第17話:命を語る剣(前編)
今回の第17話「命を語る剣」では、
フィンの“語り”が初めて直接、人の心に踏み込む場面を描きました。
語ることで誰かを止める。
けれど、それは救いになるのか、あるいは暴力と同じなのか――。
仲間を守るための語りが、やがてフィン自身の内面をえぐり、
そして“語る覚悟”とは何かを問う展開へと繋がっていきます。
山道は細く、霧が立ちこめていた。
朝露が草に宿り、足音すら吸い込まれるように静かだった。
「……ここ、嫌な感じがするね」
リナが小声でつぶやく。
「霧が濃い。誰かが“あえて焚いてる”んだ」
ノーラが警戒する。
フィンも胸の語り火に触れた。火はわずかに揺れていた――風ではない、気配に反応して。
「――待て。止まれ!」
リナが叫ぶのと同時に、霧の中から何本もの矢が飛んだ。
ひとつは地面に刺さり、もうひとつがノーラの足をかすめた。
「くっ……!」
ノーラが片膝をつく。
「ノーラ!」
「大丈夫……浅い。でも、来るよ!」
次の瞬間、霧が裂けて、十数人の盗賊が姿を現した。
斧、槍、粗末な革鎧。組織された軍ではない。
だが――彼らの目にはためらいがなかった。
「いけるか!」
「やるしかないっしょ!」
リナが前に出て、剣を抜く。ノーラも懐から小さな詠唱石を取り出した。
フィンは、剣を抜かないまま、静かに前へ進み出た。
⸻
「なにしてんだよ、フィン!」
リナの声が背後から届く。
だがフィンは、霧の奥――敵の中に、妙な揺れを感じていた。
ひとり、明らかに目を逸らした男がいた。
他の盗賊が怒号をあげるなか、その男だけが目に映らないものを見ているようだった。
(……あの男、なにか“覚えてる”)
フィンの足が止まる。
その瞬間、語り火が強く震えた。
(語ってほしい――そう言ってるのか?)
フィンは男の前に立ち、剣を鞘ごと地面に突き立てた。
「……やめろ」
「なに?」
盗賊たちが動きを止める。
「お前が奪った命は、まだお前の記憶にいる。
その声が聞こえるだろう? ――それでも、なお剣を振るうのか」
その言葉と同時に、語り火の光が男の胸元に吸い込まれた。
そして――
⸻
ざわっ
風が吹いた。
否、記憶の声が、吹き抜けた。
「やめてくれ……! やめてくれ……!」
男が突然頭を抱え、崩れ落ちた。
「やめろって言ったのに……やりたくなかった……なのに、俺は……!」
他の盗賊たちが驚愕する。
「おい、どうした! レイス!? おい!」
「こいつ、なにしたんだ!?」
「……“語り”だ。こいつは、こいつの記憶に触れただけ」
リナが低く言う。
「だけど、それは……人の心を壊すほどの、力だ」
⸻
フィンは、膝をついて泣き叫ぶ男の前で、一歩も動けなかった。
手は震えていた。心も、重かった。
(これが……語りの力……?)
「……俺、なにしたんだ……」
「フィン……」
ノーラが、負傷した足を引きずりながら近づいてくる。
「あなたが言った通り。彼は、なにかを背負ってた。でも……」
「それを、無理やり引きずり出したんだ。俺の言葉で。
……俺は、“語り”で人を壊したんだ……」
「フィン!」
リナが叫ぶ。
「それでも、助けたじゃん! あいつがこのまま進んでたら、誰かを殺してたかもしれない。
……あんたの語りは、止めた。止めたんだよ!」
フィンは、剣を引き抜き、静かに鞘に戻した。
けれど――その手の中に残った重さは、しばらく消えなかった。
霧が静かに晴れていく。
盗賊の一人、レイスは地に膝をつき、肩を震わせていた。
その周囲には、仲間たちの戸惑いと警戒が漂っている。
誰もが、フィンを見ていた。
剣を抜かず、ただ語っただけの男。
だが、その語りは――仲間の一人をここまで追い詰めた。
「……なにをしたんだ、お前……」
盗賊のひとりがつぶやくように言う。
「心を……壊したのか?」
フィンは答えない。
ただ、地に伏したレイスに、静かに視線を向けていた。
レイスが顔を上げた。
涙と泥に濡れたその顔に、怯えと……ほんの少しの安堵が混じっていた。
「俺は……もう、剣を握る理由がわからない……」
「レイス……」
仲間の一人が歩み寄るが、レイスは手で制した。
「俺は……昔、村の護衛をやってた。
子どもたちを守って、年寄りを避難させて……“あんたたちは誇りだ”って、言われてた」
一同が息をのむ。
「でも……戦が終わって村が焼けて、帰る場所もなくなって、
報酬も出ず、残ったのは……この剣だけだった」
「……」
「気づいたら、俺は“奪う側”になってた。
それでも、あの時の声が、ずっと頭の中に残ってたんだ……
“お前は誇りだ”って……でも俺は、もう誇れるものなんか、なかった」
フィンは、ゆっくりと前に出た。
「じゃあ……今、もう一度、その声を思い出して」
「……!」
「語られなかったその想いを、誰かに伝えたいなら――
俺は、それを“語る”ことを選ぶ。……剣じゃなくて、語りで」
⸻
「冗談じゃねえ!」
突然、別の盗賊が叫んだ。
「感傷で隊を解散する気か!?
このままじゃ、飢えて死ぬんだぞ!」
「そうだ! こいつに心を読まれたくらいで、何もかも捨てられるか!」
怒号が上がる。
レイスは立ち上がり、振り返った。
「違う。心を読まれたんじゃない――
俺が初めて、自分の心を“聞いた”んだよ。
忘れたふりしてた声が、フィンの語りで……はっきり響いた」
「……」
「俺は今、あんたたちに何も強制できない。
でも、俺はもう剣を振るいたくない。……振れないんだ」
彼は、自分の剣を地面に落とした。
カシャン――という金属音が、霧の静寂に響いた。
それを皮切りに、一人、また一人と剣を置いていく。
「……俺もだ。もう、やめる」
「ここで止まるなら……俺も、それでいい」
「フィン・グリムリーフ。……その名、忘れねえよ」
⸻
盗賊団は静かに立ち去った。
誰も、彼らを追わなかった。
そして誰も、あの日の彼らを“善人”だとも“悪人”だとも言わなかった。
ただ――語られなかった彼らの物語が、ここから始まったのだと、
フィンたちは静かに見届けていた。
⸻
ノーラがそっとフィンの隣に立つ。
「怖くはないの? 語りって、こんなにも……人の心を動かしてしまうのに」
「怖いよ。
でも……怖がって黙るより、怖くても語った方がいい」
「どうして?」
フィンは静かに言った。
「……語られなかった声が、ずっと心に残ってるなら。
誰かが、その声を“思い出せるように”語らなきゃって思うんだ」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
乾いた小枝が弾け、赤い火の粉が夜空に跳ねる。
その光をぼんやりと見つめながら、フィンは膝を抱えていた。
語り火の瓶は、両手の中にあった。
昼間の出来事をなぞるように、瓶の中の灯りがゆらゆらと揺れている。
「……俺のせいで、泣かせた」
ぽつりと、漏れた声は小さかった。
それでも、火に照らされた顔にははっきりと迷いが滲んでいた。
「あの人は……俺の語りで、崩れ落ちた。
俺が触れなければ、あんなふうにはならなかったのに」
語りは力だ。
でも、力は――誰かを救える半面、誰かを傷つけもする。
今日、初めて“語りで人を壊す”可能性を目の前に突きつけられた。
その重さに、肩が押し潰されそうだった。
(本当に、これでよかったのか?)
(止めたかった。ただそれだけのはずだったのに……)
「……語らない方が、よかったのかもしれない」
ふと、そう呟いたとき――
「それでも、語ったんでしょ?」
声が降ってきた。
焚き火の向こう側、剣を傍らに置いたリナが腰を下ろしていた。
「語るのをやめなかったってことは、少なくとも“そうした方がいい”って、あんた自身が思ったってことじゃない?」
フィンは顔を伏せたまま答えない。
「語ったあんたを、私は止めなかったよ。ノーラも」
リナは焚き火に手をかざし、じっと揺らぎを見ていた。
「私にはできない。あんなこと。
誰かの心に深く踏み込んで、その記憶に触れて、
それでもちゃんと正気でいられる自信なんてない」
「……俺も、正直わかんないよ」
フィンがようやく口を開いた。
「心に届いたって思えた一方で、“壊したかもしれない”って、思ってる。
罪の意識と、必要だったって気持ちが――ずっと、ぐるぐるしてる」
そのとき、語り火の瓶が、ふっと小さく揺れた。
フィンが気づいて目を向けると、ノーラが焚き火の外から歩いてきた。
「私さ、あんたの語り……ちょっと羨ましかった」
「……羨ましい?」
ノーラは瓶を見つめながら言った。
「私の魔術は“記録”を扱う。でも、あんたの語りは“記憶”そのものに触れる。
しかも、それが“癒し”にも“刃”にもなり得る」
「……だから、怖いんだよ」
「でも、あの人、レイス。
あの人の目には、あんたの語りが“呪い”だった?」
「……いや。
最後には、ありがとうって――言ってくれた。
“語ってくれて、よかった”って」
ノーラは笑う。
「なら、いいじゃない。
結果なんてどうでもいい。大事なのは、“語る覚悟”を持てたかどうか。
その一歩が、きっとどこかに届くんだよ。誰かに」
フィンは瓶を両手で包み直す。
小さな炎が、手のひらの中でぽっと灯る。
さっきよりも、少しだけ明るい気がした。
「……怖い気持ちは、たぶんこの先もなくならない」
「なくていいよ。なくなったら、それは語りじゃなくなる」
リナが言った。
「怖いまま、語ればいい。あんたは、そういう語り手なんでしょ?」
「うん……そう、かもな」
フィンは深く息を吐いた。
「じゃあ……もう一回、決めるよ。
俺は、“語られなかった声”を、語っていく。
たとえ怖くても、迷っても――
それが届く場所があるなら、俺は……語る」
風が吹いた。
瓶の中の炎がふわりと揺れ、
フィンのその言葉に答えるように、柔らかく明るく燃え上がった。
リナが笑い、ノーラも目を細める。
「……じゃあ、あんたの語り、これからもそばで見ててあげる」
「見てるだけじゃなくて、ちゃんと支えてね」
「任せなさい。あんたが倒れたら、私が語る番だから」
⸻
こうして、夜は静かに更けていった。
しかし誰もが、わかっていた。
“語り”はこの日、ひとつ形を変えた。
ただの言葉ではなく、“誰かを生かすための選択”として――
フィンの手の中で、確かに宿ったのだ。
朝の光は、静かに山を包んでいた。
霧はほとんど晴れ、草の葉に宿る露が朝日を受けてきらめいている。
鳥の声もまだ少なく、夜と朝の境目にあるような、静かな空気が漂っていた。
語り火の瓶が、荷物の脇でほのかに揺れている。
フィンはその光に目をやりながら、深く息を吐いた。
「……少し、軽くなった気がする」
「うん。顔つきがね、昨日よりまし」
そう答えたのはリナだった。
彼女は剣を背負いながらも、どこか穏やかな表情をしていた。
「本当の戦いって、斬り合うことより、語った後に“立ち続けられるか”ってことかもね」
ノーラがゆっくりとストールを肩にかけながら言った。
「語った人間が、責任まで引き受けられるかどうか。
あんたは昨日、それができた。だから……今、少しだけ風向きが変わってるのかも」
その言葉に、フィンはハッとしたように顔を上げた。
「……風?」
そう――確かに、吹いた。
それはほんの一瞬。
語塔のある東の方角から、ふわりと頬を撫でるような風が、こちらへと届いた。
まだ誰も起きていない山道。
風見鶏も音は立てず、葉擦れの音もない中で、確かに“届いた”と感じたのだ。
(今のは……語塔の……)
フィンは瓶に目を落とす。
瓶の中の火が、小さく、しかし確かに“応えるように”揺れた。
「……聞こえた気がする」
「え?」
「誰かが、俺の語りを……“聞いた”って」
その言葉は確信ではなく、希望だった。
けれどその声には、もう昨日のような迷いはなかった。
⸻
遠く、語塔の最上部――
ルネ・レディオルは静かに風を感じ取っていた。
彼女の衣が揺れ、風が語塔の窓を抜ける。
目を閉じた彼女の唇が、わずかに動く。
「……語りは、まだ生きている」
その声は誰にも届かない。
だが彼女の胸元で、小さな紋が淡く光った。
それは――千年前に封じた語りの証。
かつて言葉に殺され、言葉で癒された者だけが背負う“名もなき誓い”だった。
(あの子が、“風を呼んだ”)
(ならば、私もまた……)
彼女は塔の中央に置かれた古い書を開いた。
誰も触れてはならなかったその記録のページを、初めて自分の手でめくる。
その紙の香りと共に、再び塔に“風”が吹いた。
それはまだ細く、かすかなもの。
だが確かに、“言葉が戻る予兆”だった。
⸻
朝の山道。
フィンは語塔のある東を見つめながら、小さくつぶやいた。
「行こう。俺の語りが届く場所まで」
語り火が、明るく揺れた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
第17話は、フィンの語りが持つ「力」――その正と負の両面をテーマに据えた回でした。
言葉は人を救える。けれど、同時に“暴く”ことにもなりかねない。
それでもなお、語り続けようとするフィンの姿は、
彼がただの語り手ではなく、導く者――未来の“王”へと歩き始めていることを示しています。
風が再び動き出しました。
次回は、語りが“少年の命”に届く回――
どうぞ、引き続きよろしくお願いします!