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124話:栗毛の記憶、語り継ぐ者

新たな章、124話。

舞台は“風裂きの谷”へと続く途上に広がり、これまでの静寂を破るように数々の試練が姿を現します。

フィン、セリア、リナ――三人がここまで歩んできた道は、それぞれの記憶や選択を通じて強く結び合い、確かな絆を生み出しました。


しかし、光に導かれて進む先には、ただの答えではなく、さらに深い問いが待ち受けているようです。

“記録”は過去を映すものか、それとも未来を照らすものか。

そして、名を持ち、生きることを選んだ彼らに残されるのは――新たな鍵か、それとも試練か。


今回も、どうぞ彼らと一緒にその旅路を見届けてください。

風裂きの谷を抜けた先には、灰色の岩肌に囲まれた小高い台地が広がっていた。空気は乾いているはずなのに、谷の奥から流れ込む風は湿り気を帯び、耳の奥にざわつくような残響を残す。


 その中心に――三本の尖塔が並び立っていた。


 それぞれは地面から突き出た巨岩のようでありながら、よく見れば人の手で積み上げられたものだと分かる。表面には、削り出された螺旋の文様。塔の先端は欠け、風を受けるたびに低い音を響かせていた。まるで、塔そのものが笛を吹く楽器のようだ。


 「……これが、地図に映し出された“尖塔”……」


 セリアが呟いた。幼い瞳に、初めて見る異形の建造物が映り込み、その小さな手が無意識に杖を握りしめる。


 リナは鋭い視線で塔を見上げ、息を吐く。

 「思った以上に……生々しいわね。崩れかけの遺跡じゃなくて、まだ“動いてる”感じがする」


 「動いてる?」フィンが問い返す。


 リナは頷き、腕を組む。

 「そう。風が通るたびに、塔の中から“音”が響く。あれはただの風切り音じゃない……意図して作られた音だわ」


 フィンも耳を澄ませる。確かに、風が塔を吹き抜けるたびに、低音、高音、そしてどこかで聞いたことのある“旋律”が重なっていく。それは、音楽にも似ていた。


 「まるで……合図みたいだ」


 「だとしたら厄介だね」セリアが不安そうに言う。

 「塔が出す音は、誰かに“知らせる”ためのものかもしれない。もし今も稼働してるなら、私たちが入ったってことも伝わっちゃう……」


 リナは剣の柄に手を添えた。

 「だったら、なおさら早く進んだほうがいい。迷ってる暇はないわ」


 三人は尖塔の根元へと足を進める。


 足元の岩は風で削られ、鋭く尖っていた。小さな穴や割れ目からは笛のような音が響き、歩くごとに音階が変化する。不気味だが、どこか整った調べでもあった。


 やがて、塔の間に開いた石の門が現れた。


 門は二枚の石柱によって形作られ、その表面には古代語の文字列が刻まれている。けれど、風に削られてほとんど判別はできなかった。残っているのは、ほんの数文字――「名」「声」「渡」。


 「……また“名前”か」フィンが呟く。


 「〈名乗った者が選ばれる〉……あの言葉の続きかも」セリアが顔を上げた。


 リナは門の奥を覗き込み、眉を寄せる。

 「中は暗いわね。風が中に吸い込まれてる。普通の建造物じゃない……通路そのものが“笛管”になってる」


 「通れば、音が鳴るってこと?」


 「そう。通る者の歩調や声に反応して、塔全体が音を奏でる……そんな仕掛けなんじゃない?」


 フィンはごくりと唾を飲み込んだ。

 「名前を呼ぶことと、音……きっと試練が待ってる」


 三人は視線を交わし、うなずいた。


 フィンが一歩を踏み出そうとしたとき、セリアが小声で呼び止めた。

 「……ねえ、フィン。もし“名前”を奪われたら、どうなるの?」


 「どうなるって……」フィンは言葉に詰まった。


 リナが代わりに答える。

 「存在が揺らぐわ。呼ばれなければ、自分でも自分を確かめられなくなる。だからこそ、ここまで“名前”にこだわってるんでしょうね」


 セリアの瞳に不安が揺れる。

 「……じゃあ、もし私が名前を忘れたら、フィンやリナも私を……」


 「忘れるわけないでしょ」リナがきっぱり言い切った。

 「セリアはセリアよ。たとえ名前を奪われたって、私たちが呼び続ける」


 その言葉に、フィンも笑みを浮かべた。

 「そうだ。名前は印じゃない。“つながり”だ。セリアが誰かを想い、俺たちがセリアを想う限り……絶対に消えない」


 セリアは唇を噛み、それから小さく頷いた。

 「……うん。信じる」


 そうして三人は、石の門をくぐった。


 中はすぐに闇に包まれるかと思いきや、壁に埋め込まれた石晶がほのかに光を放ち、通路全体を青白く照らしていた。


 そして――


 フィンが一歩を踏み出すたびに、低い音が響いた。

 セリアが進むと、高い音。リナの足音には、中音が重なる。


 三人の歩みが揃うと、それは旋律となって通路を満たした。


 「……やっぱり、音楽になってる」リナが息を呑む。

 「これが、この塔の仕組み……」


 セリアがそっと壁に触れると、刻まれた文様が一瞬光り、「名を呼べ」とかすかに浮かび上がった。


 フィンは深く息を吸い込み、声を出した。

 「――セリア!」


 その名を呼ぶと同時に、響いていた旋律に柔らかい音色が重なった。


 リナも声を張る。

 「フィン!」


 通路の奥から光が差し込み、さらに旋律が広がる。


 セリアは小さな声で呟いた。

 「……リナ」


 高く澄んだ音が重なり、三人の歩みが進む。


 やがて、通路の奥に光の扉が見えてきた。


 「名を呼び合い、音を重ね……進む者に道が開かれる」フィンが呟く。


 「なら、止まらないで行こう」リナが剣を構え直す。


 三人は互いの名を呼びながら、響き合う旋律に導かれて――尖塔のさらに奥へと進んでいった。

光に満ちた扉を抜けた瞬間、三人は思わず足を止めた。


 そこは広大な吹き抜け空間だった。

 円形の石造りのホールがどこまでも高く伸び、その壁面には無数の笛管のような隙間が穿たれていた。谷を吹き抜けてきた風が、そこから流れ込み、ホール全体を響かせる。低音と高音が絡み合い、まるで見えない合唱団が奏でるような旋律となって渦を巻いていた。


 「……ここが、尖塔の“心臓部”ってわけね」リナが剣の柄に手を置いたまま低く呟く。

 「でも、敵の気配はないみたい」


 「気配がないのが逆に怖いよ」セリアは杖を抱きしめ、肩をすくめる。

 「風の音が……まるで“生き物”みたいに聞こえる」


 フィンは一歩、床へ踏み出した。

 石畳に刻まれた模様が足元で淡く光り、すぐに風が鳴った。

 低く、鋭い音。まるで誰かが答えたかのようだった。


 「……歓迎されてるって感じじゃないな」フィンが眉を寄せる。


 そのとき――


 ホール中央に、淡い光が収束していく。

 渦を巻く風が絡み合い、人の形を形作っていった。半透明の身体、長い髪のように流れる風の帯。瞳はなく、しかしその存在感は圧倒的だった。


 「精霊……?」セリアが息を呑む。


 リナは素早く前に出て、剣を抜いた。

 「違う。あれは“試練”を司る存在……おそらく守護者よ」


 風の精霊らしき存在は、声なき声を響かせた。

 ――《名を呼べ。そして、己の音を示せ》


 「名と、音……」フィンが呟く。


 「また名前……」セリアは不安げに振り返る。

 「でも、音って……歌うってこと?」


 「試練だもの。簡単なわけがない」リナは前へ一歩進み、ホールを見回した。

 「ここにある笛管、全部“共鳴器”だわ。私たちが声を出せば、それに呼応して旋律を返す。きっと――正しい調和を作らなきゃならない」


 セリアの顔が青ざめる。

 「歌なんて、あんまり得意じゃないよ……」


 「大丈夫。歌じゃなくても、声でいいんだ」フィンが優しく言った。

 「セリアの声を、俺たちがちゃんと受け止める。だから、名前を呼び合おう」


 三人は向かい合い、それぞれ深く息を吸った。


 「セリア!」

 「フィン!」

 「リナ!」


 声が重なった瞬間、ホール全体が共鳴した。笛管から光が溢れ、和音となって返ってくる。だが、その響きは心地よいものではなく、どこか不安定で軋むような音を含んでいた。


 風の守護者が動いた。長い腕のような風が伸び、三人へと襲いかかる。


 「くっ!」フィンは剣を構え、直撃を防ぐ。風の衝撃は鋼よりも鋭く、腕が痺れる。

 リナがすかさず前へ躍り出て、斬撃を走らせた。だが、風の体は霧散し、再び形を成す。


 「斬っても効かない!」リナが叫ぶ。


 セリアが必死に詠唱する。

 「《アイス・バインド》!」


 氷の鎖が風の精霊を縛るように伸びたが、強風に吹き飛ばされ、霧散する。


 「……駄目だ。力で封じることはできない」フィンが歯を食いしばった。

 「なら、やるしかない……“音”で応える!」


 三人は再び声を合わせた。


 「セリア!」

 「リナ!」

 「フィン!」


 今度は、声に意志を込めた。呼び合うだけでなく、相手を“信じる想い”を。


 その瞬間――


 旋律が変わった。

 不協和音が溶け、澄んだ音色が広がる。笛管から吹き出す風が三人を包み込み、守護者の姿が一瞬揺らいだ。


 「今だ!」リナが叫ぶ。

 フィンは剣を振り上げ、声と同時に叩きつけた。

 「リナ! セリア!」


 二人も名を呼び、声を重ねる。


 和音が爆ぜるように響き、風の守護者は大きく後退した。形が崩れ、やがて霧散していく。


 静寂。


 ホール全体が、調和した一つの旋律を奏でた。

 それは穏やかで、胸に沁み渡るような音色だった。


 「……倒した、の?」セリアが恐る恐る呟く。


 リナは剣を収め、ゆっくりと頷いた。

 「いいえ。倒したんじゃない。“認められた”のよ」


 フィンが視線を上げると、天井から光の粒が降り注いでいた。

 その光は床に集まり、やがて文字を描き出す。


 ――《名乗った者に、道を開く》


 「……やっぱり、“名前”だ」フィンは拳を握りしめる。

 「俺たちが互いを呼び合ったことで、この試練を越えられたんだ」


 セリアは微笑み、胸に手を当てた。

 「呼んでもらえるって、あったかいね。名前があるって、すごいことなんだ」


 リナも静かに目を閉じる。

 「名前は、ただの記号じゃない。存在を結びつける証。……それを、この塔は試したのね」


 やがて光が収束し、床に円形の紋章が刻まれた。中央には階段のような光の道が開き、さらに奥へと続いている。


 「……次の試練が待ってるのかもしれない」フィンが呟く。

 「でも――今なら、進める気がする」


 三人は互いの顔を見て、微笑み合った。


 風の旋律が背中を押すように響く中、三人は光の階段を降りていった。

光の階段は、途切れることなく下へと続いていた。

 風の音は次第に遠ざかり、代わりに――水のせせらぎのような響きが耳を打つ。


 「……下に、水がある?」フィンが小声で呟く。


 「うん……ただの地下水脈じゃない気がする」リナが慎重に足を運びながら、壁の模様を指でなぞった。

 石に刻まれていたのは、曲線と点で構成された古代文字。まるで波紋を象ったかのように広がり、淡く青白い光を帯びていた。


 「これ……あたし、見たことある」セリアが小さく声を上げる。

 「前に宗教庁の文献で。『水の記憶を繋ぐ紋』って書いてあった……。大昔の儀式で使われた文字だよ」


 「水の記憶……またそれか」フィンは小さく息をついた。

 「この塔全体が、やっぱり“記録の場”なんだな」


 やがて階段は途切れ、広大な円形の空間に出た。

 そこは地下湖だった。

 水面は鏡のように澄み、天井に描かれた文様を映し出している。中央には石造りの祭壇が浮かび、四方から橋のような細い通路が伸びていた。


 「……きれい」セリアが足を止め、見とれるように呟いた。

 湖面に映る光は淡く揺れ、まるで天空を逆さにしたかのように広がっている。


 「でも、ただの景色じゃないわ」リナが目を細めた。

 「見て、あの祭壇。……何か置いてある」


 フィンが視線を凝らすと、祭壇の中央に――一つの球体が静かに輝いていた。

 水晶のような透明さを持ちながら、その奥で青と銀の光が揺れている。


 「……記録球」


 三人は無言で顔を見合わせた。

 やがて、フィンが一歩を踏み出す。石橋はきしみもせず、静かに彼を支える。


 「待って、フィン」セリアが慌てて追いかける。

 「こういうの、触ったら何か仕掛けが発動するかもしれないよ」


 「そうかもしれない。でも、ここまで導かれてきたんだ。きっと……確かめろってことだろう」


 リナも剣を握り、二人の後ろに立った。

 「用心だけは忘れないで。ここまで何度も“試されてきた”んだから」


 祭壇にたどり着くと、三人は記録球を囲んだ。

 間近で見るそれは、ただの水晶とはまるで違っていた。

 内部には小さな水流が循環しており、絶えず新しい光の模様を描き出している。


 フィンがそっと手をかざす。

 ――その瞬間。


 球体が震え、湖面全体が波打った。

 光が溢れ、三人の視界を包み込む。


 *


 目を開けたとき、彼らは“映像”の中に立っていた。

 場所は――広い会議室のような石造りの空間。長い卓を挟んで、数人の人物が座っている。


 「……これ、過去の記録?」リナが辺りを見回す。


 「たぶん」フィンが答える。

 「でも、声が聞こえない……」


 人々は真剣な顔で何かを議論していた。

 手振り、首の動き……だが、音は一切届かない。まるで無音劇を見せられているかのようだった。


 「……映像だけ? これじゃ何を話してるのか……」リナが苛立った声を漏らす。


 だがセリアが、ふと異変に気づいた。

 「……違う。声は、届いてる」


 「え?」フィンとリナが同時に振り向く。


 「耳じゃなくて……胸に響いてる。言葉じゃない、“想い”だけが伝わってくるんだよ」セリアは胸元を押さえながら目を閉じた。

 「――『未来への橋渡し』『名を刻め』『選ばれた者』……そんな響き」


 リナは驚いたように目を見開いた。

 「セリア……まさか、あんた……」


 「ううん、違うの。ただ……あたし、昔から“名前を呼ばれなかった”から、余計に敏感なのかもしれない」セリアは自嘲するように微笑んだ。

 「名を持つこと、名で呼ばれること……その大事さが、痛いくらいわかるんだ」


 フィンは彼女の肩に手を置いた。

 「セリア……。でも、それが今のあんたの強さなんだよ。誰よりも“声なきもの”を感じ取れるんだから」


 セリアははっとして顔を上げる。

 記録の映像が揺れ、中央の人物がこちらを振り向いた。

 目が合ったように見えた瞬間、心臓が強く打つ。


 ――(ルディ……)


 セリアの意識に、誰かの名が流れ込んだ。

 次の瞬間、映像は破片のように砕け散り、光が霧のように消えていった。


 *


 祭壇の上に戻ると、フィンは荒い息をついていた。

 「今の……俺の名前が、呼ばれた……?」


 「ルディ……」リナが小さく呟く。

 「やっぱり、前にも出てきたあの名前……」


 セリアは胸に手を当てたまま、強く首を振った。

 「でも、それだけじゃない。あれは……“記録を託す者たち”の会議だった。名を残して、未来に繋ぐための……」


 「つまり、ここはただの祠じゃない」リナが言葉を継ぐ。

 「過去の“継承の場”……選ばれた者だけが、その記録を引き継げる場所」


 フィンは拳を握りしめた。

 「じゃあ、俺が呼ばれたのは……偶然じゃない」


 「うん。あんたが“名を持って、呼ばれた者”だからだよ」セリアは真っ直ぐに言った。

 「もう逃げられない。……でも、逃げなくてもいいんだと思う」


 リナが剣を肩に担ぎ、ため息をついた。

 「ふー……面倒な運命を背負わされちゃったわね、フィン。でも、安心しなさい。私たちが一緒にいる」


 「そうだね」フィンは小さく笑った。

 「二人がいるから、怖くないよ」


 湖面が再び揺れ、祭壇の奥に新たな光の道が開き始めた。

 奥へ進め――そう告げるかのように。


 三人は顔を見合わせ、頷き合う。

 記録の先に待つのは、さらなる真実か、それとも新たな試練か。

 答えを知るため、彼らは再び歩き出した。

開いた光の道は、湖の奥へと真っ直ぐ続いていた。

 青白い輝きが水面を裂き、細い橋のように伸びている。


 「……これ、渡れってこと?」セリアが湖面を覗き込み、唾を飲んだ。

 「落ちたらどうなるんだろ……」


 「泳ぐことになるんじゃないか?」フィンは苦笑しながらも、すぐに剣を握り直す。

 「でも、ただの水じゃなさそうだな」


 湖は鏡のように静かだが、覗き込むと――そこに映るのは自分たちではなかった。

 リナが眉をひそめて呟く。

 「……私たちじゃない。違う人間の姿が映ってる」


 確かに、湖面に浮かんでいたのは見知らぬ人々だった。

 鎧を着た戦士、祈りを捧げる巫女、そして――幼い子供を抱いた母親の姿。

 どれも淡く透け、遠い過去の幻影のようだった。


 「これ、全部……“記録”なんだ」セリアが震える声で言った。

 「ここに来た人たちの姿……“記憶の残響”だよ」


 フィンは無言で頷き、光の橋に一歩足を踏み入れた。

 足元はしっかりとした感触がある。だが次の瞬間、湖面の幻影がざわめき、波紋が走った。


 「行こう」

 リナが剣を抜き、フィンの背中を追う。セリアも意を決して、杖を抱きしめるようにして続いた。


 橋を渡り切ると、そこには円形の大広間が広がっていた。

 壁一面に無数の紋が描かれ、天井からは水晶のような光が滴り落ちている。

 中央には、再び球体――だが、今度のそれはひときわ大きく、まるで人の背丈ほどもある巨きさだった。


 「……これが、本体?」フィンが呟く。


 「かもね。でも、嫌な気配がするわ」リナが周囲を警戒する。

 「何か、来る」


 その言葉を合図にしたかのように、湖の水面が泡立ち、黒い影がいくつも這い出してきた。

 それは人の形をしていたが、顔は溶けた墨のように曖昧で、目だけが赤く光っている。


 「……記憶の守護者?」セリアが怯えた声を出す。


 「違う、これは……“拒絶の記憶”だ」フィンが剣を構える。

 「ここに至れなかった者たちの、断ち切られた想いの残滓……!」


 黒い影たちが一斉に襲い掛かる。

 フィンは剣を振るい、リナは鋭い踏み込みで影の胸を突いた。

 だが影は切られても崩れず、煙のように形を変えて再び立ち上がる。


 「キリがない!」リナが歯噛みする。


 「セリア!」フィンが叫ぶ。

 「何か方法は!?」


 セリアは必死に杖を握り、目を閉じた。

 「……感じる……! あの大きな球体、あれが“核”! そこに届けば……!」


 「了解!」フィンが短く返す。

 「リナ、道を開いてくれ!」


 「任せなさい!」


 リナの剣が光を弾き、影を押しのける。その隙を突いてフィンとセリアが中央へ走る。

 影が追いすがるが、セリアが詠唱を終え、杖を振り下ろした。


 「《セレスティアル・バリア》!」


 光の壁が展開し、影の群れを一時的に押し返す。

 その間に、フィンが巨大な記録球の前へ立つ。


 「――答えてくれ! 俺は“誰”なんだ!」


 剣を突き立てた瞬間、記録球がまばゆい光を放った。

 影たちが苦悶のように叫び、湖へと引きずり戻されていく。


 空間が震え、三人の意識に“声”が流れ込んできた。


 (……名を呼べ。お前が“在る”ために)


 フィンの心臓が跳ねた。

 「俺は――フィンだ!」


 光が弾ける。

 だが同時に、もう一つの名が胸を焼いた。


 (……ルディ)


 その名が響いた瞬間、記録球の内部に映像が展開した。

 若き日の誰か――栗毛の少年が、湖畔に立っている。

 彼は振り返り、真っ直ぐにフィンを見据え、言った。


 『未来を託す。名を失っても――想いは残る』


 映像が消える。

 フィンは膝をつき、荒く息を吐いた。


 「……見たか?」


 「ええ」リナが頷く。

 「つまり……あんたは、二つの名を持つ者。フィンであり、ルディでもある」


 セリアはそっとフィンの手を握った。

 「でもね、今ここにいるのはフィンなんだよ。あたしたちと一緒に歩いてきた、優しくて、強いフィン」


 フィンは苦笑し、力強く頷いた。

 「そうだな……俺は、フィンだ」


 巨大な記録球は静かに沈黙し、やがて水に溶けるように消えていった。

 広間には静けさが戻り、残されたのは三人の息遣いだけだった。


 「これで……一歩、進んだんだな」


 「うん」セリアが微笑む。

 「まだ道は続いてるけど……一緒なら大丈夫」


 「ま、次はどんな面倒が来るかしらね」リナは肩をすくめつつも、口元には笑みを浮かべていた。


 三人は視線を交わし、光の階段を再び登り始めた。

 ――彼らの歩みの先に、さらなる試練と真実が待ち構えているとも知らずに。

お読みいただきありがとうございました!

124話では、記録球が新たな相貌を示し、“栗毛の少年”として映し出された存在がフィンの過去と強く結びつくことが明らかになりました。

かつての「銀髪」という描写は誤りであり、正しくは栗毛――フィンと同じ姿をした誰か。これは単なる偶然ではなく、物語に大きな意味を持つ伏線でもあります。


今回のテーマは「映された自分」と「受け継ぐ想い」。

セリアのまっすぐな眼差し、リナの現実を見据えた判断、そしてフィンの“伝える者”になりたいという決意が交わり、彼らの物語は確実に前進しました。


次回125話では、“風裂きの谷”そのものが舞台。

地形と風が仕掛ける自然の試練だけでなく、谷を守る者との対峙が三人を待ち構えます。

どうぞ引き続き応援よろしくお願いいたします!

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