第13話:語られない日常と、ささやかな支度
迷い風が導いた先は、語られたくない記憶の眠る森でした。
第13話では、フィンたちが“語られることすら拒まれた過去”と向き合い、
忘れられた名と出会うことで、
“語る者”としての責任と覚悟を改めて突きつけられる展開になります。
誰にも語られず、誰にも届かなかった声。
それでも、風は確かに記憶を残していました。
灰風の丘を後にして三日目。
乾いた土の匂いと、わずかに湿った風が入り混じる丘陵地帯を抜けた先に、小さな村が見えた。
その村の名は――ラステロ。
旅人や商人が行き交う交差点のような場所で、
木造の家々と露店が並ぶ、どこか牧歌的な匂いのする村だった。
「やっと、“人の声”が聞こえたね」
リナがそう呟く。
ここ数日はずっと風の記憶と沈黙派との戦いに囲まれていた。
今、聞こえてくるのは、屋台の呼び込み、子どもの笑い声、馬のいななき――
「……風が、喋ってない」
ノーラがぽつりと呟く。
「この村には、“語られた記憶”が残ってない。
良くも悪くも、“何も起きなかった”場所……」
それはある意味、幸せなことなのかもしれない。
フィンは木の柵の前で立ち止まり、小さく息をついた。
「なぁ、少し……飯、食おうか」
⸻
村の中心にある小さな食堂。
木の扉を開けると、パンとスープの香りが迎えてくれた。
「いらっしゃい!旅の方かい? 今日は山菜スープとチーズパンがあるよ」
女将が笑顔で出迎える。
フィンたちは空いた席に腰を下ろした。
「……あったかい空気、久しぶり」
リナがホッとしたように椅子に背を預けた。
やがて、湯気の立つスープと、香ばしいパンがテーブルに並ぶ。
フィンが手を伸ばして、パンをちぎる。
その動きがわずかに止まったのを、リナは見逃さなかった。
「……お金、あるの?」
フィンは黙って、腰の革袋を取り出した。
袋の中には、銀貨が数枚。
「……村にいたころ、仕事で少しだけ貯めてたんだ。
追放が決まった日の朝、家を出る前に――こっそり、机の引き出しから持ってきた」
リナは何も言わずにパンを割った。
「……ちゃんと生きる準備、してたんだね」
「夢だけじゃ、生きていけないって、さすがに分かってた」
⸻
食後、三人は露店をまわった。
干し果物、保存用の固パン、新しい水袋、火打ち石、布包帯――
最低限の旅支度を整えるだけで、銀貨はほとんど底を突いた。
「やば、結構ギリギリだったね」
リナが財布袋を覗きながら、苦笑いを浮かべる。
「ちょっとぐらい貸すってば。ほら、言いなよ?」
「……じゃあ、次の村で返す」
「それ、フラグだよ」
そんな軽口を交わせる空気は、久しぶりだった。
ノーラは露店で摘み草の束を買い、匂いを確かめてから頷いた。
「この村の南には水場がある。
森に入る前に、もう一泊して体調を整えた方がいい」
⸻
夜。村のはずれにある安宿。
干し藁を敷いただけの床と、簡素な毛布が三組。
だが屋根があるというだけで、どこか安心できた。
ランタンの灯りの中、三人は無言でベッドに横になった。
風の音も、虫の声もない。
ただ、静かな夜があった。
⸻
翌朝、鳥の鳴き声とともに目覚めた。
出発の支度を整えながら、フィンはふと呟く。
「……こういう場所が、ずっと続けばいいのにな」
リナが後ろから茶化すように言う。
「似合わないこと言うじゃん、戦場王」
「静けさってのも、悪くないって思っただけさ」
ノーラが荷物を背負いながら微笑んだ。
「でも、私たちは風に呼ばれてる。
また“語られなかった声”が、待ってるよ」
⸻
風が、背中を押した。
三人はまた、歩き出す。
ラステロの村を発ち、南東に向かって二日。
森が見え始めた。
木々は深く、枝葉は空を塞ぎ、昼でも薄暗い。
その森の入り口に、風が集まっていた。
だが、それはこれまでの“語りたがる風”とは違っていた。
「……風が、迷ってる」
ノーラがぽつりと呟く。
「まるで、自分の行き先が分からないみたい」
「風なのに……進めないのか?」
フィンの問いに、ノーラは小さく頷いた。
「風って、たいていどこかへ向かう“意志”を持ってる。
でも、この風は――“止まってる”の。
何かに縛られてるか、もしくは……“進みたくない”のかも」
リナが森をじっと見つめる。
「……嫌な感じがする。
ここ、空気が“拒んでる”」
「拒んでる?」
「“入ってくるな”って、そんな感じ。
ここまで来て言うのも何だけど……
たぶん、ここにあるのは“語りたがらない記憶”だよ」
⸻
三人は無言で歩を進めた。
森の中は、思ったよりも静かだった。
風が音を立てない。葉も揺れない。
虫の声さえ、聞こえない。
ただ、重い空気だけが、身体にまとわりつく。
「……何かが“閉じ込められてる”感じがする」
ノーラが眉をひそめた。
「風の流れが、木の根や地面に吸い込まれていく。
これは、“語られたくない記憶”が、この森全体を縛ってる証拠」
「記憶が、風を拒んでる……?」
「そう。
ここは、“語りを拒絶する場所”なの。
たぶん、誰かの過去――
でもそれは、“語られたい過去”じゃない。
……“蓋をされたまま、触れられたくない過去”」
⸻
しばらく進むと、森の奥に古びた廃屋が見えた。
屋根の一部は崩れ、壁は苔に覆われ、
扉は外れかけて斜めに開いている。
その家の前で、風が止まった。
「……ここだ」
ノーラが呟く。
「この家の中に、風が流れてない。
まるで、ここだけ“記憶”が遮断されてる」
リナは剣の柄に手をかけた。
「……何か出る?」
「わからない。
でも、出るとしても“物”じゃない」
ノーラの答えに、フィンは深く頷いた。
「“語られなかった何か”が、まだここにいる」
⸻
廃屋の中は、想像以上に荒れていた。
家具は朽ち、床板は踏むたびに軋み、
壁には何かを削り取ったような跡があった。
その中央に、一枚の割れた鏡が落ちていた。
フィンがそれに近づくと、風が微かに反応する。
「……これは、“誰か自身を映すことを拒んだ”記憶かもしれない」
「どういう意味?」
リナが訊く。
フィンは割れた鏡を指差した。
「たぶん、ここにいた人は――
“自分が誰だったか”さえ、忘れようとしてた」
⸻
ノーラが床を撫で、土埃の下から文字の痕跡を見つけた。
それは――消されかけた日記の断片だった。
“……今日も、誰にも気づかれなかった。
私はここにいるのに、誰の中にもいない。”
“……名前を、名乗ってもいいのか分からない。
私は、誰にも知られたくない。”
リナが顔をしかめた。
「これ……すごく……わかる気がする」
フィンが驚いて顔を向けると、
リナは少し目を伏せた。
「別に、自分の過去が“語られたくない”ってこともあるよ。
誰にも知られたくなくて、ただ、忘れてほしくて、
名前さえ呼ばれたくない。
……そういう時期って、あるんだよ」
ノーラは何も言わず、ただ耳を澄ませていた。
「……風が、この家の中に戻り始めてる。
ゆっくりだけど、“語ってもいい”って思い始めてる風がある」
⸻
フィンは鏡の破片を拾い、床の文字の上に置いた。
そして、ゆっくりと語った。
「……お前のことは、知らない。
けど、ここにいた“誰か”が、
ここで“自分でありたくなかった”ってことだけは、伝わった」
「だから、今は語らない」
「でも、いつか風が語りたいと思ったとき――
そのときは、ちゃんと、名を呼ばせてくれ」
風が、静かに揺れた。
ほんのわずか、だが確かに。
それは、“拒まない”という意思の揺らぎだった。
⸻
三人は廃屋を出た。
森の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
「……あの家には、語りたい記憶はまだない。
けど、“語られるかもしれない”未来のために、風は残った」
ノーラがそう呟くと、リナが笑った。
「なんだか、ちょっと昔のフィンみたいじゃん」
「昔?」
「語られなかった頃の、ね」
フィンは少し肩をすくめて答えた。
「じゃあ、いつかこの森も“語られる”ようになるのかもな。
俺たちの旅が、誰かに届くなら」
風が、また少しだけ吹いた。
それはまだ名を持たない風。
けれど、それはきっと――語り始めようとする風だった。
森の奥で、風が揺れた。
それは今までの風とは明らかに違っていた。
鋭く、冷たく、そして――何かを“知らせよう”としていた。
「……風の流れが変わった」
ノーラが立ち止まり、耳を澄ませる。
「さっきまでの迷い風じゃない。
今は、明確に“誰かを呼んでる”。」
「俺たちを?」
「違う。
“語れる者”を――探してる」
風の方向を追うと、道なき道の奥、枯れた木々の間に、ひとつの影が立っていた。
人影。
だが、その気配はあまりにも静かだった。
風がその者を避けるように流れ、葉がその足元だけを踏まない。
リナが剣に手をかける。
「……敵?」
「まだ、わからない」
フィンが一歩、前に出た。
「……あんたは、誰だ?」
その問いに、返事はない。
だが、男はゆっくりとフードを外した。
若くも老いても見える、掴みどころのない顔立ち。
瞳は色を失った灰のようで、光を映さなかった。
そして、彼は言った。
⸻
「語られたことのない名前を――
あなたは、聞く覚悟がありますか?」
⸻
その問いに、三人の空気が変わる。
リナは一歩下がり、ノーラは風の流れを再確認するように目を閉じた。
フィンは、まっすぐに相手を見つめた。
「俺は、“語られなかった名”を風に返すために旅をしている。
それが、“過去”でも、“罪”でも――聞くつもりだ」
「……ならば、語りましょう」
男が手を掲げる。
風が集まり、空間が歪む。
空気が重くなり、視界の色彩が少しずつ褪せていく。
「ここは、“語られなかった者の墓標”――
かつて、この森にひとつの村がありました。
しかし、その存在は歴史から消されています。
地図にも記されず、記録もなく、誰も名を語らない。
彼らは、“村ごと忘れられた存在”なのです」
「……そんなことが……」
「戦争の最中でした。
勢力の境目にある村。
敵にも味方にもなれず、静かに暮らしていた彼らは――
“存在ごと厄介だった”。」
男の声は静かだが、どこか芯がある。
「だから、“なかったこと”にされた。
炎で焼かれ、名を奪われ、風すら封じられた」
ノーラが顔を強張らせる。
「……封じたのは、沈黙派?」
「一部です。
ですが……本当の沈黙は、“語らない者”たちの選択です」
「選択……?」
「自分の名が語られれば、他人が苦しむ。
だから、名を叫ばず、記憶を残さず、
“自ら語られない道”を選んだ者もいるのです」
フィンはその言葉を聞いて、
森の中で見た割れた鏡と、消された日記の断片を思い出した。
「……だから、風が“進めなかった”んだ」
「ええ。
彼らは、今でも誰かに名を語られることを恐れている。
それでも、あなたは――名を呼びますか?」
フィンは一歩、男に近づいた。
「恐れてるなら、無理に語らない。
けど……願ってるなら、名前を残す。
それが、俺の旅の意味だ」
男の口元が、わずかに緩んだ。
それは、表情というには微細すぎる“歪み”だったが――
確かに、わずかな“感情”だった。
⸻
「ならば、これを」
男が懐から取り出したのは、小さな石板だった。
それは苔と土で汚れていたが、
拭うと、そこにはうっすらと文字が刻まれていた。
《セナ・エルティス》
「……これが?」
「“語られなかった村”の中で、最後まで“語りの記録”を残そうとした者の名前です」
ノーラが目を細めた。
「……風が、揺れてる。
この名前は――“語られることを望んでる”」
フィンは石板を胸に抱いた。
「じゃあ、語る。
この名は、“ここにいた”って証だ」
風が、流れた。
森の奥へ向けて。
それは――語られた名が、新たに旅立った瞬間だった。
⸻
男はゆっくりと後ろを向いた。
「いずれ、“語ってはならない名前”にも出会うでしょう。
その時、あなたが選ぶ言葉を……私は見届けます」
「……あんたは、誰なんだ?」
フィンの問いに、男は振り返らずに答えた。
「私は、“語りを記録しない者”。
語られなかった声を、ただ“渡す者”です」
そして、そのまま風に紛れて姿を消した。
⸻
リナがぽつりと呟く。
「……幽霊じゃないよね?」
「わかんないけど、たぶん、あの人も“語られなかった存在”だったんだと思う」
ノーラが静かに頷く。
「彼が残したのは、名だけ。
でも、その名が、風を動かした」
フィンは胸の中の石板を、もう一度見た。
《セナ・エルティス》
風に語るべき、“語りの記憶”。
《セナ・エルティス》
その名が刻まれた石板を携えて、フィンたちは風の導きに従い、森の南側へと進んでいた。
樹々がまばらになり、草もまばらに枯れ始めた頃、
風が、突如として止まった。
そして――
「ここだ」
ノーラがぽつりと呟いた。
目の前に広がるのは、何もない土地だった。
かつて、そこに家があり、人が住み、火を焚き、声があったはずの場所。
今はただ、灰と黒ずんだ地面があるだけだった。
「……焼かれたんだ」
リナが言った。
「これ、ただの廃村じゃない。
“意図的に、消された”」
土を掘ると、砕けた陶器や焦げた釘、歪んだ鉄具のかけらが出てくる。
風が、再び吹いた。
それはどこか、苦しげな風だった。
「……語りたがってる。けど、うまく言葉にならない」
ノーラが耳を澄ませる。
「セナは、ここで何かを“残した”んだ。
語りを――自分の名と共に、誰かに託すように」
フィンは、石板を取り出す。
そして、両手で抱えながら、かつてあったであろう“村の中心”に立った。
⸻
「俺は、セナ・エルティスの名を預かった者だ。
この地に、あなたの声が残っているのなら――語るよ」
風が強くなった。
視界の端が歪む。
ノーラとリナが距離を取り、フィンの周囲に風の渦が生まれる。
それは――風の記憶再現だった。
⸻
辺りに、幻のような光景が広がった。
そこには、静かな村があった。
子どもが走り、釜戸に火が灯り、
人々がささやかに暮らしていた。
「……これが、セナが残した“記憶”……」
フィンは呆然と、その幻を見つめる。
だがその平和な光景に、すぐに影が差す。
突如として兵が村に現れ、火を放ち、叫びが上がる。
逃げ惑う人々。
声にならない祈り。
そして――
一人、瓦礫の中に立ち尽くす少女。
その手に、削られた石板を握りしめていた。
《語られるべき名を、風に刻んで――》
彼女は、誰かに見られることもなく、
ただ灰の中で書き記していた。
その名が――セナ・エルティス。
⸻
「彼女は、村が消えると知っていた。
それでも、名を残そうとした」
フィンの手の中の石板が、微かに熱を帯びる。
幻影の中で、セナが振り向いた。
その顔は曖昧で、輪郭が風に溶けかけていたが――
その瞳には、確かな意志が宿っていた。
「あなたに、託します」
言葉にならない声が、風を通して届いた。
「語ってください。
私たちが、ここにいたことを。
私たちが、誰かを恨んでいなかったことを。
ただ、生きたかった――そのことを」
フィンは剣を抜いた。
《カザナギ》が、風をまとい、記憶を受け入れる。
⸻
「俺は、ここで“語る”。
灰になった地に、風を返す。
名を、ここに、刻む!」
⸻
《風詠・記章の剣》
剣が地に突き立つと、風が地表を巻いた。
その瞬間、黒ずんだ地に――風の紋様が走った。
火で消されたはずの家々の跡に、記憶が戻る。
土の中に眠っていた語りが、風の力で表面化する。
村の形が、輪郭だけでも、見えるように蘇ってきた。
⸻
リナが小さく息を飲んだ。
「これ……すごいね」
ノーラが涙ぐんでいた。
「語られなかった名前が、今、初めて“ここにいた”って言ってる」
風が優しく吹く。
その中心で、フィンは小さく呟いた。
「……セナ。
君の名前は、これからも風に乗るよ。
そして、きっと……語り継がれていく」
⸻
そのとき、空に一羽の鳥が舞い上がった。
それは、灰をまとっていたはずの空が、少しだけ晴れた証だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
この章では、“語られることを選ばなかった人々”という、
今作の根幹にかかわるテーマに一歩踏み込みました。
「名を語る」という行為は、ただの情報伝達ではありません。
それは時に、生者を救い、亡者を癒し、
また時に、語り手自身を試すことにもなる。
フィンの旅はまだ始まったばかり。
でも、この一話で彼は“語る意味”をまたひとつ深く知りました。
次回は、新たな“語り”の地へ。
どうぞ引き続きよろしくお願いいたします。