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119話:山路に響く、過去と現在の足音

前回の港倉庫での襲撃阻止から一夜明け、フィンたちは次なる目的地――三本尖塔の遺跡へと向かう準備を整えました。

 しかし、山地への道は険しく、東方交易路の支線を通らねばなりません。そこはかつて、彼らが港防衛戦の前哨戦ともいえる“交易路防衛”を果たした場所でもあります。

 今回はその道中、再び顔を出す旧知の仲間たち、そして新たな協力者との邂逅を描きました。冬の乾いた風と岩肌の匂い、足場を取られる雪解けの泥道――描写多めでお届けします。

港の朝は白かった。夜の湿りを残した霧が海面を薄く覆い、船のマストが乳色の空に針のような影を刺している。かもめの鳴き声が遠く、石畳は潮でまだ黒い。

 フィンたちは荷を軽くまとめ、城の門外で待っていた近衛の小隊と合流した。青のマントが風に揺れ、先頭に立つマルクス隊長が三人へ書状を差し出す。


 「特例の行動許可証だ。峠の手前、山脚の哨所まで護衛がつく。その先は道が狭くなる、随行はここまでだ」

 「十分です。港の件、引き上げは任せます」フィンが受け取り、軽く会釈する。

 「くれぐれも、陛下――いや、“フィン殿”。身元を明かすのは最小限に」

 苦笑混じりの忠告に、フィンも肩をすくめた。「分かってる。風の機嫌を損ねないように、静かに行くさ」


 馬車は使わない。荷車一台に食糧と縄、補修用の針金、チョークの粉袋。丘陵へ入れば足が利くのは人だ。

 城壁が背中で遠のいていくにつれ、町の音が薄まり、風の層が変わる。湿った潮の皮膜が剥がれ、代わりに乾いた草の匂いが混じり始めた。冬枯れの牧草地を抜け、矮木の生える斜面へ。地面の色は黄土から灰青へ、石の粒が次第に大きくなっていく。


 「ねぇ……あれ、見える?」

 セリアが手をかざす。遠景、雲の切れ目に、鉛色の稜線から三本の細い影が突き出していた。針のように真っ直ぐ、風に削られた岩の尖塔。

 「……三尖塔」リナが目を細める。「思ったより高いね。風が強そう」


 踏みしめる砂利が、不規則に鳴った。足もとは斜めに崩れ、細い踏み跡が蛇のように続いている。谷側は乾いた葦の色の谷底、風が吹き上がるたび、草の穂が逆立つ。

 「ここからは一列で」リナが前に出る。「セリア、粉の印はこまめに。フィン、後ろ」


 「了解」セリアは小袋を握り、岩の継ぎ目に白い丸を置いていく。「これ、たのしい。道が“続いてる”って感じ」

 「続け、だ。あの泉の文字もそう言ってた」フィンは苦笑して、鞘口に軽く指を添えた。革の陰で幼い火の龍が喉を鳴らす。熱は弱いが、風の冷たさを鈍く押し返してくれる。


 午前の遅い陽が、斜面の石を白く光らせた。風が横殴りに吹く。耳の奥で“風の環”が、かすかに鈴のような音を立てる。

 「……鳴った?」セリアが足を止める。

「うん。ためす」フィンは胸の輪へ指先を当て、息の調子を変える。吸って三つ、吐いて二つ。泉で覚えた“調子”を風に合わせる。

 崖の上から叩きつける突風の角が、ほんのわずか丸くなった。衣の裾がばたつく音が一拍遅れ、体の重心が取りやすくなる。


 「便利」リナが短く言い、うなずく。「でも使い過ぎはダメ。風は借り物よ」

 「わかってる」フィンは息を整えた。「押し返すんじゃなく、“通す”。そう教わった」


 斜面の奥に、古い石積みが見え始めた。苔むした基壇、崩れた祠の柱、半ば埋もれた環状の石――風の民が立てた古い目印だろう。

 「ちょっと寄ってく?」セリアが目を輝かせ、近寄って膝をつく。石肌に、擦れた刻印がわずかに残っている。

 「読める?」フィンが覗き込む。

 セリアは首を振った。「ぜんぶは無理。でも……“息を揃えよ”。そんな意味に見えるよ」


 「泉の〈三声〉と響き合ってる」リナが指でほこりを払う。「この山ぜんぶが、呼吸でできてるみたい」


 峠の哨所は、石を積んだだけの小屋だった。門前で待っていた近衛の二人が、三人へ敬礼をし、背嚢を軽く持ち上げる。

 「ここまでです。以後は、風にご注意を」

 「ありがとう」フィンは受け取った書状を示し、短く礼を言う。

 近衛が去ると、音が変わる。人の気配が剥がれ、山肌と風の擦れ合う音だけが残った。


 「……静かだ」

 セリアの声も小さくなる。

 「怖い?」リナが尋ねる。

 セリアは少し考えて、首を横に振った。「ううん。こわいけど、きらいじゃない」


 再び歩き出す。尾根に取りつくと、道は紙一枚の幅に薄くなり、右も左も空気の斜面。ときおり“風の管”のようなトンネルから、低い唸り声が吐き出される。

 「ここ、名前で呼び合って」リナが言う。「転んだり、怖くなったら、すぐ呼ぶ。声は縄より強い」


 「……セリア、ここにいるよ」

 「リナ、問題なし」

 「フィン、聞こえる。前へ」


 声が風を切って届くたび、足裏の石が少しだけ確かになった気がした。名乗る、名を呼ぶ――それは、いまこの瞬間の位置を、見えない地図に印す動作だ。


 尾根の先で、世界が開けた。雲の切れ間から陽が差し、正面の空に三本の尖塔がくっきりと浮き上がる。一本は黒く、一本は白く、一本は鈍い灰。距離の感覚が狂うほど高く、細い。

 セリアが思わず息を呑む。「きれい……じゃないけど、すごい」

 「風の針。あそこに“扉”がある」フィンの胸の輪が、かすかに熱を帯びた。


 彼方で、黒い尖塔の根元あたりに、薄い霧が渦を巻いた。そこだけ風が逆に落ち込む。道は、あの渦の縁をかすめて伸びている。

 「今日は、あの肩まで」リナが決める。「無理はしない。日が落ちる前に風陰を見つけて」


 三人は頷き合い、また歩き出した。白い粉の丸が岩に増えていく。風は鳴り、尖塔は黙って見下ろしている。

午後、雲の裏側が薄く赤みを帯び始めたころ、斜面の切れ目に小さな凹地を見つけた。岩屋のように風をはじく角度で口を開け、内側は乾いている。

 「ここ、泊まれる」セリアが嬉しそうに中へ滑り込み、砂利を手で払って寝床の形を作る。小石がころころ転がって、奥へ音を運んだ。


 リナは入口に腰を下ろし、外の道を振り返る。「……あそこ、見て」

 指差す先、尾根を回り込む細い道に、もう使われなくなった吊り橋の跡があった。杭だけが岩に刺さり、縄と板は風に磨かれてほとんど残っていない。

 「明日あれを越える?」セリアが顔をしかめる。

 「越えない。あれは“目印”。昔の道はそこだったってだけ。私たちは岩腹を巻く。風の管を二つくぐるけど、ロープ出せば行ける」


 フィンは頷き、荷から細い麻縄と鉄の環を出した。「結び方、確認しよう」

 「うん」セリアが近寄る。

 リナは指先の動きだけで手早く環を作り、体の前と後ろで荷重が分散するように結び目を作る。

 「ここ、二重。こっちは解くときの耳。セリア、いちど自分でやって」

 「えっと……こう、かな」

 「上手。あとは“声”。明日は風が吠える。見えなくなっても、ここにいるって言うのよ」


 小屋ほどの岩屋の空気が、少しやわらぐ。フィンは鞘から剣を半寸抜き、幼い火の息をほんの少し漏らした。橙の線が薄く空気を温め、手の甲に血が戻ってくる。

 「焼かない火、助かるね」セリアが笑う。

 「俺も助かってる。……ありがとう」

 鞘の底で、かすかな鳴き声。火の子は眠たげに身じろぎをした。


 少しだけパンを分け、干し肉をかじる。塩が舌に刺さり、水が喉を滑り落ちる音が大きく響いた。外では、風が谷を渡って低く唸る。

 「ね、リナ」セリアがパンの欠片を齧りながら、もじもじと視線を上げた。「あたし……今日、ちゃんと“呼べてた”? 名前」

 リナは肩の力を抜き、笑うでもなく、まっすぐに頷いた。

 「呼べてた。だから足が止まらなかった。――セリア、あんたは“在る”って言えた」

 「……うん」セリアの耳が少し赤くなった。「ありがと」


 フィンは岩壁の刻みに目をとめる。誰かが昔、爪で引っかいたような線。風の方角を示す簡単な矢印だ。

 「ここ、通った人がいたんだな」

 「そうね。……きっと、何かを“渡しに”行った人」リナが空を見た。「この山は、受け取りにくる者を選ぶ。名乗れない者は、たぶん帰される」


 「“名乗った者が選ばれる”」セリアが小さくなぞる。「泉で言われたやつだ」

 「明日、塔の根でまた聞かれるかもしれない」フィンは輪に触れた。「――俺は俺だ、って」


 風の音が、ひときわ強くなった。岩屋の入口で空気が巻き、砂粒が床を走る。

 「扉、閉める」リナが麻布を入口に張り、石で押さえた。「灯りは最小。火は出さない」


 夜の層が厚くなるにつれ、風の唸りは遠くと近くを行き来し、時に笛のような高音に変わる。三人は寝袋に身を沈め、互いの肩が触れる距離で横になった。

 「ねぇ、フィン」セリアが天井を見ながら囁く。「尖塔、近くで見たら、もっとこわいのかな」

 フィンは少し笑った。「たぶん。だから、いっしょに見る」

 「うん。いっしょがいい」

 リナは短く「おやすみ」と言い、目を閉じた。剣は手の届くところ、縄の端は指に軽く巻いてある。


 ……夜半、風が一度だけ凪いだ。凪ぎの底で、フィンの胸の“風の環”がちり、と鳴る。

 目を開けると、岩屋の隙間から、雲の流れに裂け目ができ、月の薄片が尖塔の先をかすめていた。黒、白、灰――三本の針は、静かに空を縫っている。

 フィンは声にせず、胸の内でだけ名を呼んだ。

 ――フィンは、ここにいる。セリアと、リナと。


 風が戻る。眠りも戻る。

 夜が明ければ、風の管をくぐり、渦の縁へ踏み出す。明日へと続く白い粉の丸が、闇の中でかすかに光って見えた。

夜がほどけるより早く、風が目を覚ました。岩屋の口を叩く低音が強まり、外の斜面に薄い霜が刷かれていく。

 「起きよう」リナが短く告げ、縄の結び目を確かめる。フィンも続いて身支度を整え、セリアは粉袋を腰に回した。


 一歩外に出ると、空は鉛色。雲は速く、尾根の草はすべて同じ方向へ倒れている。谷底から吹き上がる風が頬の皮を薄紙みたいに冷やし、耳の奥で鈴が鳴る。胸の“風の環”がそれに共鳴して、ちり……と小さく応えた。


 「行くよ」

 「うん」

 「前へ」


 三人は岩屋を離れ、尾根の細道へ戻った。右も左も、空気の斜面。すぐ先に、黒い岩の裂け目が口を開けている――風の管だ。そこから吐き出される音は、洞の中で巨大な生き物が寝返りを打つみたいなうなり。

 「通り抜ける。合図は“名”」リナが言う。「怖くても、名を切らすな」


 フィンが息を合わせる。吸って三つ、吐いて二つ。足裏の感覚が一拍おそく帰ってくる。

 「フィン、ここに」

 「リナ、問題なし」

 「セリア、いるよ!」


 風の管の中は、暗く、冷たく、湿った音が肌に触れてきた。壁は氷の膜でつるりとして、手の指に感じるのは小さな凹凸だけ。セリアが粉で小さな白丸を置くたび、闇の中に灯がひとつ生まれ、すぐに風にかき消される。それでも、残響のように“ここを通った”という印象だけは石にしみこんでいく。

 管を抜けると、世界が突然広がった。低い谷をまたぐ、斜めの岩棚。足幅二つぶん。すぐ下は白い波のように砕けた転石の流れ。


 そのとき、風が変わった。

 耳の外側で、声がした。掠れた囁きがいくつも重なり、足もとから這い上がってくる。

 ――呼べ。

 ――名で呼べ。

 ――呼ばれた者だけが、渡れる。


 セリアが肩をすくめる。「……いまの、聞こえた?」

 「ああ」フィンは頷き、胸の輪に指を添えた。「“水”のときと似てる。記録の残響だ」


 リナは先に進みながら言う。「続けて。声を切らさない――セリア!」

 「セリア、ここに!」

 「リナ!」

 「いる!」


 名を呼ぶたび、足もとの石がわずかに硬くなる。逆に、呼ぶのが遅れると、岩棚の縁が砂のように崩れ、空気の斜面に足を吸い込まれそうになる。

 「……ねぇ、あれ」セリアが顎で指した。前方の空気が、角度を変えたガラスのようにひずんでいる。そこだけ景色が波打ち、道が消えたり現れたりする。

 「“風の幻”だ」リナが声を張る。「目で追うな。足の裏と声で進む」


 フィンは右足を岩の小突起に置き、左足で次の突起を確かめる。呼吸のリズムを崩さず、名を続ける。

 「フィン、ここ」

 「セリア、いる」

 「リナ、前」


 ひずみの中に踏み込んだ。世界が半歩ずれて、尖塔が一瞬、四本にも五本にも見えた。膝が笑う。喉が乾く。

 「っ、フィン!」セリアの声。

 「いる。大丈夫」

 彼は剣の柄を軽く叩いた。鞘の底で幼い火がぷいと鳴き、温度が膝から脛へと馴染んでいく。凍りついた筋が緩み、足が戻る。


 ひずみを抜けると、岩肌が急に低くなり、黒い尖塔の根に続く広い鞍部へ出た。風が渦を巻いて落ち込み、谷の声が何層にも重なっている。

 「……ここが“門前”だ」フィンの胸の輪が熱を持つ。「近い」


 鞍部の中央には、風で磨かれた環状の石台があった。三人が立てるくらいの広さ、内側に浅い溝が三本、交わらず並んで刻まれている。溝の始点には古い刻印――擦れて読めないが、どれも息や名の印に見えた。

 「〈三声〉……だと思う」セリアが溝をなぞる。「あの泉といっしょ」


 「やってみよう」フィンは溝の前に立ち、二人に目で合図する。

 胸の奥で、風の環が鈴のように鳴った。

 フィンは言う。「届ける」

 リナが続ける。「守る」

セリアが置く。「名前で呼ぶ」


 三つの言葉が、風にさらわれず落ちた。石台の溝に沿って淡い光が走り、鞍部の風のうなりが一度だけ止む。

 そして――吹き返した。


 巨大な息が、三つの溝に沿って逆流する。砂が持ち上がり、白い粉の丸が空に散る。息はたちまち三つの柱に形を取り、目のない顔、口のない口をもった風の使いが姿を現した。

 「来訪者よ」三つの声が重なって響く。「名乗った。ならば問う。何を渡し、何を残す」


 フィンは目を瞬かせた。胸が早鐘を打つ。

 リナが低く言う。「落ち着いて。ここは“言葉”でやるところ」

 セリアが一歩出る。震えているが、目は逃げない。

 「渡すのは……声。忘れられそうな声。番号じゃなく、名前で呼ばれる声」

 「残すのは?」風が問う。

 「手当たり次第の痛みじゃなくて、在るって証。……ここにいるよ、ってやつ」


 リナが続ける。「私は“守る術”を渡す。斬らないで済む斬り方、倒さないで止める間合いを。残すのは、戦わずに済む道筋」

 視線がフィンに集まる。

 フィンは剣の柄に触れ、息をひとつ分だけ長く吐いた。

 「俺は“届ける”。水で見た記憶、ここで聞く風、地に眠る言葉――ぜんぶ、次へ運ぶ。残すのは、途中で折れないための結び目だ」


 風の三柱が静かに揺れ、鞍部の音がわずかに柔らかくなる。

 「ならば、門は試す。揃い、支え、通すことができるか」


 石台の向こう、黒い尖塔の根に沿って、薄い霧の壁が現れた。壁には細い足場が並び、ところどころ抜けている。抜けの位置は、息の強弱で絶えず入れ替わった。

 「歩調を合わせて渡れ、ってことね」リナが顎を上げる。「抜ける前に、次の石へ」


 「合図はいつもの三つ」フィンが言う。「セリア、声を切らさない。リナ、前。俺、最後」


 三人は石台を降り、霧の壁に踏み込んだ。足場の石は冷たく、靴底が凍みる。風が来る方向は一秒ごとに変わり、髪が逆立ち、呼吸が乱れる。

 「セリア!」

 「いる!」

 「リナ!」

 「前!」


 足場が消える瞬間、フィンはセリアの背に手を添え、リナが次の石へ身体ごと導く。抜けたところへは、すぐに温度を送る。幼い火の息が石の皮を一瞬だけ乾かし、靴が滑るのを止める。

 「ナイス」リナが短く笑う。「その火、好き」


 中ほどで、突風が真横から叩きつけた。耳が痛い。視界が白く飛ぶ。

 「フィン!」セリアの声が揺れる。

 「いる」フィンは縄を引き、彼女の腰の結び目を確かめる。ロープの張りが三人の体重を分け合い、落ちかけたバランスを戻した。


 最後の石は、霧のいちばん濃いところにあった。見えない。声だけが頼り。

 「あと一つ」リナの声は平らで、強い。「来て」

 「うん、行く」セリアの靴先が石の角を捉え、体が前に滑る。

 フィンは胸の輪に指を置き、息の調子を三人に合わせた。吸って三つ、吐いて二つ。――揃え、支え、通す。


 霧がちぎれた。黒い尖塔の根、風を溜め込んだような窪地に、風の門が立っていた。空気の輪が二重、鈴のような音を立てて回っている。輪の中心だけ、風がない。静かな井戸の底みたいな空白。


 「着いた」セリアが息を吐く。「こわかった……でも、楽しかった」

 「よくやった」リナが彼女の肩を軽く叩く。「私も、ちょっとだけ怖かった」


 風の三柱は門の両脇へ移り、形をほどき、ただの息へ戻っていった。

門の前に立つと、胸の“風の環”がひときわ明るく鳴った。二重の輪がフィンの鼓動に合わせて回転を変え、中心の空白がわずかに広がる。

 「入って、いい?」セリアが門の縁へ指を近づける。空気が柔らかく押し返し、指先が温かくなる。

 「許されてる」フィンは頷き、鞘に触れた。「行こう。行って、戻る」


 三人が輪をくぐると、世界の音が変わった。外では千の唸りが重なっていたのに、ここではひとつの呼吸しかない。広くも狭くもない、囲われた空のような場所。床は見えないが、落ちる気はしない。

 目の前に、書見台のような形の気流が立ち上がっていた。そこに、薄い薄い羽根みたいなものが一枚、ふわりと浮いている。色はない。でも、光の向きによって、古い文字の影がちらりと浮かぶ。

 「“記録”だ」フィンの喉が乾く。

 セリアは両手を胸の前で合わせ、そっと一歩出た。「触って、いいのかな」

 「触れるなら、名前から」リナが言う。「ここはずっとそうだった」


 三人は自然と、泉でやったのと同じ位置に立った。

 フィンが名乗る。「フィン」

 リナが続く。「リナ」

 セリアが笑う。「セリア。ここにいるよ」


 羽根が震え、発音だけが生まれた。

 ――ノーデル。

 ――アール。

 風と炎の名が、かすかに挨拶を返す。輪の“風”と“炎”が芯で鳴き、幼い火龍が鞘の奥でくすぐったそうに身をよじった。


 羽根の裏から、もう一つの影が浮かぶ。

 ――ル……

 音はそこまでで、切れた。

 セリアが息を呑む。リナも、目だけでフィンを見る。

 フィンは握った拳をそっと開き、ひとつだけ首を振った。「……今は、いい。今は“フィン”だ」

 羽根はわずかに揺れ、納得したみたいに光を弱める。


 代わりに、道が現れた。羽根から細い糸が三本伸び、門の内側で緩やかな渦を描く。糸はそれぞれ色がなく、けれど“性格”が違う。ひとつはまっすぐ、ひとつは弧を描き、ひとつは細かく震えた。

 「三つの行き先……?」セリアが首をかしげる。

 「いや、“三声”の導きだ」リナが目を細める。「まっすぐは“届ける”。弧は“守る”。震えてるのは“名前で呼ぶ”。」


 フィンは苦笑した。「どれか一つ、じゃないんだろうな。三つ同時に」

 「いままで通り、ってことね」リナが肩をすくめる。「揃えて、支えて、通す」


 糸の渦がゆっくり回転を上げ、門の外――尖塔の根の風景がぼやけた。時間が少しだけ巻き戻され、少しだけ巻き進められ、そこに空白が生まれる。

 空白の中央に、石の札が落ちてきた。掌に収まる大きさ、角が風で丸くなり、片面に浅い刻印。

 セリアがそっと拾い上げる。指にひんやり吸い付く感触。

 「読める?」フィンが問う。

 セリアは首を傾げ、目をこらした。

 「……“橋は折れた。渡るものは、声で渡れ”」

 「声で……」リナが顎に指を当てる。「さっきの足場みたいに、呼吸と名で“足”を置く」


 札の裏には、簡単な図が刻まれていた。尾根、渦、欠けた橋、そして尖塔の白と灰へ分岐する細い線。

 「次は白い塔だな」フィンが言う。「黒は“門”。白は“廊”。灰は“記”。――そんな感じがする」


 風の輪が静かに頷くみたいに揺れた。

 セリアが札を胸に抱く。「持ってくね。落とさない」

 「頼んだ」リナが笑う。「セリア、それ似合う」


 門の内の呼吸が、ゆっくり浅くなる。出る時間だ。

 フィンは書見台の気流へ深く頭を下げた。「受け取った。渡して、残す。必ず」


 三人が輪をくぐり直すと、外の千の唸りが一度に押し寄せた。鞍部の空気は冷たく、門の縁には霜の粒。けれど、胸の中は不思議と温かい。

 「戻ろう。今日はここまで」リナが判断する。「風が落ちる前に岩屋へ」


 鞍部を離れるとき、背中で風が鈴を鳴らした。門が見送る音だ。

 帰り道は来たときより、わずかに易しい。白い粉の丸はまだ残り、風の幻は薄い。三人は同じ歩調でひずみを抜け、風の管をくぐった。

 岩屋の口が見える。セリアが小さく手を振った。

 「ただいま」

 「おかえり」リナが応える。

 フィンは剣の鞘を軽く叩き、幼い火へ礼を言った。温度がこたえ、喉の奥で小さく鳴く。


 夜、布を下ろした岩屋の中で、セリアは石の札を寝袋の枕元に置いた。薄い刻印が焚き火のない薄闇で鈍く光る。

 「“声で渡れ”か」リナが横になりながら呟く。「明日は、もっと風がうるさい」

 「大丈夫。あたしたち、うるさいから」セリアが笑う。

 フィンも笑って、目を閉じた。「名を呼ぶのは、うるさくていい」


 外で風が尖塔の間を縫い、遠い鈴がかすかに鳴った。

 明日は白の塔へ。揃えて、支えて、通す――三声で。

今回は移動編でありながら、フィンたちの過去の戦いと現在の成長をつなげる回になりました。特に、港防衛戦や交易路防衛の時と比べ、連携の質や判断の速さが格段に上がっていることが、会話や行動の端々に出ていたと思います。

 また、後半で見えた山地の影は、いよいよ三本尖塔の遺跡が近いことを示す伏線です。次回は、この遺跡に入るための最初の“鍵”を探す展開となります。

 感想欄で「尖塔の形はどんなものか」「遺跡の防衛機構は魔法なのか物理なのか」など、皆さんの予想も楽しみにしています。

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