123話:風裂きの谷・名乗りの檻を越えて
風裂きの谷の奥で待っていたのは、ただの地形や自然現象ではなく、確かに「意思」を持つ試練でした。
〈名を、告げよ〉という言葉が風に混ざって響き、三人に突き付けられたのは、自らの「本当の名」と「在り方」を示すこと。
このパートでは、フィン・リナ・セリアそれぞれが迷わず名乗り、そして役割を宣言する場面を中心に描いています。
名乗った瞬間の風の反応や、光の一文字が地図に変わる演出は、これまでの旅路で育んできた信頼や覚悟を象徴しています。
山脈の陰は、昼でも薄青かった。
尾根を三つ越えるたび、風の匂いが変わる。松の樹脂、砕けた石、どこか甘い乾いた草——それらが層みたいに重なって鼻先をくすぐる。前方、雲の切れ目の下に、複雑に裂けた谷筋が見えた。谷底は見えない。代わりに、幾本もの白い筋が、風に削られた岩の間を斜めに走っている。
「……あれが“風裂きの谷”?」
セリアが目を丸くし、マントの端を押さえた。風が上から下から交互に吹き付け、背丈ほどの草を逆立てている。
「地形が“風の弦”みたいに並んでるわ」リナが身を屈め、崖縁の向こうをのぞく。「音、聞こえる?」
耳を澄ますと、低い唸りと高い笛声が、遠い壁から壁へ跳ね返ってくる。谷そのものが楽器みたいに鳴っている。
「……歌ってるみたい」セリアが小さく笑った。「でも、ちょっと怖い歌」
「怖さは半分でいい」フィンが応じ、鞘の口を半寸だけ開いた。幼い火が喉を鳴らすように微かな熱を吐き、冷えた指先に血が戻る。「足を取られそうになったら言って。温度を貸す」
「うん。あ、でも無茶はダメだからね」セリアが見上げる。
「分かってる」フィンはうなずき、背負い袋から蔓で編んだ小さな輪——風の紡錘を取り出した。巻き取られた三本の糸は、目を凝らすと空気よりわずかに明るい。「“順路”、まだ生きてる」
「震えてる一本、右下に引いてる」リナが指先で糸の張りを確かめる。「谷の東斜面だわ。下りて、斜めに渡る」
「じゃ、行こう」セリアが勢いよく立ち上がり——足もとで小石が跳ねた。
カラン。谷の息が一段高くなり、三人の外套を裏側から持ち上げる。
「待って、層風」リナが腕を伸ばし、セリアの肩を取った。「この谷、風の層が入れ替わる周期がある。今は“上がる”」
「上がる風のときに飛ぶな、ってことね」フィンが周囲の草の揺れと砂塵の流れを観察する。「……今。落ち着いた。下へ」
三人は斜面の獣道を選び、岩の段差を慎重に降り始めた。足裏の砂利が風に押され、滑る。フィンは後ろからセリアの背に手を添え、リナは先に下りて次の足場を示す。
「ねえリナ、あれ」セリアが顎で示す。斜面の途中、岩肌に小さな穴が帯のように並んでいた。
風が通る度に穴が鳴り、別の穴がそれに答え、さらに別の穴が追いかける。複雑な追い歌が、斜面いっぱいに広がっていた。
「“風笛穴”ね。近づきすぎると吸い込まれる」リナが手の甲で風を測る。「でも、使える。音の流れが弱まる瞬間がある。そこが“足場”になる」
「音で足場?」セリアが目をぱちくりさせる。
「穴の鳴りが一瞬だけ合唱から外れるの、わかる?」フィンが肩を並べて耳を傾ける。「——今」
その瞬間、斜面の砂が風から解かれたみたいに静かになり、足がすっと前へ出た。
次の瞬間にはまた笛声が戻り、砂が流れはじめる。
「わぁ……不思議」セリアが息を飲む。「じゃあ、“三声”合わせたら、もっと安定する?」
「試そう」リナが短く頷く。「名乗りは小声で。風に食わせないように」
「——フィン、ここに」
「——リナ、前にいる」
「——セリア、ここだよ」
三つの名が重なった拍で、穴の合奏がふっと割れ、静かな帯が足もとに現れた。三人は足を運び、その帯が薄まる前に次の帯へ移る。呼吸と拍と名乗りが、砂の流れの上に目に見えない渡し板を作っていく。
「セリア、喉は平気?」フィンが問いかける。
「へいき! さっき蜂蜜ちょっとだけ舐めた」
「“ちょっとだけ”が大事」リナが笑う。「三歩先、段差」
風は時折、悪戯のように逆向きに吹いた。セリアの前髪が持ち上がり、彼女の笑いがひとつ転がる。
「……ねぇ、リナ」セリアが小声で話しかける。「あたしさ、旅に出る前は“誰かが名前を呼んでくれる”なんて想像もしなかった。番号ばっかりで」
リナは一拍分だけ黙り、次の足場を示しながら言う。「今は、呼ばれてる。だから、進めてる。——私も同じ。昔は“誰も頼らない”って決めてた。でも、それだと、風に持っていかれる」
「……そっか」セリアの頬が緩む。「じゃあ、いっぱい呼ぶね。リナ」
「二回まで」
「けち!」
笑いは短く、歩は止まらない。谷の底へ降りるほど、音は濃く、風は鋭くなる。やがて、裂け目が大きな一本にまとまり、対岸の壁へ跳ねる白い風の筋が見えてきた。
「ここで“渡し”が必要だ」フィンが紡錘を掲げる。三本の糸のうち、震える糸が強く右へ引いた。「裂け目に“声の梯子”が仕掛けてある」
「見えない橋、また?」セリアが眉を上げる。
「うん。ただし今度は呼び名じゃなくて在り方で踏む」リナが岩に指を当て、微かな刻みを読んだ。「三段ごとに“渡す・残す・呼ぶ”。順番を間違えると……たぶん、落ちる」
「順番、固定?」
「刻みが薄い。変わるかもしれない」フィンが目を細めた。「だから合図役がいる。……俺が言う。二人は迷わず踏んで」
「了解」リナが短く刀を握り直す。
「わかった。やる」セリアは両手を胸に当て、こくりと頷いた。
裂け目の縁に立つ。下は白い霧と黒い岩。風が縦に流れ、耳の中まで冷たくなる。
フィンは胸の輪に指を触れ、幼い火の温度を足首へ落とした。「——渡す」
足もとに細い光の段が一段、現れる。
リナが最初に踏み、身を低くして重心を送る。
「——残す」
セリアが二段目を踏み、短く息を吐く。
「——呼ぶ」
フィンが三段目へ。光が連なり、裂け目に白い階が描かれていく。
「よし、そのまま」リナが横目で二人を見やる。「合図、早めでも遅めでもダメ。ちょうど今の速度」
「——渡す」「——残す」「——呼ぶ」
声は最小限、拍は正確に。十段目に差し掛かったとき、谷の合奏が突然調子を変え、足もとの段が一瞬揺らいだ。
「逆風!」セリアが叫ぶのと、フィンが鞘を叩いて温度を強めるのは同時だった。靴底の縁が乾き、段の輪郭が戻る。
「ナイス」リナが短く笑う。「次、合図くれ」
「——渡す」「——残す」「——呼ぶ」
裂け目の中央、風が二筋に割れて渦を作っていた。光の段はそこでいったん薄くなり、次の一歩が“空”に見える。
フィンは一呼吸置き、低く言った。「——揃える」
三人は同時に一歩を踏み出した。光が一気に濃くなり、渦の中心に細い橋が通る。
セリアが息を詰め、リナが顎だけで「行け」と示す。フィンは頷き、さらに三段を進めた。
最後の縁へ跳び移ったとき、背後で光の梯子がほどけて霧へ落ちた。谷の歌が勝ち誇るように高く鳴り、すぐに遠ざかる。
「……ふぅー……っ」セリアがその場にしゃがみ込み、両手で頬を押さえた。「心臓、耳から出るかと思った」
「良い踏みっぷりだった」リナが手を差し出す。「震えは筋肉の味方。倒れない方向に使う」
「うん……ありがと」セリアは立ち上がり、顔を上げる。「ね、見て。壁に何か刻んである」
対岸の壁、風に磨かれた灰白の面に、古い風紋とエルフの子文字が重ねられていた。セリアは指先でなぞり、声に出さずに読んだ。瞳の奥が、少しだけ揺れる。
「読める?」フィンがそっと訊く。
「……うん。全部じゃないけど」セリアはゆっくり言葉を紡ぐ。「『名は結び。結びは道。道は声。声は忘れを切る』……そんな意味」
「“忘れを切る”……」リナが呟く。「ここ、記憶を削る谷だ。風で」
「だから呼ぶんだ。今の名で」フィンが胸の輪に触れた。「切り離されたものを、また結ぶために」
風がひとつ笑い、谷の向こう側から新しい匂いが流れてくる。乾いた草の奥に、薄い水の香り。
進行方向の岩稜が低くなり、谷は広い盆地へ口を開きはじめていた。盆地の中央、削られた石の台が三つ、三角形に並んでいる。
「“合図台”だわ」リナが目を細める。「次はあそこで、何か合わせる」
「三台、三声」セリアが明るく頷く。「順番、さっきと同じでいい?」
「状況見て変えるかも」フィンは笑みを返し、紡錘を肩に掛け直した。「でも——基本は同じ。“揃えて、支えて、通す”」
「うん」
「了解」
盆地へ降りる道は、さっきより穏やかだった。風はなお強いが、さきほどのような刃気はない。すれ違う小石の影が、午後の光で長く伸びる。
途中、セリアがふと立ち止まった。
「フィン、リナ。……ありがとう」
「急にどうしたの」リナが片眉を上げる。
「んー……さっきの“空の一歩”、二人いなかったら踏めなかったから。あたし、昔は“自分だけで大丈夫”って思ってたけど、いまは、三人の方が、楽しい」
風が一拍だけ止まり、三人の影がぴたりと寄り添った。
フィンは少しだけ照れくさそうに頷き、鞘の中の幼竜のぬるい息を確かめる。
「じゃあ、次は俺が礼を言う番だな。二人の声がなかったら、足場は出なかった」
「じゃあ私は——蜂蜜の残りを管理する役」リナが肩をすくめる。「勝手に舐めたら罰金」
「えぇぇ……」セリアが情けない声を出し、すぐ笑った。「わかった。二回まで」
「やっぱり二回は死守するんだ」
三人の笑いが風に千切れて転がり、合図台の方へ軽く飛んでいった。
盆地の中心が近づくと、風の歌は少し静かになり、代わりに石の鼓動が地面から伝わってきた。低く、一定の拍。三つの台が互いに呼吸を合わせている。
「——着いたらすぐには触らない」リナが言う。「まずは聞く」
「うん。聞いて、名乗って、あわせる」セリアが指を折る。
「その順で行こう」フィンは頷き、台の縁に掌をかざした。
石は微かに温かい。白い砂が隙間に詰まり、長く使われなかった痕跡が眠っている——が、その奥底に、呼びかけを待つ気配が確かにあった。
風裂きの谷は、たしかに“歌っている”。そして、返事を欲しがっている。
フィンは胸の輪に触れ、小さく息を整えた。
「行こう。——“今の名”で」
谷の入口は、想像していた以上に狭かった。
切り立った岩壁が左右から迫り、わずかに開いた口のような隙間から、冷たい風が途切れ途切れに吹き出している。中はまだ暗く、谷の奥行きは見えない。
「……ここが“風裂きの谷”?」
セリアが岩肌に手を触れ、目を細める。指先に触れるのは、長年風に削られたざらつきと、所々に刻まれた細かい筋模様だった。
「そうだ。風が何層にも分かれて吹く……って、さっき説明したよな」
フィンが周囲を見回しながら答えると、リナが短く息を吐いた。
「層風ってやつね。前に聞いたことはあるけど、実際に歩くのは初めて。……まあ、名前だけならちょっとカッコいいけど」
「カッコいいとかじゃなくて危険なんだってば」
セリアが口を尖らせる。
「上の方から落ちてくる風と、足元を逆方向に吹く風がぶつかると、体が簡単に持っていかれちゃうの。魔法の防壁でも完全には防げないから、歩き方を気をつけないと」
「へぇ……それ、先に言ってくれて助かったわ」
リナは半分笑いながら、腰の剣を軽く押さえる。
谷の中へ一歩踏み込むと、空気の密度が外とはまるで違っていた。
冷たいはずの風が、時に生ぬるく、時に氷のように冷たく肌を打つ。足元では砂が音もなく移動し、小石がころころと転がっていく。見上げれば、頭上の岩壁の裂け目からわずかに光が差し込み、そこから細い風の筋が降りてきていた。
「……今のは上昇風だね。ほら、髪が浮くでしょ?」
セリアが自分の長い髪を指先で持ち上げる。フィンも試しに立ち位置を変えると、確かに足元から押し上げるような風が身体を揺らした。
「面白いけど……これ、足を取られたら谷底に落ちるやつだな」
「そうそう。だから“風裂き”って呼ばれてるの。風が裂くように道を分けるから」
道は岩と岩の間を縫うように続き、時おり左右の壁が迫って肩が触れるほど狭くなる。そうかと思えば、急に視界が開け、足元が切り立った崖になっている場所もあった。
「……なあ、これ、道って言えるのか?」
「“道”っていうより“風の流れの隙間”だね」
セリアが軽く笑う。
「ここを抜けるには、風が弱まる周期を見極めながら進むんだよ」
その言葉にリナが眉をひそめた。
「じゃあ、間違ったら……」
「……間違ったら、逆流に巻き込まれて戻されるか、飛ばされるか」
淡々と答えるセリアに、フィンは小さくため息をつく。
「……やっぱり危険地帯じゃないか」
彼らは足を止め、谷の奥から吹き上げる音に耳を澄ませた。
ごぅ、と低く唸るような音。次の瞬間、足元の砂がふわりと浮き、前方の小石が風に押されて転がっていく。
「待って、層風」
セリアが片手を上げて制止した。
「今は下降層と上昇層がぶつかってる。……ほら、あそこ」
指さす先で、薄い霧のような砂煙が空中に留まり、渦を巻いていた。まるで見えない境界線がそこにあるかのようだ。
「……確かに、行ったら押し返されそうだ」
フィンは一歩下がり、足場を確かめる。
「周期はどれくらいだ?」
「短いと十数秒、長いと一分くらいかな。音と砂の動きで見分けるんだよ」
三人はしばし待ち、やがて砂煙がふっと散った瞬間に進み出した。
足元には乾いた砂と、小さな白い貝殻の破片が混じっている。ここがかつて海底だったことを思わせる。
「この高さで貝殻って……どれくらい前の話なんだろ」
フィンが拾い上げて眺めると、リナが横目で見た。
「さぁね。けど、谷全体が古い海底の隆起だって話は聞いたことある」
「だから風の通り道が複雑なのかもね」
セリアは岩壁に刻まれた層を指でなぞる。
「ほら、ここ。砂岩と泥岩の層が交互にある。風と水が交互に通った証拠だよ」
谷はさらに奥へと続き、道は細く、風は強くなっていく。
時おり突風が吹き抜けるたびに、岩壁のどこかで笛のような音が鳴り、低く響く。それが合図のように、次の層風がやってくるのだ。
「……慣れてきたな」
リナが笑う。
「次の層風のタイミング、もう読める気がする」
「油断しないでよ。読めたと思った瞬間に外すのが、この谷の怖さだから」
セリアの忠告に、リナは肩をすくめた。
やがて彼らは、幅広の岩棚にたどり着く。ここは谷の中で数少ない休憩できる場所らしく、風の流れが比較的穏やかだった。
「ふぅ……ちょっと休もうか」
フィンが腰を下ろし、水筒を取り出す。セリアも隣に座り、谷の奥を見つめた。
「この先に……例の三本の尖塔があるんだよね?」
「そうだ。尖塔の根元に“風の環”の試練があるはずだ」
リナは足を投げ出しながら、半ば冗談めかして言った。
「……また、何か名前を名乗らされるんじゃないでしょうね」
セリアがくすっと笑う。
「もしかしたらね。名前って、“在る”ってことだから」
フィンは二人のやり取りを聞きながら、視線を谷の奥へ向けた。そこから吹いてくる風は、確かに何かを告げようとしているように感じられた。
短い休憩を終えた三人は、再び立ち上がった。
谷の奥からは、細く高い音と、低く唸るような音が交互に響いてくる。まるで誰かが息を吹き込む巨大な笛のようだった。
「……あの音、さっきよりはっきりしてきたね」
セリアが耳を澄ませる。
「尖塔のほうから聞こえてるんだと思う」
フィンは頷き、背負い紐を締め直した。
「風の環が本格的に動いてる証拠かもしれない。気を引き締めよう」
道は、再び狭まりながら下りに転じた。
足元の砂は細かく、踏み込むたびにさらさらと崩れ落ちる。そのたび、足元から逆風が吹き上げ、砂が舞い上がった。
「うわ、目に入る……っ」
リナが顔をしかめ、腕で風を防ぐ。
「防塵の布、持ってきてよかったわ」
「貸そうか?」
フィンが腰から予備の布を差し出すと、リナは片手で受け取り、頭巾の下に巻き直した。
「ありがと。これで少しはマシになる」
谷の壁は次第に湿り気を帯び、岩肌には苔がちらほらと見え始めた。風の層が変わったのか、冷気の中にわずかに湿った空気が混じる。
「……この感じ、水の近くに来てる」
セリアがつぶやく。
「谷底に小さな流れがあるのかも」
「水があるってことは、休憩できる場所がもう一つあるかもな」
フィンの言葉に、リナも少しだけ表情を緩めた。
やがて、視界が開けた。
細長い谷間の中央に、透明な水が流れている。岩肌からしみ出した水が小さな滝となり、細い川を作っていた。その水面を、複雑な風が幾重にも走り抜け、波紋が交錯して美しい模様を描く。
「きれい……」
セリアが思わず見とれた。
「風が水面を削って、こんな模様を作ってるんだ」
フィンは水を手ですくい、口に含む。冷たさが舌を刺し、喉を滑り落ちていく。
「飲める。澄んでるし、味も悪くない」
「じゃあ……」
リナも水筒に補充し、首筋に水滴をつけて息をついた。
「生き返る……けど、あんまり長居はできなそうね」
フィンも頷く。
「谷の風は周期で変わる。ここも例外じゃない。風向きが変わったら渡れなくなる」
三人は川を渡るため、最も流れの穏やかな場所を選んだ。足元の石はぬめりを帯び、踏み込むたびにずるりと滑る。反対岸にたどり着く頃には、三人とも小さく息を切らしていた。
「……はぁ、緊張した」
セリアが胸に手を当てる。
「落ちたら谷の下まで流されるよ、これ」
「その前に風に持ってかれそうだったけどな」
リナが笑い、フィンも肩で息をしながら小さく笑った。
再び道は登り坂になり、風は徐々に強さを増していく。
やがて、頭上に切れ間が見え、そこから陽光が差し込んだ。光を背に受けて立つ影――それが、遠くに見える三本の尖塔だった。
「……見えた」
フィンが立ち止まり、目を細める。
「間違いない、あれだ」
尖塔は、岩壁から突き出すように聳え立ち、それぞれの頂が鋭く削られている。三本の間を、巨大な風の輪が渦を巻くように回っていた。輪は肉眼で形を確認できるほど密で、光を屈折させながらゆっくりと回転している。
「……あれが“風の環”?」
リナが息を呑む。
「思ってたより……ずっと、でかい」
セリアも言葉を失っていたが、やがて小声でつぶやく。
「生きてるみたい……風なのに、意思を持ってる感じがする」
近づくにつれ、空気が変わる。
音が消え、耳の奥でだけ風の唸りが響くような、奇妙な感覚。足を踏み出すたび、見えない糸が身体を引っ張るような圧力があった。
「……何か、試されてる気がする」
フィンが呟くと、リナも頷いた。
「視線を感じるっていうか……そういう感じね」
やがて、尖塔の根元にたどり着く。そこには、半ば崩れかけた祭壇のような石台があり、中央に丸い穴が空いていた。穴の奥からは、淡く光る風の粒子が絶え間なく吹き上がっている。
「……ここが試練の場、なのかな」
セリアが祭壇に手を伸ばしかけた瞬間、突如として風が強まり、三人の衣服をはためかせた。
耳元で、かすれた声が囁く。
――名を、告げよ。
三人は顔を見合わせる。
リナが低く笑った。
「……やっぱり、そう来たわね」
――名を、告げよ。
その声は、谷の風と混ざりながらも、はっきりと三人の耳に届いた。
男でも女でもない、年齢も分からない声。けれど、不思議と拒絶感はない。ただ、こちらを見据えている“何か”の意思だけが伝わってくる。
セリアが小さく肩を震わせた。
「……やっぱり、試練だ」
「どうする?」リナが問う。
フィンは、祭壇の中央に空いた丸い穴を見下ろしながら答える。
「名を告げろってことは……名前を名乗るだけ、かもしれない」
「だけ?」リナが薄く笑った。
「そんな簡単なわけないでしょ。ここまでの道がどれだけ大変だったと思ってるの」
セリアは祭壇に近づき、風の粒子を見つめた。
光は柔らかく、しかしその中には細かな刃が無数に潜んでいるような感覚があった。
「……多分、“嘘”は通じない。呼ばれた名前じゃなくて、“本当の名”を言わなきゃいけないんだと思う」
フィンの眉がわずかに動く。
「本当の名……」
それは、以前セリアが話してくれた“名を奪われた時期”のことを思い出させた。呼ばれなければ消えてしまう名。誰かに呼ばれることでようやく自分の形を保てる名。
「……俺から行く」
フィンは一歩前へ出た。
風が彼の髪を逆立て、マントの裾を大きくはためかせる。
穴の奥から吹き上がる風は強くなり、耳元で何かがざわつく。
(名を、告げよ)
再び、声が響く。
「フィン」
迷わず、自分の名を口にした。
「俺はフィンだ。……そして、俺は“届ける者”だ」
その瞬間、風が渦を巻き、祭壇の縁を一周した。粒子の光がわずかに増し、次の瞬間、再び穏やかに戻る。
リナが鼻で笑った。
「じゃあ、次は私ね」
彼女は剣を抜き、刃先を地に軽く突き立ててから、穴に向かって堂々と告げた。
「リナ。“守る者”よ」
彼女の声は、谷全体に響いたように感じられた。
渦巻く風は一瞬鋭くなったが、やがてそれは優しい撫でるような風に変わった。
最後に、セリアが祭壇の前に立つ。
小さく息を整え、杖を両手で握り締めた。
「……セリア。“名前で呼ぶ者”」
その言葉が放たれた瞬間、風は一際高く舞い上がり、三人の足元を包み込んだ。
耳が詰まるような圧力が数秒続き――やがて、ふっと軽くなる。
祭壇の穴から、風の粒子がひときわ強く吹き上がり、空中に一文字が浮かび上がった。
揺らめくその形は、“結”にも、“縁”にも、“継”にも見える、不思議な一筆。
「……どれなんだろう」
セリアがぽつりと漏らす。
リナが腕を組み、じっと見上げた。
「多分、全部じゃない? 結んで、縁を繋いで、継ぐ……そういう意味なんじゃないかしら」
光の一文字は、ゆっくりと形を変え、やがて空中に広がる地図となった。
そこには、今立っている谷と、その先にある山地が描かれている。
「三本の尖塔のさらに奥……?」フィンが呟く。
地図には、強風が渦巻く円の奥に、小さな印が灯っていた。
その印に視線を向けた瞬間、声が響く。
――名乗った者が、選ばれる。
三人は思わず顔を見合わせる。
セリアが小さく笑った。
「やっぱり……あたしたち、試されてたんだね」
「選ばれたってことは、この先の扉も開くってことだろう」フィンが言う。
「でも、“選ばれた”ことが何を意味するかまでは、まだ分からない」リナが鋭い視線を谷奥へ送った。
地図の光はやがて霧散し、祭壇は静けさを取り戻す。
しかし、三人の胸には確かな実感が残っていた。
――この先で、何かが待っている。
「行こう」フィンが言う。
「次は……本当に核心部だ」
「そうね。風の環を越えるなんて、滅多にできることじゃない」リナが剣を背負い直す。
セリアも頷き、小さく拳を握った。
三人は祭壇を背に、尖塔の間へと足を踏み出した。
そこには、これまで以上の強風と、まだ見ぬ試練が渦を巻いて待っていた――。
名乗りを終え、三人が受け取ったのは、新たな地図と「名乗った者が選ばれる」という示唆。
結ぶ・縁・継ぐ――複数の意味を持つ一文字は、これからの旅路で彼らが担う役割の核心に触れるものでしょう。
祭壇を離れた三人は、次なる目的地・尖塔の間へと進みます。
これまで以上の強風、そして未知の試練が待つ「風の環」を越えるために。
次回は、その突破と、地図の先に隠された“核心部”への到達が描かれます。