115話:封じの扉へ
語る者としての運命を背負い始めたフィン。今回のエピソードでは、記録の泉が示すもう一つの“語る者”の記録、そして彼自身の覚悟が問われます。
仲間との信頼、繋がり、そして語ることの意味。
物語は今、世界の核心へと歩を進めていきます。
記録室の重い扉が、音を立てて閉じた。
静かな回廊を、三つの足音が反響する。セリア、リナ、そしてフィンは、かすかな灯りを頼りに、地下深くへと続く階段を下りていた。
記録球が示した“封じの区画”。それは、聖精の泉の奥――長年、誰の立ち入りも許されなかった“沈黙の階層”と呼ばれる領域だった。
「うう……ここ、空気が重いよ……」
セリアが思わずフィンの上着の裾をぎゅっとつかんだ。その顔には不安の色が浮かんでいる。
「圧がかかってるな。たぶん、魔力か、何かの封印結界が周囲にある」
リナは足元を照らしながら、壁に指を這わせる。石材の隙間からほのかに滲む光。そこに、古代文字のような記号が微かに浮かび上がっていた。
「読めるの?」
「……いや、古代術式に似てるけど、完全に一致しない。まるで、この場所だけで使われてた“独自の呪文体系”みたい」
「じゃあ、普通の封印解除の方法は通じないかも……」
セリアの言葉に、フィンは少し考えてから口を開いた。
「それでも、行ってみよう。何か“痕跡”が残ってるかもしれない」
階段の終わりには、広間のような空間が広がっていた。
壁も天井も、すべてが濃い灰色の石で造られており、ところどころ苔のようなものが浮いている。中心には、巨大な扉がそびえ立っていた。金属のような質感を持ちながらも、まったく光を反射しないその黒色の扉は、異様な存在感を放っていた。
「ここが、“封じの区画”の入り口……」
セリアが小さく呟いた。
近づくと、扉の表面には複雑な模様が刻まれていた。円環、交差、歪んだ星型。どれも見たことのない印だったが、中心部には――見覚えのある“記録球”のような図案が描かれていた。
「これは……!」
リナが記録球を取り出し、模様にかざす。すると、扉に反応するように、ごく微かに“青白い脈動”が走った。
「反応した……」
「でも、開かないね……?」
セリアが扉にそっと手を触れようとして、すぐに引っ込めた。
「……冷たい。いや、違う……“拒まれてる”感じがする」
「たぶん、記録球だけじゃ不十分なんだろう。何かが、まだ足りない」
フィンが扉に向き直り、深く息を吐いた。
「……お前は、“語る者”か」
あの声が、ふと脳裏をよぎる。記録球が見せた映像。語る者、伝える者、そして“つなぐ者”――。
セリアがフィンの横顔を見上げた。
「ねえ、フィン……」
「ん?」
「フィンって……すごいな。あたしなんて、何も分かんないまま、ただ一緒に来てるだけで……」
「セリア」
その名を、やさしく呼んで、フィンは微笑んだ。
「一緒に来てくれるってことが、どれだけ心強いか。……俺は、追い出されたことを悔やんだことはあっても、今の旅を後悔したことは一度もないよ」
セリアは少し目を丸くし、それから、ふにゃりと笑った。
「……なにそれ。ずるいよ、そういうの」
「はは、ごめん」
そんな二人のやり取りを、リナは少し後ろから聞きながら、肩をすくめた。
「まったく、恋人じゃないのが不思議なくらいね」
「え、こ、恋人じゃないよ!」
「ち、違うってば!」
リナのひと言で、二人は一斉に否定したが、その顔は同時に赤くなっていた。
「……あははは!」
地下の閉ざされた空間に、セリアの朗らかな笑い声が響いた。それは、この空間には不釣り合いなほど、明るく、澄んだ音だった。
その瞬間――。
扉の中心にある“記録球の紋章”が、ふっと淡い光を帯びた。
「えっ……?」
「いま、何か反応した?」
「セリア、もう一回笑ってみて」
「え? ええっ? そ、そんな急に言われても……」
照れくさそうに肩をすくめるセリアだったが、フィンとリナに見つめられて、思わずまた笑ってしまった。
「ふふっ、もう……へんなの」
その瞬間、扉の縁に沿って走る光のラインが、全て“生きたように”点灯した。
ごごご……という低い音とともに、封じの扉が、わずかに軋みながら開き始めたのだった――。
エルダン政庁の地下にある記録区画から出た三人は、一度政庁の宿舎へと戻ってきた。
未明の薄明かりが差し始めていたが、建物の中はまだ静まり返っていた。多くの職員たちは夜勤を終えて仮眠を取っている時間帯であり、廊下には誰の姿も見えなかった。
セリアは、フィンが手にしたままの記録球を見ながらぽつりと呟いた。
「……本当に、行くんだね。封じの区画って、誰も近づかないって有名な場所なのに」
「うん。でも、行かなくちゃならない気がする。あの声……“伝える者”って言葉、俺には、ただの記録じゃなくて、使命みたいに聞こえたんだ」
フィンの言葉に、リナが小さく息をついた。
「使命、ねぇ……まあ、あんたにそう言われたら止める気にもならないけど。でも正直、あそこは私でもあまり行きたくないわ」
「なんで? そんなに怖い場所なの?」
セリアの問いに、リナは頷くと、小さく口を尖らせて答えた。
「封じの区画ってのは、昔、記録技術を悪用しようとした“歪みの研究者”たちが使ってた場所だったって噂されてる。事実かどうかはともかく、記録局でも正式には立ち入り禁止になってるのよ。何があるかなんて、私だって知らない」
「……リナでも?」
「ええ、私でも」
フィンはそんな二人のやり取りを聞きながら、ゆっくりと記録球を掌の中で転がしていた。
球体の中心で、淡い光の粒が静かに脈動を繰り返している。
「でも、だからこそ……気になるんだ。この球体は、あの場所を“鍵”として指定してる。今までの記録と違って、これは――“問いかけてくる”んだよ、こっちに」
「問いかけ?」
リナが眉をひそめる。
フィンは少しだけうつむいて、言葉を選ぶように口を開いた。
「あの映像の最後、“この世界が何度過ちを繰り返しても、記録がつながれば希望は絶えない”って……そう言ってた。でもさ、誰がそれを“つなげる”のか、誰が“語る”のかって――まだ、分かってないんだと思う」
静かに、だがはっきりとフィンは言った。
「だから俺は、“語る者”に会いたい。“記録の始まり”を知りたい。そうじゃなきゃ、俺自身がどうしてこの旅に出たのか、本当の意味で分からない気がするんだ」
しばらくの沈黙の後、セリアがふっと笑った。
「……やっぱり、フィンって変わってる。ううん、最初から、どこか違ってたんだよね。村のこととか、旅の途中でのこととか、全部ひっくるめて、“伝える”って言える人、なかなかいないよ」
「おだてても何も出ないよ」
「おだててないよ。心からそう思ってるだけ」
セリアの無邪気な笑顔に、フィンも少しだけ照れくさそうに頷いた。
そんなやりとりを見ていたリナが、ふっと肩をすくめる。
「まあいいわ。あたしも決めた。あんたたち二人が突っ走るなら、私がちゃんと監視役としてついて行くわよ。危ないことになったら、さっさと引き上げるからね?」
「うん、ありがとう。リナがいてくれると、なんだか安心できる」
「……あんた、たまにいいこと言うのね」
リナがからかうように言ったのに対し、セリアがすぐに笑いながら加わった。
「じゃあ、私は癒し担当かな。怖くなったら、すぐ抱きしめてあげるからね?」
「それ、誰が怖がるって前提で言ってるの……?」
三人の笑い声が、宿舎の静かな空気に溶けていく。
だがその裏には、それぞれの胸の奥にある“決意”が、確かに芽吹いていた。
扉の向こう――記録区画のさらに奥、“封じの区画”と呼ばれる場所には、今まで語られることのなかった“記憶の核心”が眠っているかもしれない。
そして、それを“呼び起こす者”として、フィンの存在が求められているのだと――三人は、誰よりも深く理解していた。
「準備、整えよう」
フィンが言った。
「道具は少なくていい。でも、記録球と、君たちは必要だから」
「ふふっ、頼もしいね。わかった。じゃあ私は薬草と癒しの道具を少し持ってく」
「私は……封印破り用の工具でも持って行くわ。記録局の備品をちょっと拝借ってことで」
「それ、怒られない?」
「あとで返せば問題ないでしょ。記録のためよ、記録の」
リナが鼻を鳴らし、セリアがくすくす笑った。
夜が明けきる前――三人は静かに、しかし着実に、地下の奥へと向かう準備を始めていた。
地下記録区画のさらに奥――。
その場所は、政庁の設計図にも明記されていない“異空間”のようだった。
記録室の背面にある階段を降り、二重の鉄扉を開くと、空気が変わった。
石の壁は古く、苔むしている。その質感は他の区画と明らかに異なり、明らかに「記録局が管理している範囲」から逸脱している雰囲気を醸していた。
「……ここ、空気が重たい」
セリアが思わず小声で呟く。
彼女の言葉通り、地下の空気は湿って重く、息をするたびに喉にまとわりつくような不快感を覚えた。照明はない。リナが持ってきた魔導式のランタンが、周囲をかろうじて照らしていた。
「古いな……この通路、いつの時代のものだ?」
フィンはランタンの灯を壁に当てながら、石造りの装飾や刻まれた文様を見つめていた。
どこか宗教的な象徴に近い印象を受ける。円と線が複雑に絡み合ったその文様は、見る者に“何か”を思い出させるような、奇妙な既視感を含んでいた。
「この紋章、見たことがある……どこだったか……」
「もしかして、あの……精霊の祭壇にあったやつ?」
セリアが記憶をたぐるように問いかけると、リナが頷いた。
「ええ、似てる。精霊信仰の初期に使われた意匠だと思う。ってことは……この空間、記録局の設立よりも、ずっと前から存在してた可能性があるわね」
足元がぐらついた。
セリアが小さくよろけたのを、フィンが支える。
「気をつけて。床、ところどころ崩れてる」
「ありがとう……」
彼女は照れたように笑いながらも、片手をフィンの背に置き、そのまま三人は一列になって進む。
廊下の先に、ようやく扉が見えた。
重厚な石扉。両開きの構造で、中心にはまたしても紋章が刻まれている。それは、記録球の内側で見た映像にあったものと酷似していた。
「……間違いない。ここが“封じの区画”の入り口だ」
フィンが呟いたそのとき、彼の手に持つ記録球がふわりと光を放った。
球体の中心で回転していた光の粒が、紋章の文様と一致した瞬間、低い共鳴音が響く。
――ゴォン……
空間が震え、石扉の表面が淡く輝いた。
「動いた……!」
セリアが驚きの声を上げるのと同時に、リナが慎重に記録球を掲げた。
「この扉、記録球を“鍵”として反応してる……やっぱり、この球体はただの媒体じゃない。扉と連動する“起動装置”だわ」
「開けて……いいかな?」
「もうここまで来たら、止めても無駄でしょ。行きなさい、語る者さん」
リナが皮肉交じりに言いながら、背中を押す。
フィンは頷き、記録球をそっと紋章の中心部へと押し当てた。
その瞬間――。
石扉が静かに、だが確実に開いた。
きしむような低音。巻き上がる風。
閉ざされていた空間が、千年の眠りから目覚めるように、ゆっくりと口を開いた。
その向こうには、想像を超える景色が広がっていた。
「……何これ……」
セリアの言葉が、空気に吸い込まれていく。
広大な空間――それはまるで地下神殿のようだった。
天井は高く、精密に彫刻された支柱が並び、その中央には巨大な水盤が据えられている。
水盤の表面には、常に何かが“記録され続けている”かのように、波紋と映像が浮かんでは消えていた。
「……これは、“記録の泉”……? まさか、本当に存在したなんて」
リナが感嘆の声を漏らす。
学術文献の中でしか語られてこなかった伝説の場所が、今まさに彼女たちの目の前にあった。
フィンは足を踏み出す。水盤の縁に近づき、そっと手を伸ばした。
その指が水面に触れた瞬間――
まるで彼の内心を見透かしたかのように、泉の中に“映像”が浮かび上がった。
それは、失われた文明の都市だった。
空に浮かぶ書物。歩く石像。言葉で物を創る人々。
「これは……?」
「“過去の記録”よ。記録球が開いたのは、単なる扉じゃない。“記録の流れ”そのものへと続く通路よ」
リナが震える声で言った。
「……でも、どうしてそれが……今まで誰にも見つけられなかったの?」
「……“語る者”が現れるまで、見せる気がなかったのかもね」
セリアとリナが、フィンの背中を見る。
彼はまだ、水面を見つめていた。
そこに浮かび上がったのは、一人の少年――フィンに酷似した、別の“語る者”の姿だった。
水面に映った“少年”は、まさにフィンそのものだった。
だが、その瞳には、今の彼とは異なる“虚無”が宿っていた。
それは過去の記録――いや、別の時代、あるいは別の世界から“重なった存在”かのように、記録の泉はその像を保ち続けていた。
「……これ、俺……じゃないよな?」
フィンが眉をひそめた瞬間、泉の映像が動き出した。
≪君は“記録”に触れた。語り、伝え、繋げる者としての力を得た≫
声が響く。男とも女ともつかぬ低く澄んだ声だった。
それは、記録球でフィンに語りかけていた“あの声”に酷似していた。
「また……君か」
フィンはそっと声を返す。
セリアとリナは背後で息を呑みながらも、フィンの言葉を遮らない。
二人には、その声が“聞こえて”いないようだった。
≪記録は、生きている。刻まれ、忘れられ、再び語られることで命を保つ≫
泉の映像が変わる。
かつて栄えた都市――今は遺跡と化した石造りの街並み。
空を滑る浮遊艇、知識の書が羽ばたくように空を舞う。
だが、その輝きは徐々に翳り、最後には黒い霧が全てを包み込んでいった。
≪だが語られぬ記録は、滅びと同義≫
そこに立ち尽くす“語る者”の姿。
その顔はやはり、フィンに酷似していた。
人々に何かを語ろうとしていた。だが、誰も耳を貸さなかった。
声が続く。
≪この世界は、繰り返している。記録を失い、過去を忘れ、同じ過ちを繰り返す≫
≪だから、必要なのだ。“語る者”が……いや、“語り、繋げる者”が≫
映像が急激に明滅し、泉の中心から光の柱が立ち上がった。
「っ……!」
眩しさに思わず目を細めたフィンに、その光は語りかけるように吸い寄せられる。
≪問う。汝は、ただ記録を守る者となるか? それとも、記録を紡ぎ、未来へ託す者となるか?≫
問いは、深く、鋭く、そして優しかった。
フィンは、短く息を吐いた。
「……答えは、もう決まってる」
胸の奥で確かに燃えているもの。
それは“怒り”でも“悲しみ”でもない。
“願い”だ。
「……俺は、前に進みたい。どれだけ失っても、記録が残ってるなら、語れる。伝えられる。……だから、俺は“語る者”じゃなく、“伝える者”になる」
その瞬間――
記録の泉の水面が、大きく跳ねた。
天井まで届くような光が走り、壁面の紋章すべてが同時に発光する。
まるで“記録の神殿”全体が、フィンの答えに応えたようだった。
セリアとリナも、ただ呆然とその光景を見つめていた。
「……フィン……今、なにが……」
セリアの問いかけに、フィンは振り返って微笑んだ。
「ううん、大丈夫。ようやく“許可”をもらえた気がするんだ」
彼が言葉を終えるより早く、泉の中心に――“何か”が浮かび上がった。
それは、金属製の環状装置。中心には、文字のようにも模様のようにも見える刻印があり、淡く光を放っていた。
「これは……?」
「“紋章環”……記録神殿に伝わる失われた装置よ。見たことある。書物でしかだけど」
リナが驚愕を隠さずに言う。
「何に使うの?」
「“次の門”を開く鍵。記録を守る者だけが持てるって伝えられてきたけど、まさか本当に存在するとは……」
フィンはその環を両手で抱えるように持ち上げた。
重みはあったが、不思議としっくりと手になじんだ。
そして、再び泉の水面に映像が浮かぶ。
今度は、山岳地帯――荒れ果てた遺跡、砂嵐の吹きすさぶ地表、崩れた尖塔。
その中に、まるで心臓部のように輝く光の“記録台座”があった。
「……ここに、行けと?」
誰にともなく呟いたフィンに、声が応じる。
≪そこに、“語り継がれなかった真実”がある≫
≪君の使命は、過去を知ることだけではない。“失われた意志”を、未来に繋ぐこと≫
≪……記録とは、語る者と、聞く者、双方の“信”によって初めて意味を成す≫
声が遠のく。
泉の光が、ゆっくりと沈静化し、まるで“幕が下りる”かのように映像が消えていく。
静寂が、神殿に戻った。
「……次の場所、決まったね」
フィンは、環を手にして立ち上がる。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
セリアがそっと手を差し伸べる。
「……行こう、フィン。どこまでも、あなたと一緒に」
リナも、少しばかり面倒くさそうに言いながらも、微笑を浮かべて続いた。
「私たち、最初から“そういう旅”をしてるんでしょう?」
三人の視線が重なり、そして一歩を踏み出す。
記録を抱え、語り、繋げ、そして――未来へと託すために。
いかがでしたでしょうか。
記録の泉の啓示は、単なる知識ではなく、“未来への選択”として描きました。
誰かの記録を受け継ぎ、それを伝えていくこと――それこそがフィンの旅の本質となります。
次回、舞台は再び動き出し、かつて語られなかった“遺された意志”との出会いへと向かいます。
新たな登場人物も予定していますので、お楽しみに!
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