121話:風の塔、名乗る者の儀
今回の章では、風の塔での儀式が大きな転機となります。フィン、セリア、リナの三人が、それぞれ自分の過去や想いを象徴する品を三つの円盤に置き、塔の力を目覚めさせる場面を中心に描きました。フィンの記録球、リナの守りのペンダント、セリアの小さな木片――それぞれが「自分は何者か」を示す大切なものです。儀式が進む中で投影されたのは、強風渦巻く三本の尖塔。そこに「名乗る者、道を得る」という古代文字が重なり、泉での示唆と繋がりを見せます。
山道は、夜明け前の薄青い光に包まれていた。
冷たい風が、切り立った崖の下から吹き上がり、三人のマントをはためかせる。谷底からは川の音がごうごうと響き、足元の岩を細かく震わせていた。
「……これ、けっこうヤバい高さじゃない?」
セリアが足元を覗き込み、小さく身をすくめる。
「落ちたら即アウトだな」
フィンが苦笑しつつも、腰の剣に手を添えたまま前を見据える。
先頭を歩くリナは、何度も道端の岩壁や獣道を確認していた。
「足跡……人間のだわ。しかも、わりと新しい」
「ここ、人が通る道じゃないんじゃ?」
セリアが首をかしげると、リナは肩をすくめた。
「普通は通らない。でも、荷物を軽くした盗賊や、追跡を避けたい連中は、こういう崖道を好んで使うのよ」
山道は緩やかな登りが続き、両脇には風化した石の柱が等間隔で立っている。表面には苔とひび割れが走り、ところどころに古い文字らしき刻印が見えた。
フィンは立ち止まり、柱に手を触れる。
「……これ、“風の印”だな。古いものだ。昔、この山道は“風の環”に繋がる参道だったんだろう」
「風の環……あの地図に出てた、三本の尖塔の場所?」
セリアの目がわずかに輝く。
「ああ。つまり、この道は本来、儀式や巡礼のための道だった。でも今は……」
フィンは振り返り、崖沿いの岩陰を指差す。そこには、焚き火の跡と、壊れた木箱の破片が残っていた。
「……誰かが最近、ここで野営してる」
リナが近づき、跡を確認する。
「炭の冷たさからして、三日か四日前ね。食べ残しの干し肉が……やけに質がいい」
「盗品か、あるいは貴族筋のものかもしれないわね」
セリアの声が少し低くなる。
フィンは短く頷き、足を進めた。
やがて、道が大きく曲がり、眼下に別の谷筋が広がった。そこには朽ちかけた石橋がかかっている。
「これ……渡るの?」
セリアが眉をひそめる。
「他に道はない」
リナが即答する。
橋は中央部分が大きくひび割れ、板を渡したような補修跡が見える。風が吹くたび、きしむ音が響いた。
フィンは剣を背に回し、試しに一歩踏み出す。足元の石がわずかに沈み、砂がぱらぱらと谷へ落ちた。
「……一人ずつ、間隔をあけて渡ろう。俺が先に行く」
「待って! 落ちたらどうするの?」
セリアが声を上げる。
フィンは笑って振り返った。
「落ちないさ。……たぶん」
「“たぶん”って言った!」
セリアが頬をふくらませる。リナは苦笑しつつも、剣を抜いたまま橋の袂を見張った。
フィンが中央まで来たとき――
カタン、と乾いた音が響く。
崖の上から小石が転がり落ち、それに混じって、黒い影がすばやく動いた。
「伏せろ!」
リナの叫びと同時に、矢が風を裂いた。
フィンは身を低くしてかわすが、矢は橋板に突き刺さり、板がばきりと音を立てる。
「弓兵が上にいる!」
リナはすぐさま矢の来た方向へ駆け出す。
セリアも橋の手前から魔法を構える。
「《ウィンド・ブラスト》!」
強い突風が崖上を薙ぎ、影が一瞬よろめいた。そこへリナが飛び込み、剣の峰で男の手を打ち払う。弓が転がり、矢筒が岩場に散らばった。
「……ただの山賊じゃなさそうね」
リナは男の腰から、小さな紋章入りの袋を引き抜いた。
セリアがそれを覗き込み、息を呑む。
「これ……王都の軍用印じゃない?」
フィンが橋の中央から声を上げる。
「じゃあ、やっぱり……誰かが意図的に俺たちを妨害してるってことか」
「可能性は高いわね」
リナが険しい表情で頷く。
橋を渡り切った三人は、さらに上り坂を進む。
冷たい風が強まり、木々のざわめきが遠くから寄せてくる。
セリアが小声で呟いた。
「……この風、なんか嫌な感じ」
「気圧が変わってきてるな。嵐の前触れかもしれない」
フィンが前を見据えたその先――
霧の向こうに、三本の尖塔の影が、ゆっくりと浮かび上がり始めていた。
霧の中に見えた三本の尖塔は、近づくにつれ、その高さと異様さを露わにしていった。
黒ずんだ石で造られた塔は、まるで天空を突き刺すようにそびえ、先端は雲の中に消えている。塔の壁面には風化した装飾があり、絡みつくようにツタが這い上がっていた。
「……思ってたより、ずっと大きいな」
フィンが呟く。
「大きいだけじゃなくて……あれ、少し傾いてない?」
セリアが塔の根元を指差す。確かに、三本のうち一本は地震か崩落のせいか、わずかに外側へと傾いていた。
「崩れる前に調べたほうが良さそうね」
リナが慎重な口調で言い、剣の柄に手を置く。
塔の周囲は、広場のように平らに整地されていた。石畳は半分以上割れて雑草に覆われ、中央には古びた噴水跡がある。そこから伸びる三本の小道が、それぞれの塔の入口へと続いていた。
「どの塔から行く?」
セリアがフィンに尋ねる。
「……まずは真ん中だ。地図の中心にあった印も、この塔に重なってた」
フィンがそう言って歩き出すと、背後から強い風が吹き抜けた。砂埃が舞い、セリアが慌ててマントで顔を覆う。
「うわっ、目に砂が……!」
「風が急に強くなってきたな」
フィンは細めた目で周囲を見回す。尖塔全体が、まるで風を集めるかのように唸っている。
入口は重厚な二枚扉だった。両開きの石扉には、複雑な渦模様と古代文字が彫り込まれている。
「これ……読める?」
リナが問うと、セリアは扉に近づき、指でなぞるようにして目を凝らす。
「……古エルフ語だと思う。でも、崩れてて全部は読めないや。たぶん『風は名を呼び、名は門を開く』……そんな感じ」
「名を呼ぶ……また“名乗り”が鍵なのか?」
フィンが剣の柄に視線を落とす。以前、小祠で扉を開いた時も、三人がそれぞれの“在り方”を声にしたことで門が開いた。
「試してみよう。セリア、前に出てくれ」
「え、あたしから?」
「声が通るからな」
セリアは少し頬を赤くしながらも、一歩前に進み、扉に向かって声を放った。
「セリア! ……です!」
しかし、扉はびくとも動かない。
「やっぱり順番があるのかも」
リナが顎に手を当てる。
「じゃあ次は私。――リナ、行くわ」
再び沈黙。
最後にフィンが低く、しかしはっきりと名を告げる。
「フィンだ」
……それでも扉は閉ざされたままだった。
「ダメだな。前みたいにはいかない」
「たぶん、“名”だけじゃ足りないんだよ」
セリアが首を傾げ、扉の渦模様をじっと見つめた。
「これ、風の流れを描いてるみたい。もしかして……」
その時、広場の端で何かが動いた。
リナが素早く振り返り、剣を抜く。
「出てきなさい!」
霧の中から現れたのは、灰色の外套をまとった男だった。フードの奥からは顔がよく見えない。だが、その手には細長い杖が握られていた。
「旅の者か……いや、“名を探す者”か」
低い声が、風に乗って届く。
「誰だ、お前は」
フィンが一歩前へ出る。
「ただの番人だ。この塔は、選ばれし者しか入れぬ。――名と共に、“由来”を示せ」
「由来?」
セリアが小声で繰り返す。
「そうだ。“何者か”を示すのではなく、“どう在るか”を語れ。それがこの扉を開く鍵」
男の言葉に、三人は一瞬黙り込んだ。
前回の祠で示したのは、自分たちの“役割”や“覚悟”だった。だが、今回はさらに深く、自分の物語を告げろということだ。
リナが剣を下ろし、息を吐く。
「……面倒くさい試練ね。でも、やるしかない」
フィンは頷き、セリアを見る。
「順番は――どうする?」
「さっきのままでいいよ。今度はちゃんと、話すから」
セリアは扉の前に立ち、少し考えてから声を上げた。
「セリア! ……あたしは、逃げてきた。だけど、もう逃げない。大事な人たちと一緒に、前へ行く!」
次にリナ。
「リナ。剣を振るうのは、自分を守るためじゃない。仲間を守るためだ」
最後にフィン。
「フィン。俺は……届けるために歩く。誰かの言葉も、想いも、未来も」
三人の声が重なった瞬間、扉の渦模様が淡く光り、低い地響きが響いた。石扉がゆっくりと開き、冷たい空気が流れ出してくる。
男は黙って杖を掲げ、霧の中へと消えた。
フィンたちは顔を見合わせ、覚悟を決めて塔の中へ足を踏み入れた。
石扉をくぐると、塔の内部は外観からは想像もつかないほど広く、高かった。
螺旋状の吹き抜けが最上部まで続き、壁際には幅の狭い階段が絡みつくように伸びている。中央には、太い石柱が一本――いや、石柱というよりも、透明な気流で形作られた“風の柱”が立っていた。
「……なんだ、これ」
フィンは思わず足を止め、その風の柱を見上げた。
風は絶え間なく上へと昇り、時折、小さな光の粒を巻き込みながら消えていく。
「綺麗……でも、ただの風じゃないよ」
セリアが一歩近づき、杖の先で空気の流れを探る。
「魔力を含んでる。しかも、これ……呼吸みたいに脈打ってる」
「生きてる……ってこと?」
リナが眉をひそめる。
フィンは感覚を研ぎ澄ませる。確かに、風の流れはただの自然現象ではなく、何か意思を持つように周期的に強弱を繰り返していた。
塔の階段は古びており、踏み板の一部はひび割れ、所々で石の欠片が落ちている。足を踏み外せば、中央の吹き抜けに真っ逆さまだ。
「上まで行くんだろうな」
リナがため息をつく。
「……あたし、高いところあんまり得意じゃないんだけど」
セリアが小声でぼやく。
「大丈夫だ、ちゃんと俺が前を行く」
フィンは剣の柄を握り、先頭に立って階段を上り始めた。
⸻
数周ほど登ったところで、突如、風の柱から何かが飛び出した。
透明なはずの風が凝固したように形をなし、人型の“風精”となって三人の前に現れる。
「試練の続きか……!」
リナが素早く剣を構える。
風精は声を発しないが、その腕が弧を描くたびに鋭い風刃が放たれ、階段の手すりや壁を削り取った。
「下がって! 《ウィンド・シールド》!」
セリアが即座に魔法を展開し、三人の前に淡い風の障壁を作る。しかし、相手は同じ風属性――刃と盾がぶつかるたびに轟音が響き、障壁が削られていく。
「このままじゃ押し負ける!」
リナが障壁の脇から飛び出し、接近戦を仕掛ける。だが、風精は実体が薄く、剣が通りにくい。
「フィン、どうする!?」
「……中心を狙う!」
フィンは足場を蹴って吹き抜けの内側へ跳び、風精の胸部――淡く光る核のような部分へ剣を突き込んだ。
瞬間、風精はかすれた音を発し、光の粒となって四散した。
「ふぅ……階段で戦うのは勘弁してほしいな」
息を整えるフィンに、セリアが近づく。
「今の、風の核を突いたの?」
「ああ。あれが弱点だったみたいだ」
⸻
再び上り始める。階段は次第に狭くなり、壁の装飾はより精緻になっていった。古代文字や風紋が彫られ、その間には小さな水晶片が埋め込まれている。
「この模様……“環”を描いてる」
セリアが指でなぞる。
「風の環……この塔全体が巨大な魔法陣なんだわ」
「ってことは、ここはただの見張り塔じゃないってことね」
リナが視線を巡らせる。
やがて、階段の終わりが見えた。
最上階は円形の広間で、中央には巨大な石台が鎮座していた。その上には、三つの円盤状の装置が並んでおり、それぞれが微かに回転している。
「……これが目的の“風の環”か」
フィンが近づこうとした瞬間、広間全体が低く唸り始めた。
「侵入者、確認」
無機質な声が響き、石台の背後からもう一体の風精が現れる。だが、先ほどのものよりも大きく、全身に青白い稲光を纏っていた。
「今度は雷まで混ざってるじゃない!」
リナが顔をしかめる。
風精は長い腕を振るい、床に雷光を走らせた。石畳が弾け、熱気が広間にこもる。
セリアは咄嗟に詠唱を変えた。
「《アース・バイン》!」
床の石が盛り上がり、風精の脚を絡め取る。しかし、雷を帯びた刃がそれを粉砕し、再び自由になる。
「押し切られる!」
リナが風精の注意を引きつけ、フィンが横から飛び込む。だが、核は厚い風の鎧で覆われており、一撃では砕けない。
「セリア、援護を!」
「分かってる! ……《フリーズ・ランス》!」
氷の槍が風精の動きを一瞬止め、その隙にフィンが渾身の力で剣を突き込んだ。
眩い閃光と共に、風精は霧散し、広間は再び静寂を取り戻す。
⸻
「……これで、ようやく触れられるな」
フィンは石台に近づき、三つの円盤を観察する。それぞれに異なる文様が刻まれ、中心には窪みがあった。
「これ……“鍵”をはめる形になってる」
セリアが指先でなぞる。
「三つ……つまり、三人分ってこと?」
リナが問うと、フィンは頷いた。
「だろうな。俺たち三人の何かを、ここに示す必要がある」
そう言って、フィンは腰の袋から例の記録球を取り出した。光が円盤に反射し、風の流れが一瞬、止まったように見えた――。
フィンが記録球を円盤の一つの窪みにそっと置くと、石台全体が低く唸り始めた。
風の柱から流れ込んできた光の粒が、記録球の内部に吸い込まれていく。
「……動き出した」
セリアが息をのむ。
残る二つの円盤も、まるで呼応するように脈打ちはじめた。
リナは剣を腰に収め、慎重に円盤を覗き込む。
「これ、ただ物をはめるだけじゃないみたい。何か“自分自身”を示す必要がある」
「自分自身……?」
セリアが首を傾げる。
「フィンのは記録球だろ? じゃあ、あたしは……」
リナは腰の袋から、小さな銀のペンダントを取り出した。
それは、以前彼女が港町の孤児院にいた頃、子どもたちから贈られたものだ。
「守りたい理由、その象徴みたいなもんだ」
リナがペンダントを置くと、二つ目の円盤も光を帯びた。
石台を包む空気が一層重くなる。
「じゃあ……最後は、あたし?」
セリアはしばらく迷っていたが、やがて胸元に下げていた布の小袋を取り出した。
中には、小さな木の欠片が入っている。
「これ、奴隷だった頃……唯一捨てられなかったもの。昔、森で拾った枝の一部なんだ。あの時、これを握って泣いたのを覚えてる」
その欠片を円盤に置いた瞬間――
塔全体が震え、風の柱が一気に強さを増した。
吹き抜けを駆け上がる風が耳を打ち、広間の壁に埋め込まれた水晶片が一斉に輝く。
⸻
「……何か、映る」
フィンが呟いた。
風の柱の中心に、揺らめく映像が現れる。
それは、雲を割るほどの高地――鋭い岩山の頂に建つ、三本の尖塔だった。
尖塔の周囲を強風が渦巻き、時折、空に稲光が走る。
「これが……次の場所?」
リナが目を細める。
映像の端に、古代文字が浮かび上がった。
セリアが読み上げる。
「“風を名乗る者、道を得る”……」
「名乗る者……また出たな」
フィンが記録球を手に取る。
その表面には、淡い文字が刻まれていた。
「……これ、俺の名前?」
そこに刻まれていたのは、見慣れた“フィン”の文字と、その隣に揺らぐ別の一文字。
“ル”にも“レ”にも似た、不確かな輪郭。
「やっぱり……あの泉で見た“名乗った者が選ばれる”ってやつと繋がってるんだ」
リナの言葉に、フィンは頷く。
「……たぶん、次の場所で、この名前の意味が分かる」
⸻
その時、塔の外から低い唸りが響いた。
足元の石畳がわずかに揺れる。
「地震……じゃない。これ、風だ!」
セリアが叫んだ瞬間、広間の窓が一斉に開き、凄まじい突風が吹き込んだ。
風は塔の中を駆け抜け、三人を中心に円を描くように回り始める。
その渦の中で、三つの円盤はゆっくりと浮き上がり、再び石台に収まった。
「……これで儀式は完了、ってことか」
リナが深く息を吐く。
風が収まると、塔の入り口側から薄い光の道が伸びていた。
まるで「ここから出ろ」と促すように。
⸻
塔を出ると、外の空気は一変していた。
朝方の冷たい風ではなく、少しだけ温もりを帯びた柔らかな風が頬を撫でる。
山の稜線の向こうには、今見たばかりの尖塔群がうっすらと霞んで見えた。
「……遠いな」
フィンが呟く。
「でも、見える距離だよ」
セリアが笑う。
「ねえ、あそこに行ったら、フィンの“もう一つの名前”がちゃんと分かるのかな」
「分からなかったとしても、行く価値はあるさ」
リナが肩をすくめる。
「少なくとも、この塔はそう言ってる気がする」
フィンは二人を見て、口元をわずかに緩めた。
「……じゃあ、行こう。次の試練がどんなものでも、俺たちなら越えられる」
三人の足取りは、山風に背を押されるようにして、尖塔のある方角へと向かっていった。
その背後で、塔の風の柱が静かに消え、長い沈黙に戻った――。
今回で「名乗る者」という言葉が二度目の登場となり、その意味やフィンのもう一つの名前の正体に、読者の皆さんも興味を深めていただけたのではないでしょうか。セリアの過去が象徴として形を取り、リナの守る意志、そしてフィンの受け継ぐ覚悟が、この塔でひとつに結びつく場面は私自身も書いていて熱が入りました。次回からはいよいよ尖塔群への道中。過酷な山道、そして風を試すような試練が三人を待ち受けます。「名乗ること」が鍵になる理由も少しずつ見えてくるはずです。感想や考察、特に「名乗る者」という条件の意味や、尖塔の役割についての予想をお聞かせいただけると嬉しいです。