22話:語りの届かぬ谷へ
沈黙の谷に、初めて足を踏み入れました。
風が吹かず、誰も語らない場所。
声をかけても、音は空に吸い込まれるばかり――そんな“異常”としか言いようのない静けさの中で、
フィンたちは、たった一つだけ“目を見てくれる存在”と出会います。
無言で差し出された“しるし”と、言葉を持たない記憶の断片。
今話は、“語らない者たち”との初接触の回。
わずかに動いた感情が、やがて物語を揺らすきっかけになります。
世界の片隅――地図にすら名前を持たない谷がある。
“灰眼の谷”と呼ばれるその場所は、噂の中だけで存在し、
本当にあるのかどうか、誰も確かめようとはしなかった。
けれど、今その地に、一人の少年が立っていた。
「……ここが、灰眼の谷か」
谷を囲む崖は高く、空が狭い。
陽は差しているのに、どこか湿り気を帯びた薄暗さが谷全体を包んでいる。
風が通らない。音がしない。匂いすら薄い。
まるで“何もかもが、谷の奥で止まっている”ようだった。
フィン・グリムリーフは、その異様な沈黙に、言いようのない息苦しさを感じていた。
「……空気、重いな」
谷に入ってすぐ、リナが不満げに言った。
彼女の額には、旅路の汗とは別のうっすらとした緊張の滲みがあった。
「風が通ってない」
ノーラは淡々と呟き、足元の岩を軽く蹴った。
「植物の気配も薄いし、音もない。こんな場所、初めて」
谷底にはいくつかの家が見えた。
石造りの壁、干されたままの洗濯物、窓に掛けられた布。
人の営みはある――だが、人の姿がまったく見えない。
「……ねえ、ほんとに人いるの?」
リナが不安そうにあたりを見渡す。
いつもなら先頭に立ちたがる彼女が、無意識にフィンの背に寄るのが分かった。
「いる」
ノーラが即答する。
「さっきから、複数の視線がある。けど……見せないつもりなんだろうな。誰も」
歓迎ではない。
警戒でもない。
それは――無関心に近い。
まるでこの谷では、“外の者が来ることそのもの”が意味を持たないように思えた。
「……話しかけてみようか?」
フィンは一歩前へ出ると、谷に向かって声を放った。
「こんにちはー! 旅の者です!
通りかかっただけなんですが、ちょっとだけ話を――」
言い終える前に、静寂がその声を吸い込んだ。
音が響かない。
誰も出てこない。
何も変わらない。
「……全無視、ってやつか」
リナが苦笑したが、笑い声も谷に溶けていった。
その音さえ、まるで“存在しなかったこと”にされたかのように。
「……でも、来たかったんだよね?」
リナの問いに、フィンは頷いた。
「そうだな。変な言い方だけど……この場所だけ、俺の中にずっと引っかかってた。
“話すことをやめてしまった村”って、聞いたことがあるか?」
「それ、噂でしょ?」
「うん。でも、だからこそ気になった。
本当にそんな場所があるなら、俺は――この目で見てみたかったんだ」
それだけ、とフィンは肩をすくめた。
「誰かを助けたいとかじゃない。ただ、見過ごしたくなかった。それだけ」
リナとノーラは言葉を返さなかった。
けれど、二人ともその理由に“否”を挟むような表情ではなかった。
谷の奥へと、足を進める。
風のない世界。
語らない人々。
音が意味を持たない空間。
けれど、フィンはその中に“何か”を見つけたかった。
――それが何なのかは、まだわからなかったとしても。
世界の片隅――地図にすら名前を持たない谷がある。
“灰眼の谷”と呼ばれるその場所は、噂の中だけで存在し、
本当にあるのかどうか、誰も確かめようとはしなかった。
けれど、今その地に、一人の少年が立っていた。
「……ここが、灰眼の谷か」
谷を囲む崖は高く、空が狭い。
陽は差しているのに、どこか湿り気を帯びた薄暗さが谷全体を包んでいる。
風が通らない。音がしない。匂いすら薄い。
まるで“何もかもが、谷の奥で止まっている”ようだった。
フィン・グリムリーフは、その異様な沈黙に、言いようのない息苦しさを感じていた。
「……空気、重いな」
谷に入ってすぐ、リナが不満げに言った。
彼女の額には、旅路の汗とは別のうっすらとした緊張の滲みがあった。
「風が通ってない」
ノーラは淡々と呟き、足元の岩を軽く蹴った。
「植物の気配も薄いし、音もない。こんな場所、初めて」
谷底にはいくつかの家が見えた。
石造りの壁、干されたままの洗濯物、窓に掛けられた布。
人の営みはある――だが、人の姿がまったく見えない。
「……ねえ、ほんとに人いるの?」
リナが不安そうにあたりを見渡す。
いつもなら先頭に立ちたがる彼女が、無意識にフィンの背に寄るのが分かった。
「いる」
ノーラが即答する。
「さっきから、複数の視線がある。けど……見せないつもりなんだろうな。誰も」
歓迎ではない。
警戒でもない。
それは――無関心に近い。
まるでこの谷では、“外の者が来ることそのもの”が意味を持たないように思えた。
「……話しかけてみようか?」
フィンは一歩前へ出ると、谷に向かって声を放った。
「こんにちはー! 旅の者です!
通りかかっただけなんですが、ちょっとだけ話を――」
言い終える前に、静寂がその声を吸い込んだ。
音が響かない。
誰も出てこない。
何も変わらない。
「……全無視、ってやつか」
リナが苦笑したが、笑い声も谷に溶けていった。
その音さえ、まるで“存在しなかったこと”にされたかのように。
「……でも、来たかったんだよね?」
リナの問いに、フィンは頷いた。
「そうだな。変な言い方だけど……この場所だけ、俺の中にずっと引っかかってた。
“話すことをやめてしまった村”って、聞いたことがあるか?」
「それ、噂でしょ?」
「うん。でも、だからこそ気になった。
本当にそんな場所があるなら、俺は――この目で見てみたかったんだ」
それだけ、とフィンは肩をすくめた。
「誰かを助けたいとかじゃない。ただ、見過ごしたくなかった。それだけ」
リナとノーラは言葉を返さなかった。
けれど、二人ともその理由に“否”を挟むような表情ではなかった。
谷の奥へと、足を進める。
風のない世界。
語らない人々。
音が意味を持たない空間。
けれど、フィンはその中に“何か”を見つけたかった。
――それが何なのかは、まだわからなかったとしても。
谷に、再び静寂が落ちた。
老女の背が遠ざかっていくのを見送るしかなかったフィンたちは、
しばらく誰も口を開けなかった。
「……ここは、やっぱりおかしい」
リナがぽつりとつぶやく。
「誰かが死んだとか、何かが壊れたとか、そういう気配じゃない。
なのに……何もかもが“止まってる”。息をひそめるどころか、息をしてないみたい」
ノーラは無言で、周囲の家々を見つめていた。
その目は鋭く、しかしどこか“諦め”を帯びていた。
まるで、感情や交流を期待すること自体が無意味だと知っているかのように。
「……少し歩いてみよう」
フィンが口を開いた。
「誰かと話したいわけじゃない。ただ、この空気が気になるんだ。
何もないって、こんなに苦しいものなのかって……確かめたい」
リナとノーラは、それぞれ無言で頷いた。
谷の奥へ向かう。
広場から離れると、道は細くなり、崖に挟まれるようにして延びていた。
道の両脇には、くたびれた木造の小屋や、崩れかけた塀が並んでいる。
けれど、どの家も例外なく静まり返っていた。
扉には鍵もないのに、閉ざされているような“圧”がある。
「……ここ、さっきよりも気味が悪い」
リナが声を潜める。
「なんていうか、“人間の形をした何か”がこっちを見てる気がして……」
その言葉に、フィンも無意識に肩をすくめていた。
たしかに、見られている。
でも、あの広場で感じた視線とはまた違う。
それはもっと……“下から這い上がってくるような”視線だった。
そのときだった。
コツ……コツン……
何かが石畳を叩くような、小さな音が響いた。
「……!」
三人が立ち止まり、音の方を振り返る。
古びた納屋の陰――その角から、誰かが小さく覗いていた。
人影。
小さな、背の低い影。
子どもだった。
ボサボサの髪、土にまみれた服、裸足。
けれど目だけは、大きく、真っ直ぐに、こちらを見ていた。
「……おい、フィン」
リナが低く呼びかける。
ノーラも無言で剣から手を離し、構えを解いた。
フィンはそっとしゃがみ込む。
できるだけ、威圧しないように。
「やあ……こんにちは。君、村の子かな?」
子どもは返事をしなかった。
けれど、逃げなかった。
数秒の沈黙。
それから、ほんの少しだけ首を傾ける。
不思議そうな顔。
まるで、「なぜ声をかけるのか分からない」と言いたげな表情だった。
「君の名前……聞いてもいい?」
また、返事はなかった。
けれど――子どもの足元に、小さな石が落ちていた。
それは丸く磨かれていて、
そこには拙い手で、なにかの記号のような模様が彫られていた。
フィンが目を凝らす。
(……これ、名前……か?)
文字ではない。
でも、それは“誰かを示す印”に見えた。
子どもはそれを拾い上げ、
フィンの方へ、すっと差し出した。
「……君の“しるし”?」
子どもは小さく頷いた。
ノーラが、ほう、と静かに息をついた。
「……この村では、言葉を持たない代わりに、しるしを残すのかもな」
「言葉じゃなくて、形に残す?」
フィンはその石を両手で受け取ると、子どもの目をまっすぐに見て言った。
「ありがとう。大事にする。
君の名前、ちゃんと……覚えるよ」
その瞬間、子どもの目が、わずかに――本当に、わずかにだけ――
柔らかく揺れたように見えた。
そのあと、すっと背を向け、また納屋の陰へと戻っていった。
誰も何も言わなかった。
けれど三人は、確かに感じていた。
――この村には、まだ“完全に失われていない何か”がある。
それが何なのかは、まだ分からない。
けれど、たしかに今、ひとつの“接点”が生まれたのだ。
朝が来ても、谷は静かだった。
それがこの地にとって“当たり前”なのだろう。
朝日が射しても、風はひとつも吹かない。
扉は閉ざされ、焚き火の煙もなく、犬の鳴き声もない。
この谷では、夜と朝の境すら、曖昧に溶け合っていた。
フィンは、空気のない空を見上げた。
どこか違う世界に迷い込んだような不思議な感覚が、胸の奥にまとわりついていた。
その感覚は、不快ではなかった。
ただ、ずっと呼吸が浅くなるような、“沈み込む”静けさがある。
「……変わらないな、この村は」
リナの声が、ぽつりと小さく落ちる。
声が反響しない。地面にも、空にも届かない。
音が“吸い込まれる”場所――そんな印象すらあった。
「夜の間も、誰も出てこなかった。火も灯らなかった」
ノーラが冷静に言う。
「生活の痕跡はあるのに、動きがない。まるで……“死んでない死者たち”が住んでるみたい」
フィンは、無意識にポケットを探った。
指先が触れたのは――昨日、あの少年から受け取った、小さな石。
拙い手彫りの線が彫られていた。
何かの記号。
けれど、それは確かに“誰かが誰かを残そうとした痕跡”だった。
語られなかった名前。
だけど、確かに“そこにいた”という記憶の欠片。
(言葉がなくても、何かを伝えようとした気持ちは……ちゃんと、ある)
そのときだった。
ギィ……と、控えめに軋む音が聞こえた。
扉の隙間。
誰かが――いや、あの子が、こちらを見ていた。
フィンはゆっくり立ち上がる。
驚かせないように、急がず、慎重に扉を開けた。
冷たい空気が胸に当たり、目が合う。
昨日と同じ子どもだった。
痩せて、泥まみれで、着ているものはボロボロ。
けれど、目だけははっきりしていた。
この谷では“唯一、感情を宿した瞳”。
「おはよう」
フィンが、そっと声をかける。
少年は、声に反応はしなかった。
けれど、その場を逃げることもなく、ただじっと見つめていた。
フィンはポケットから昨日の石を取り出して見せる。
「君の“しるし”。持ってる。大事にしてるよ」
少年の目が、わずかに揺れた。
それだけで十分だった。
やがて、少年は小さな足で、ゆっくりとフィンたちのほうへ歩いてきた。
片手には、昨日と同じように、別の小石を握っている。
今度の石には、別の模様が彫られていた。
丸ではなく、縦に切れたような、割れた線。
細い枝のような模様が交差している。
「これは……昨日のとは違うな」
フィンが受け取ると、少年は村の奥――広場の向こう側にある、
一軒の朽ちかけた家を見つめた。
壁は崩れ、扉は半開き。
他の家よりも、あからさまに手入れがされていない。
それでいて、誰も近づかないような雰囲気をまとっていた。
「……そこに、誰かいたの?」
少年は、ゆっくりと首を横に振った。
だが、それは否定の動きではなかった。
「……今は、いないってことか」
ノーラが呟く。
「死者の家。多分、村で唯一、“語られなかった誰か”の痕跡だ」
「だから、この子が代わりに――“石にした”んだな」
フィンが優しく言う。
少年は、ゆっくりと頷いた。
沈黙の村で、言葉は交わされない。
けれど、目の前のこの小さな子は、
それでも“誰かの存在を忘れたくない”と願っている。
「……行ってみよう。あの家へ」
フィンのその言葉に、リナもノーラも無言で頷いた。
三人はゆっくりと足を動かす。
ぬかるんだ道、崩れかけた石。
それでも進んでいく。
後ろから、小さな足音がついてくる。
少年も、ついてきていた。
そして――
朽ちた家の前に立ったとき、風が吹いた。
今まで谷に一切吹かなかった風。
乾いた木の葉が、さらりと地を滑った。
風が、まるでその家の扉を押すように、
ギィ……と自然に開け放った。
中は、静かだった。
家具は壊れ、埃が積もり、かつて誰かが住んでいた証は色褪せていた。
でも――そこには、一枚の布が残っていた。
壁にかけられた古びた布には、昨日と同じような記号が並んでいた。
きっとそれが、“しるしの元”。
「……これが、君の記憶なんだな」
少年は、布を見上げたまま、何も言わない。
けれど、その瞳には、確かに微かな光が宿っていた。
言葉はなくてもいい。
でも、忘れてはいけないものがある。
フィンは、布の前に立ち、そっと一礼した。
リナとノーラも、静かに目を閉じた。
少年のそばに、風が寄り添っていた。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました!
第22話では、「語らない谷」というフィクションの中でも異質な場所を舞台に、
フィンたちが“言葉では届かない人々”とどう向き合うかを描きました。
すべてが無反応で、どこか壊れたような村――それでも、たったひとり、手を伸ばしてきた子ども。
次回から、この“しるし”と“記憶”を手がかりに、谷の奥に眠る過去へと迫っていきます。
彼らの沈黙は、果たして選ばれたものなのか。
それとも、奪われたものだったのか――。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!




