第16話:風に名を乗せて
第16話では、フィンたちがたどり着いた“語りの街”レディオルを舞台に、
「語ること」「語られなかった歴史」「語ってはならない記録」と向き合う旅の一幕を描きました。
封印された街、語れない風、そして静かに語りを見守る管理者ルネ。
彼女との出会いが、フィンに“語る覚悟”を問う場面となり、
街そのものが再び語りを許すかどうか――その答えが、試されます。
「じゃあ、これを持っていけ」
そう言ってグロルが差し出したのは、無骨な木箱だった。
鉄の留め具がついたそれを開けると、中には古びた鍛冶道具と、小さな火種の入った瓶が納められていた。
「……これ、もしかして“語り火”?」
フィンが手に取ると、瓶の中の火種がぴくりと揺れたように見えた。
その動きに、彼は少しだけ息を呑む。
「ただの火じゃない。使う者の“覚悟”がなきゃ、燃えやしねぇ」
グロルは腕を組みながら言った。
「それは、俺が親父から譲り受けたものだ。
ずっと仕舞ったままにしてた。だけど、お前にこそ相応しい」
フィンはその言葉の重みを感じながら、静かに頷いた。
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工房の中は、昨夜までの熱がまだわずかに残っていた。
消えかけた炉から漂う焦げた木の香り、金槌の打撃で変色した作業台、そして壁に残る煤の痕。
フィンは、あらためてその場に深く頭を下げた。
「この剣に語りかけてくれて、ありがとうございました。
グロルさんの想いも、親父さんの技も、全部が――ちゃんと、届きました」
「礼は要らねえよ」
グロルは少しだけ顔を背けた。
「けどな。もしどこかで、“語りが消えた”場所があったら――
お前が、それを拾ってやれ。俺にはもうできねぇが、お前なら……」
「……やってみます」
フィンはそう応えながら、胸の中に小さな決意を灯した。
語る力は、まだ完全じゃない。
けれどそれは、確かに“誰かとともに在る”ためにある。
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外では、リナとノーラが出発の準備を終えていた。
「よし、食料よし、水袋もよし……次の町までは三日ってとこだな」
「街道までは荒れてるって地図に書いてあった。慎重に行こう」
「慎重って言いながら、リナ、今さっきまで昼寝してたよね?」
「仮眠だっつーの!」
そんな掛け合いの中に、フィンが合流する。
「おまたせ。……行こうか」
ノーラがちらりと手元の地図を確認しながら頷く。
「進路は南。古都レディオルに向かって一直線。
遺跡と書庫の街。少し遠回りだけど……語りの記録があるかもしれない」
「語りの記録……いいね。何か、次の“名”への手がかりになるかも」
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三人が歩き出す直前。
工房の前に立つグロルが、ぽつりと呟いた。
「……この村も、いずれ片付けるさ。
燃えたまま放っといたら、剣たちが泣くからな」
フィンは一瞬だけ振り返り、ゆっくりと頷く。
「いつかまた、どこかでお会いしましょう。
“語れる剣”がもっと増えたら……そのときは、また火を入れてください」
「その時ゃ――今度は“打ち直し”じゃなく、“共打ち”だな」
「……え?」
「お前に語られた剣と、俺が鍛えた剣。並べて“名を交わす”日が来るさ。
それまで、お互い――風を忘れるな」
グロルは笑った。それは、かつて語りを失った鍛冶師ではなく、
“名を再び託した者”の顔だった。
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村を出る最後の坂道。
丘の上から工房の屋根が見えた。
煤けて、瓦がいくつも落ちたその建物は、でも確かに――“語った”。
風がその上を吹き抜ける。
かすかに回る風見鶏が、きぃ、と小さく鳴いた。
「変わったね、この場所も」
フィンがつぶやく。
リナが横で口を尖らせた。
「うーん、でもなんかこう……旅立ちの後ろ姿、かっこよくなりすぎじゃない?」
「嫉妬?」
「ちげーし!」
ノーラはそんな二人を笑いながら見ていた。
「でも、いいじゃない。旅の仲間に、語る者がいるって」
その言葉に、フィンはふと気づいたように足を止めた。
「……仲間、か」
「ん?」
「ううん。なんでもない。よし、行こう!」
言葉にしなかったけれど、胸の中に確かに残っていた。
“誰かと一緒に在る”って、たぶんこういうことなのかもしれない。
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手のひらの火打石の瓶が、かすかにぬくもりを持っていた。
まだ、名のない剣。
まだ、語られていない旅路。
でも――風は吹いている。
それだけで、今は十分だった。
三日目の朝。
まだ陽も昇り切らぬ時間、街道の先にひっそりと姿を現したのは――灰と風の都、レディオルだった。
「……あれが、古都レディオル?」
フィンの声に、ノーラが頷く。
「そう。かつて“語り”と“記録”のすべてが集まった都市。塔が三つあるのが目印だって地図にあった」
遠くに見える三本の尖塔は、霧に沈み、まるで夢の中の影のようだった。
けれど、フィンは違和感を覚えた。
(風が、街の手前で止まってる)
空は晴れていた。木々も揺れていた。
けれど、街の輪郭を越えたあたりから、風が消えている。
「なんか……空気が重い」
リナが首を傾げた。
「音も届かない。鳥の声も、草のざわめきも――あの街だけ、時間が止まってるみたいだ」
「“語れない街”かもしれないな」
フィンは、胸元の小瓶に触れる。
グロルから託された“語り火”は、まるで息をひそめたように静かだった。
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街の門にたどり着くと、そこには奇妙なものが張り付いていた。
布ではない。声を吸う紙の封。
表面にかすれた文字が刻まれているが、誰も読めなかった。
「語り封じだな、これ。しかも……かなり昔の形式だ」
ノーラが目を細めた。
「普通はもう使われない術式だよ。こんな古いやり方……千年前の封印体系かも」
「中に何か、封じたい“言葉”があるってこと?」
「か、あるいは“語られたくない記録”がある」
リナがため息をついた。
「で、いつものように抜け道を探す流れね?」
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街を囲む石壁は古く、ところどころ崩れていた。
リナの勘で裏手の通路に回ると、石造りの小門が半分開いていた。
「やっぱりあった。書庫のある町って、だいたい火除けの退避路があるのよね」
「詳しいな……泥棒?」
「旅人!」
半分冗談、半分本気のやりとりを交わしながら、三人は無人の小路へと足を踏み入れた。
⸻
レディオルの街は、まるで**“話をやめてしまった街”**のようだった。
石畳の道、傾いた街灯、閉じた扉。
どの建物も住んではいるようなのに、人の声が一切聞こえない。
「……誰も話してないのかな」
フィンの声が、静かに路地に吸い込まれていく。
「“話す”というより、“語る”ことを拒んでる気がする」
ノーラの言葉に、リナが頷いた。
「目の前に誰かいても、話しかけようと思わない感じ。
……こういうの、昔あった。戦のあと、町が一斉に口を閉ざしたとき」
⸻
三人は、街の中心“語塔”を目指した。
塔は六角形で、高く、周囲を石の水路が囲っている。
かつては水で冷却しながら、大量の記録書が保管されていたという。
扉は半開きになっていた。
けれど、入り口には誰もいない。守衛も、灯りも、声すらもなかった。
中に一歩入った瞬間、フィンは胸がきゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
(ここ……“語ることをやめた空間”だ)
壁一面に広がる書架には、封布が巻かれていた。
紐で縛られた本、刻印で閉じられた巻物、無数の語りかけを拒む“静かな檻”。
「まるで、記憶の墓場だな……」
リナが低く呟いた。
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フィンはゆっくりと棚に近づいた。
一冊の本に手を伸ばそうとしたその瞬間――
「おやめなさい」
声が響いた。
静かで、でもはっきりと届く声。
その場の空気が一瞬で張り詰める。
塔の奥。階段の上から、白いランプを掲げた少女が現れた。
長い銀髪、淡い青の瞳。
どこか異質で、風の通らない場所から来たような空気を纏っていた。
「あなたたちは、外から来た者ですね。
この塔に立ち入る理由を、聞かせていただけますか?」
彼女の声は、感情を抑えたようで、それでいて一言一言に重さがあった。
リナが前に出て、腕を組んだ。
「理由? そうね、旅の途中で少し道に迷っただけ。ちょっとした“語り”の名残を探してただけよ」
「ここには、語りはありません。
あるのは“語れなかった記録”と、“語られてはならない歴史”だけ」
その言葉に、フィンの目が真剣になる。
「でも、語れないままにしていいんですか?
誰かがその名を忘れてしまったら……その想いは、もう届かない」
少女は一瞬、言葉を止めた。
「……あなたは、語り手?」
「まだ、名を探している途中です。
でも、語りたい気持ちはあります」
数秒の沈黙。
やがて少女はゆっくりと階段を下りながら名乗った。
「私は――ルネ・レディオル。この塔の封印管理者です」
その名を聞いて、三人は同時に驚いた。
「レディオル……?」
「この街の名と、同じ……?」
「まさか、あなたがこの都市の……?」
ルネは微笑まなかった。ただ、静かに言った。
「この街の声を封じているのは、私です。
そして――この塔は、“語り”の最期の場所です」
「この街の声を封じているのは、私です。
そして――この塔は、“語り”の最期の場所です」
ルネ・レディオルはそう言った。
その名に宿るもの。
彼女がこの街そのものの名を冠していることに、フィンたちは言葉を失った。
フィンが一歩、前に出る。
「語りの……最期?」
「ええ。この街では、語られるべきだった“名”が、あまりにも多すぎた」
彼女の瞳は、悲しみを湛えていた。だがそれは、感情を捨てた者のものではない。
封印という役目を背負った者だけが持つ、静かで重たい眼差しだった。
⸻
ルネは塔の中央――円形の読書台へと歩き、古びた布を一枚めくる。
そこには、一冊の分厚い本があった。
だが、その表紙には何の文字も、紋様すらも刻まれていなかった。
「これは、“無題の書”。
レディオルの全ての記録のうち、“語ることを禁じられた記録”がここに集約されています」
「……禁じられた?」
ノーラが眉をひそめる。
「記録は、残すためのものじゃないの? 封じるなんて――矛盾してる」
「残したことで、争いが生まれたのです」
ルネはページをめくる。そこには、まるで焼け焦げたように黒く潰れた文字が並んでいた。
「千年前、この街では“語る者”と“記す者”が対立しました。
記憶で語り継ぐべきだと信じる者と、記録によって未来へ渡すべきだと信じる者――
そして、争いの末に、語りは敗れました」
⸻
ルネの指が本の端をなぞる。
「語りは、時として形を変え、意味を変えてしまう。
それを“危険”と判断した者たちは、語られるべき名や言葉をすべて閉じ込めました」
「……その結果が、今のこの沈黙?」
リナの声には皮肉が混じっていた。
「街が声を失い、住人たちが語らなくなった理由は――この“記録”に縛られているから」
ルネは頷く。
「この塔に記された無数の“語れなかった言葉”が、街全体に静寂を敷いている。
語れば、封印が乱れ、また争いが起きる。
だから私は……この語塔を閉じたのです」
⸻
フィンはしばらく黙って、塔の中を見渡していた。
封印された本棚。布で隠された壁。
何かを守っているのではない。何かを諦めている空間だ。
「じゃあ、ルネさん。
あなたは、この街をこのままにしていいと思ってるんですか?」
彼女は目を伏せる。
「それが……私の役目です。
この静けさが、争いを防ぐ最後の手段だと知っているから」
「でも……語られないままでいいんですか?」
フィンの声が重なった。
「語りって、“誰かのために在る”ものだと思うんです。
語られなくなった想いは、もう誰にも届かない。
それでも、残っていたなら――きっと、誰かがそれを語らなきゃいけない」
ルネの手が、無意識に本を握る。
⸻
「語ることが正しいとは限らない」
「でも、語られずに傷だけ残すのは……もっと、間違ってる」
二人の言葉が交差した瞬間、塔の上から風がひと吹き舞い込んできた。
止まっていた空気が、微かに揺れる。
リナが、ぽつりとつぶやいた。
「……風が、戻ってきた?」
ノーラも気づいたようにうなずく。
「語塔の上階……風見鶏が回った」
ルネは顔を上げた。
「……もしかして、あなた……」
フィンは小さく笑った。
「語りの資格があるのかは、まだわからない。
でも、“語りたい”とは思っています」
⸻
ルネは一つ深く息を吐くと、本を閉じた。
「ならば……この街の沈黙を破る、試練を受けてもらいます」
「試練……?」
「“語れなかった記録”の中には、一つだけ“語ってはいけない言葉”があります。
それを見抜けたなら――語る資格があると、私は認めましょう」
フィンは迷わず頷いた。
「やります」
ルネは背を向け、塔の奥へと歩き出す。
「……ついてきてください。記憶の牢へご案内します」
語塔の奥へと続く螺旋階段は、石と静寂でできていた。
足音は吸い込まれ、壁の燭台には火が灯っているはずなのに、影は揺れず、冷たかった。
まるで、時間そのものが閉じ込められているようだった。
フィンの胸の内で、語り火の瓶がかすかに温もりを帯びる。
(何かが……近い)
ルネが立ち止まり、小さな鉄扉に手をかける。
「ここが、“記憶の牢”。
語りの街、レディオルのすべての“語ってはいけなかった記録”が保管されています」
「本当に……語ってはいけなかった?」
フィンの問いに、ルネは静かに頷いた。
「語られれば、誰かを傷つけ、世界の何かが壊れてしまう。
だから、この扉は開かれていない。誰も中に入ることを許されていませんでした。
……けれど今、この試練を通じて、“語る資格”を見せてください」
⸻
扉の奥は、まるで地下聖堂のような空間だった。
空気は澱み、棚が整然と並び、封をされた本が無数に収められていた。
だが、その一冊一冊から、語られなかった“熱”が滲み出ていた。
フィンは、一歩、また一歩と足を進める。
「この中に、“語ってはならない”記録があるんですね?」
「はい。
それを“直感”でいい――あなたの語り手としての感性で、見つけてください。
それができた時、あなたが“語りを再び許す者”としてふさわしいか、判断できます」
⸻
リナとノーラも、フィンの後ろで沈黙を守っていた。
リナは珍しく真剣な顔をしていた。
「……なんか、妙な緊張感だね」
「わかる。これは“本を選ぶ”ってだけじゃない。
フィン自身が“語るに値する存在か”を問われてる」
「その答えが出なかったら……街の封印は、破れないままなんだろうな」
⸻
フィンは棚をゆっくりと歩いた。
手をかけたくなる本が、いくつもある。
無題の書、焼けた紙の束、血痕のついた布装丁の巻物――
その中で、ふと一本の巻物の前で立ち止まった。
風が通ったような錯覚。
でも、それは“語れ”とは言わなかった。
“語るな”
そう、呼びかけていた。
「……これだ」
ルネが目を見開いた。
「どうして、それを?」
「……語ってはいけないって、“語りたくなる”からですよね。
この巻物は、“語ってはいけない理由”を、俺に語りかけてきた」
⸻
ルネが歩み寄ると、そっとその巻物に触れた。
すると、静かに、封の紋がほどけていく。
中には、たった一行――
『語りは剣となり、世界を裂く。されど、黙して滅ぶは尚愚なり』
ルネは読み終え、目を閉じた。
「……あなたが、その記録を選んだ時点で、答えは出ていました」
「え?」
「この巻物は、“語ることを許すかどうか”の、最終封印でした」
フィンは目を見開く。
「じゃあ……これは?」
「この塔、そして街全体を封じていた“鍵”です。
それを選べたあなたには、語る資格がある――と、この街が認めたことになります」
⸻
ルネはゆっくりと巻物を納め、扉の鍵を開いた。
空間の重圧が、わずかに軽くなった。
塔の上階から、再び風が吹き込んできた。
「……風が、語りかけてきた」
フィンがそうつぶやくと、語り火の瓶がぽっと小さく揺れた。
それは、応えるように――
⸻
「フィン」
ノーラが声をかける。
「たぶん、この巻物の意味を、私たちがどう“語るか”が大事になる。
ただの記録じゃない。これは“未来の語り”だよ」
リナも頷いた。
「黙して滅ぶか、語って抗うか。
あんたが“語る者”として立つなら――この街は、もう一度言葉を持てるかもしれない」
⸻
ルネが歩み寄り、頭を下げた。
「……レディオルに、風を戻してくれて、ありがとうございました。
封印は解除されました。今度は――語る準備を、皆で始めます」
「俺も、まだ全部語れるわけじゃないけど……一緒に、進みます」
その言葉に、塔の窓から差し込んだ朝日が、ようやく地上へと届いていた。
街の風景が、ほんの少しだけ動いた気がした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
第16話は、静かだけれど重いテーマ――「語ることの責任」と「語り直す意味」を中心に据えた回となりました。
フィンの語りは、力でも魔法でもなく、“誰かのために言葉を使う覚悟”として育ち始めています。
レディオルの風が戻った今、彼の旅もまた、ひとつの段階を越えました。
次回からは、新たな街、新たな出会い、そして――新たな“名”との遭遇へ。
引き続きお楽しみください!