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23話:忘れられた家

“語らない村”の中で、フィンたちはひとつの家にたどり着きました。

それは、誰にも近づかれず、記録も断たれ、語られることを許されなかった家。


けれど、そこに残されていたのは――布、石、そして、誰かを忘れたくないという少年の強い想い。

第23話は、「言葉のない者たち」の中で、初めて“語り始める心”と向き合う回です。

村の最奥、崖に隠れるように建っていたその家は、

 他の家々とは明らかに空気が違っていた。


 


 壁は斑に崩れ、屋根は苔に覆われ、片方の柱は傾きかけている。

 木の骨組みは黒ずみ、腐食が進んでいた。

 入り口の扉は片開きで、風もないのにわずかに揺れていた。


 


 どの家も静かで閉ざされていたこの村の中でも、

 この家だけは“捨てられた”ような存在感を放っていた。


 


 「……ここが“あの子”の記憶が向いてた家、か」


 


 フィン・グリムリーフは、足元の土を踏みしめながら見上げた。

 風は吹かず、音もない。けれど、空気に“沈殿したままの何か”を感じた。


 


 「なんか、近づくほどに呼吸がしづらくなるね……」

 リナは腕を組みながら周囲を見渡していた。

 「中の空気、動いてないのに、こっちに圧かけてきてる感じ」


 


 「ただの廃屋じゃない」

 ノーラは周囲の地面を確認しながら言った。

 「足跡がない。誰も近づこうとしていない。……この家だけ“避けられてる”」


 


 「だからこそ、あの子は“記憶を残そうとした”のかもしれない」


 


 フィンは、ポケットに入れていた小石を取り出した。

 それは、昨日の少年が渡してきた“しるし”。

 不恰好な模様、けれどそこには確かな想いが込められていた。


 


 「語る代わりに、残す。

  名前のない誰かが、忘れ去られないように……この石を“言葉の代わり”にしたんだな」


 


 静かに、家へと一歩足を踏み出す。

 軋む板、軒先から落ちた枝葉、黙して語らぬ扉。


 


 フィンは指先をそっと扉にかけた。


 


 ギィ……ギッ……パタン。


 


 音は小さく、湿っていて、深い井戸の底から引き出されたような感触だった。

 扉の中は暗く、空気が動いていなかった。

 それは“夜の空気”というよりも、時間そのものが止まっているような空間だった。


 


 床は埃と落ち葉に覆われ、家具は壊れ、机は脚が折れて傾いていた。

 けれど、不思議なことに――壁の中央だけが、異様に“整って”いた。


 


 そこに、布がかかっていた。


 


 黄ばみ、ほつれ、染み――年月にさらされた痕跡はあった。

 けれど、布そのものははっきりと“四隅を釘で留められて”掲げられていた。

 まるでそれだけは、誰かが必死に守ろうとしたように。


 


 「これ……タペストリーか?」

 リナが声を潜めて訊く。


 


 「いや……違う。装飾でも装束でもない。

  これは……“記録”だ」


 


 フィンはゆっくりと近づいた。

 目を凝らすと、布には無数の線――いや、“模様のようで模様でない”しるしが刻まれていた。


 


 「これ……昨日の石に彫られてたのと……似てる」


 


 ノーラが布の前に立つ。

 「順に並んでる。上から、横へ、そしてまた下へ。

  これは“語順”じゃなく、“継承”の形式だ。

  つまりこれは、“この家にいた者たちの記憶を綴った布”」


 


 「語らない村だからこそ、言葉を持たないまま記録したってことか」


 


 フィンは手を伸ばし、そっと布に触れる。

 その瞬間、ひやりとした空気が指先を包み込んだ。


 


 「……冷たい。でも、まだ……消えてない」


 


 何も語らない空間の中で、ただこの布だけが、“何か”を訴えかけていた。


 


 誰かの人生。

 誰かの記憶。

 誰かがいたという証明。


 


 語ることをやめたこの谷で、それでも“忘れられたくない”と、願った誰かのしるし。


 


 「君が、これを……残したかったんだね」


 


 フィンが振り返ると、そこには、昨日の少年が立っていた。


 


 扉の外で、少しだけ首を傾げながら、

 けれど真っ直ぐに、壁の布を見ていた。


 


 その目は、昨日よりも、ほんのわずかに強い光を宿していた。

古びた家の中は、時間だけが眠っていた。


 


 埃の層は重く、風すら入り込まない空間に、わずかな光が射し込んでいた。

 それは天井の隙間から差し込む陽の筋――けれど、その光さえも何かに遮られているように見えた。


 


 フィンは布の前に立ったまま、そっと息を吐く。

 背後に立つ少年の気配を、強く感じていた。


 


 少年は何も言わない。

 しかし、その沈黙には――昨日のそれとは違う“熱”があった。


 


 「これ……あなたの家族の記録、なんだね?」


 


 言葉は、少年に届いたのか分からない。

 けれど、しばらくして、フィンの横に並んだ小さな足が一歩前に出た。


 


 少年は壁の布に、そっと手を伸ばした。


 


 触れる指先がかすかに震える。

 けれど、その動きはためらいではなく、慎重な“想い”の証だった。


 


 そして、布の左下――一番下の端の部分を、指でなぞった。


 


 そこには、他の記号とは少し違う、歪な模様が彫られていた。

 線が震えていて、深さが浅く、細い。

 他よりも明らかに新しい。彫ったのは……素人、いや――子どもだ。


 


 「……君が、彫ったの?」


 


 少年は、かすかに頷いた。


 


 それだけで、フィンの胸が締めつけられた。


 


 誰も語らない村で、語られなかった名前の代わりに、

 この子は、“しるし”を刻むことで、自分なりの語りを行ったのだ。


 


 ノーラがそっと言葉を漏らす。

 「この布、誰もが見ないふりをしていた。でも……この子は見ていた。記憶を……“つなごう”としていた」


 


 「……つながなきゃ、全部消えるって、知ってたんだ」

 リナの声が、わずかに震えていた。


 


 少年はもう一歩、布に近づく。

 そして、今度は懐から――またひとつ、小さな石を取り出した。


 


 それは、前のものより少し角が削れていて、丸みを帯びていた。

 彫られたしるしは、曲がりくねった線と、円。

 中央に点があり、それはどこか――“瞳”のようにも見えた。


 


 フィンは、その石を両手で受け取る。

 「……これは?」


 


 少年は布の“真ん中”を指差した。


 


 そこにあったのは、最も大きな記号。

 他のどれよりも線が深く、彫りの数が多い。

 そして、その下には――何も続いていなかった。


 


 「……最後の人、か」

 フィンはつぶやく。

 「記録が、ここで終わってる」


 


 「死んだのは、たぶんこの人」

 ノーラが言う。

 「家がここで止まっていることから見ても、この記録の最後が“語られなかった者”」


 


 「そして……この石は、あの人の“目”。」

 フィンは石を見つめる。

 「君が、忘れたくなかった人。今でも、見ていてほしかった人なんだね」


 


 少年は何も言わない。

 けれど、そのまなざしが、まっすぐにフィンへと向けられていた。


 


 語ることを知らない子ども。

 けれど、伝えたいものがあった。

 記録という形で、記号というしるしで、

 “忘却に抗った”その証が、いまここにある。


 


 フィンは静かに石を掲げ、布の中央の記号に向かって、そっとこう告げた。


 


 「あなたの名前は知らない。

  けれど、あなたがここにいたことは――この子が証明してくれた。

  だから、もう消えないよ。

  この旅を続ける限り、僕の中にも“あなたがいた”という記憶が残る」


 


 少年の瞳に、静かに光が宿った。


 


 わずかに、口元が動く。


 


 言葉ではない。

 けれどそれは、“ありがとう”と告げる表情に、確かに見えた。

しん、とした静寂が家の中に降りていた。


 


 埃の舞う空間。光の筋。

 どれも重たく、肌にまとわりつくような重圧があった。

 まるでこの場所だけが、時の流れを止めたかのようだった。


 


 少年は布の前に立ち尽くしていた。

 だがその表情は、もう昨日のような怯えに満ちたものではなかった。


 


 むしろ――

 何かを“託そう”とする意志を、わずかながらも宿していた。


 


 フィンがそっと近づくと、少年は懐からまたひとつ、小さな石を取り出した。

 彫られているのは、以前のようなしるし。だが、それはより複雑で、密に刻まれていた。


 


 「……これも、記憶?」


 


 少年は、ゆっくりと頷いた。


 


 その瞬間、家の片隅に視線を向けると――埃をかぶった床の一角、

 微かに浮き上がった板の縁に目が留まった。


 


 (あれは……隠し床?)


 


 フィンがしゃがみ込み、指を差し込むと、木の板がわずかに浮いた。

 ギィ……と軋む音とともに持ち上げると、薄暗い収納が現れる。


 


 「隠し戸……?」


 


 ノーラが即座に反応し、周囲を警戒するように立ち上がる。

 リナも一歩前に出た。


 


 「見つけたな」

 ノーラは静かに言った。

 「ここに、“誰にも語られなかった何か”がある」


 


 床下には、小さな木箱がひとつ。

 湿気と埃にまみれたそれは、持ち上げると微かに重みがあった。


 


 「……開けていい?」


 


 少年は返事をしなかった。

 ただ、ゆっくりと布のほうを振り返り、目を閉じた。

 それが“許可”のように思えた。


 


 フィンが木箱を開く。

 中に入っていたのは――


 


 折り畳まれた古い布、石のしるしがいくつも、そして……木札。

 そこには、焼き印のように記号が押されていた。

 それぞれが違い、けれど全体で見ると“何かの流れ”を持っていた。


 


 「これは……何かの“系譜”か……?」


 


 フィンはそっと布を広げた。


 


 そこには、あの家の壁にかかっていた布と同じような記号列が並んでいた。

 けれど、より細かく、密に。

 そして――最下段の記号に、異様な異変があった。


 


 「……塗り潰されてる」


 


 リナが小声で言った。


 


 その記号だけが、太く濃い線で何重にも塗り重ねられ、完全に判別不能になっていた。


 


 「明らかに“消された”痕跡だ」

 ノーラの声が硬い。


 


 「語ってはいけない名前、か……」

 フィンはしばらく黙っていたが、箱の中にもう一枚、畳まれた布を見つけた。


 


 その布の端には、他のどこにも見られない“二重の封印”が施されていた。

 手でほどくには手間がかかるが、針や火などを使わないと開けられないよう細工されている。


 


 「この村……“記録”を使って、何かを封じたんだ。

  言葉じゃなく、しるしと布で……“忘れること”を選んだんだ」


 


 ノーラが頷く。

 「記録は残すためだけのものじゃない。時には“葬る”ためにも使われる。

  この布は……語ることで災いが戻ると信じられた、“名を禁じられた人間”の記録だ」


 


 「誰かを“語らなかった”んじゃない。

  “語れなかった”んだ」


 


 フィンが静かに言った。

 視線の先には、あの少年がいた。


 


 彼は黙ったまま、けれど、もう迷ってはいなかった。

 自分の手で渡した石と布。

 それは、“消されてしまった誰か”を、もう一度この世に残すためだった。


 


 「……君の“誰か”を、もう一度思い出す。

  記号でも、布でも、石でも……残したものがあるなら、俺はそれを受け取る」


 


 少年は深くうなずいた。

 そして、その目の奥に宿った“光”は、

 谷に訪れてから初めて見せる、“確かな感情の色”だった。

封印された布を前にして、フィンは膝をついた。


 


 空気が、ぴたりと張りつめていた。

 開けるべきかどうか――その選択は、彼の中で何度も揺れた。

 だが、傍らでじっと見守る少年の存在が、それを静かに後押ししていた。


 


 「開けるよ。君がそれを、託してくれるなら」


 


 フィンが言うと、少年は無言で手を差し出した。

 そこには、小さな針が握られていた。

 古びた、けれど丁寧に磨かれた鉄の針。

 おそらく、封印を開くためだけに保管されていたものだ。


 


 (ずっと待ってたんだ……誰かが、開けてくれるのを)


 


 フィンはその針を受け取り、慎重に布の結び目へと手を伸ばした。


 


 ひと針ずつ、縫い目をほどくたびに、

 空気が変わっていくのがわかった。


 


 まるで、閉じ込められていた記憶が

 息を吹き返そうとしているかのように――。


 


 すべての縫い目を解いたとき、布の中から現れたのは、たったひとつの記号だった。


 


 それは、他のどの“しるし”とも違っていた。


 


 歪んでいた。

 線は深く、けれど荒く、何度も書き直されたような形。

 途中で削られ、上から別の線が交差し、意味を読み取るのが困難なほどに歪んでいた。


 


 「……これは、誰かが……“記憶を壊そうとした”跡?」


 


 ノーラが眉をひそめる。

 「消すんじゃなく、歪めることで、“思い出させない”ようにした」


 


 「でも、それでも――残ってたんだ」

 フィンは呟く。

 「全部壊そうとしても、完全には消せなかった。

  だからこの布は、“記憶の遺骨”なんだ」


 


 リナが横から布を覗き込む。

 「この形……何かに似てる」


 


 彼女が指を伸ばした。

 しるしの左上に、小さな点がある。

 それはまるで、“瞳”のようだった。


 


 「……あの石と同じだ」

 フィンが、少年から渡された最後の石を取り出した。


 


 中央に点のある、瞳のようなしるし。

 それはこの布の“名を消された記号”と、確かに同じ特徴を持っていた。


 


 「この人が……君の“大切だった人”なんだね」


 


 少年は何も言わなかった。

 けれど、その肩が震えていた。

 拳が小さく握られ、唇が真一文字に閉じられている。


 


 その震えは、怒りでも恐怖でもない。

 泣きたくても泣けない者が、感情を堪えるときの震えだった。


 


 フィンはそっと、布を畳み直す。


 


 「君の記憶は、壊されようとした。

  でも、それでも残した。

  消えかけた名前を、しるしにして、石にして、ここに運んできた。

  だから――もう一度、残そう」


 


 彼は腰から布袋を取り出し、中から旅の途中で使っていた“携帯用の布巻”を広げた。


 


 白い綿布。

 何も描かれていない。

 けれど、フィンはその中央に、少年の記憶のしるしを写し取った。


 


 少年の差し出した石を元に、手元で筆を走らせる。

 線は不格好だ。けれど、心は乗っていた。


 


 最後に、布の下にこう記す。


 


 ――「かつてここに、生きた者がいた」


 


 「これが、君と俺の、“語り”だ」


 


 少年が、目を見開いた。

 そして――目元が、少しだけ濡れていた。


 


 音はない。

 声もない。


 


 けれど、その涙こそが、

 この村で初めて語られた“想い”だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


沈黙を貫いていた谷で、少年は自分の手で“語られなかった誰か”の記憶を守っていました。

言葉を持たない彼の行動こそが、“語ること”の本質――忘れないこと、残すこと、誰かに渡すこと――そのすべてを物語っていたように思います。


語らぬ村に、初めてしるしが刻まれ、涙が流れました。

第24話からは、このささやかな変化が、どのように村へ、そしてフィンへ広がっていくのかを描いていきます。


次回も、どうぞよろしくお願いいたします!

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