんたのこと、見てるよ」
その手の温もりが、フィンの荒ぶる心に、静かに沁みていった。
「……王都には、行く?」
「たぶん、行く。でも、その前に……“俺の言葉”を見つけないといけない。
もう、誰かの語りじゃなく、俺自身が語る、何かを」
風が吹いた。
どこか遠くで、鐘の音が鳴る。夜の境界を知らせる、二度目の鐘だった。
「フィン。……あんたの言葉は、もう“物語”になりかけてるよ」
ノーラがそう言って、歩き出す。
その背中を見て、フィンはふと思った。
――俺は、まだ誰のことも救えていない。
でも、誰かの“灯り”にはなれるかもしれない。
その想いだけが、今夜の胸の痛みを、少しだけ和らげてくれた。
翌朝、街には柔らかな光が差し込んでいた。
あの夜の影は、まだ路地の隅に色濃く残っていたけれど、それでも人々は歩き始めていた。
市場には早くも野菜や果物の籠が並び、職人たちの槌音が響いていた。
そして広場の中央――フィン・グリムリーフの姿があった。
彼は、あのときの封筒を両手で握っていた。
王都の印が押された羊皮紙。そこに書かれた文は、どれも礼儀正しく、どこか突き放したようでもあった。
「“君の存在に、今後の国政の可能性を見た”……か」
まるで自分が道具にされたような気がして、フィンは苦笑した。
だが――その中に、たった一行だけ、心に触れる言葉があった。
『君の“語り”は、人の歴史を揺らがせる。』
「……やっぱり、俺の語りって、もう“俺だけのもの”じゃないのかな」
つぶやくと、背後からリナの声が飛んできた。
「だったら、背負ってみせなよ。あたしらがついてるから」
「リナ……早いな」
「フィンが広場でひとり突っ立ってたら、そりゃ気になるって」
そう言って笑うと、リナは懐から小さな布包みを取り出した。
中には、銀色の金属でできたバッジが入っていた。中心には“風を象る剣”の刻印。
「鍛冶屋のミルおじさんがくれた。あんたが町を救った記念にって。
“まだ若いけど、芯がある”って、褒めてたよ」
「……ありがとう」
「ま、あたしが一番褒めてるけどね。正直言って、惚れ直した」
「えっ……」
「うそ。半分ね」
そこに、ノーラも合流してきた。肩に小さな鞄をかけている。
「出発、今日でしょ?」
「うん。王都には数日かかるけど、馬車は手配した」
「歩いてくんじゃないの?」
「歩き旅じゃ、また変な魔物に絡まれるからさ」
「そっか。じゃあ、馬の名前決めとく? “記憶号”とか」
「それだけは絶対やめて……」
ノーラとリナは顔を見合わせて、くすっと笑った。
その笑いが、どこか救いになった。
町の人々が、少しずつ彼に目を向けていた。
あからさまな拍手も、歓声もない。
けれど、布を干す老婆がそっと頭を下げ、少年が剣の形を真似して木枝を振る。
それだけで、フィンはもう十分だった。
「じゃあ、行ってくるよ」
馬車に乗り込もうとしたそのとき――
広場の向こう、数人の子どもたちが、小さな声で歌いはじめた。
「びゅーんと飛ぶぞ、かぜなぎくん♪」
「ことばのつるぎで まもるのさ♪」
「なかないで さけばいい」
「つよさはきっと こころのなか~♪」
「おともだち~♪」
その歌は風に乗り、町の空を駆けた。
どこか切なくて、どこか優しい――けれど確かに、未来を願う“祝詞”だった。
フィン・グリムリーフは、ゆっくりと目を閉じた。
剣を背に。語りを胸に。仲間とともに。
今、彼は“英雄”ではなく、“旅人”として再び歩き始めた。
まだ語られていない物語が、きっとこの先にある。
それを見つけるために。
ご覧いただき、ありがとうございました!
「罪の重さを測るもの」というテーマは、語る者・戦う者としてのフィンの在り方に深く関わっています。
“語ること”が持つ力は、ただ人を癒すものでも、称えられるものでもありません。
それはときに、後戻りのできない場所へ自分を追い込み、他人の痛みに踏み込む覚悟を問われるもの。
それでも彼は、“語り”から逃げずに選び取った。
その一歩が、彼を“英雄”ではなく“王”へと近づけていくのだと思います。
次回から、王都編が始まります。
どうぞ、これからもフィンたちの物語を見守ってください!




