106話:静寂の中庭と、セリアの歌
王都シェリオンでの生活が始まり、フィンたちはその整然とした美しさの裏にある“静けさ”に違和感を抱き始めます。
音も声も乏しい都の空気に、セリアが届けたものは――ただの「歌」ではなく、「心の風」でした。
今回は、セリアが王都の中で初めて“音”を響かせる回です。
無言の都に、果たして歌は届くのか。どうぞ見守ってください。
都シェリオンの朝は、あまりに静かだった。
鳥のさえずりも、風の音さえもない。代わりに聞こえるのは、魔道具の律動音と、鉄製の車輪が石畳を滑る低い軋み――それらが都市の心音であるかのように、ひたすら無機質なリズムを刻んでいた。
王宮の中庭もまた例外ではなかった。草木は整然と刈り揃えられ、噴水は一定のリズムで水を吐き出し続けている。だが、そこには生の躍動がない。まるで“管理された自然”だった。
「ねえ、フィン。……この庭、音がしないの」
ふいに、セリアがつぶやいた。彼女は中庭の片隅、丸い石のベンチに腰掛け、空を仰いでいた。風にそよぐ髪の先すら、静かに揺れているだけだった。
フィンは彼女の隣に座り、その視線の先を追うように空を見上げた。
「そうだな。……鳥の声も、虫の声も、子どもの笑い声すらない」
「この国の人たち、“歌”を忘れたのかもしれない」
セリアの言葉は、どこか寂しさを帯びていた。だが、それ以上に、彼女の声そのものが“歌”のように心に響いた。
「“歌”って、風と似てるんだよ。誰かに届くかわからないけど、それでも、思いを乗せる。だから……きっと、意味がある」
そう言って、彼女は小さく笑った。そして、両膝を揃えて座り直すと、両手を膝の上に置いて、そっと目を閉じる。
静寂の中。
ひとつ、祈りにも似た旋律が、セリアの口から紡がれ始めた。
──風が眠る 夜明け前
──誰かの夢を 包むように
──小さな光 空に届け
──いま、あなたに この声を
それは、古い民謡だった。かつて彼女がエルフの里で教わったもの。母の腕の中で聴いた、夜の子守唄でもあった。
音のない都に、その旋律が沁み渡っていく。
最初に顔を覗かせたのは、衛兵だった。遠巻きに歩哨していた青年が、ふと立ち止まり、耳を傾ける。次に、庭を清掃していたメイドが、ホウキを止めた。気づけば、あちこちにいた使用人たちが皆、動きを止めていた。
それでも、セリアは歌い続ける。
視線の先には誰もいない。けれど、彼女は祈るように、誰かに向けてその声を届けていた。
やがて、木陰から小さな影が顔を出す。
子どもだった。年の頃は八つか九つ。シェリオンの貴族の子か、それとも使用人の子だろうか。ひとりが現れると、またひとり、またひとりと、子どもたちが音に惹かれるように集まってきた。
「……これが、“風の歌”?」
幼い少女が小さくつぶやいた。
「うん」と別の男の子が頷く。「ぼく、こんなの初めて聴いた。変なのに……泣きそうになる」
セリアは彼らに気づいていた。だが、目は開かない。ただ歌を紡ぎ続けた。
──あなたに 届きますように
──遠い夜にも 響きますように
フィンは、その横顔を見つめていた。
彼女の唇からこぼれる旋律が、この冷たい都に、少しずつ“色”を取り戻していくようだった。まるで氷の王都が、ほんのひととき、春の息吹を思い出しているかのように。
子どもたちの中に混じって、若い女性が泣いていた。
「……私、小さい頃に、母からこんな歌を聞いた気がする」
それは、きっと記憶の奥にあった、忘れられた音だったのだろう。
セリアの歌が終わる頃には、広場の隅に小さな輪ができていた。子どもたちはそのまま、しゃがみこんで口ずさみを真似ていた。衛兵たちも、静かにその場を見守っていた。
静寂は、もう“ただの沈黙”ではなくなっていた。
セリアはそっと目を開けた。そして、空を仰ぐ。
「……この声が、あなたに届きますように」
その言葉は、空に向けられたものだったのか。あるいは、精霊か、それとも……かつて歌を捨てたこの都の人々に向けてだったのか。
「いい歌だったな」
横でそう呟いたフィンに、セリアは照れたように笑った。
「ちょっと、恥ずかしいけどね。でも、風が動いた気がしたの」
「……ああ、確かに」
王都の空気が、少しだけやわらかくなった気がした。
それは、魔道の力では動かせない、祈りの風だった。
王都シェリオンの中心――白銀に輝く石造りの王宮。その中庭は、まるで季節の音さえも締め出したかのような、凍てつくような静寂に包まれていた。
水音も鳥の囀りもない。枝の擦れる音すらなく、空を渡る風さえここでは息をひそめている。規則正しく剪定された花壇と芝生は、美しさよりも効率性を誇っているようで、まるで何者かの意志で“完璧”を強いられているかのようだった。
「……空が、冷たいね」
セリアは中庭の中心に立ち、ふと呟いた。陽光はあるのに、どこか金属のような鈍さを帯びていた。まるで、光が感情を失っているかのようだった。
近くを何人もの使用人が行き交っていたが、誰も彼女に声をかけようとしなかった。足音を立てずに動き、道具の音ひとつ立てずに花を整える姿は、まるで魔道具そのもののようだ。
「……あの人たち、誰も話さないんだね」
隣に立つフィンが、苦笑混じりに答えた。
「もしかしたら、言葉がもう必要ない社会なのかもな。魔道具で事足りるから」
だがセリアは、ゆっくりと首を横に振った。
「違うよ……必要がないんじゃなくて、忘れちゃったんだよ。“話すこと”も、“笑うこと”も、“歌うこと”も。感じることそのものを、どこかに置いてきちゃったみたい」
そう言って、彼女は花壇脇の石造りのベンチに腰を下ろし、そっと目を閉じる。微かに風が揺れると、彼女の唇が、やさしい旋律を紡ぎ出した。
「♪……風のふるさと 遥かに揺れて……」
それは囁きにも似た、小さな歌声だった。けれど、その旋律は空気の奥に染み込み、無機質だった中庭に静かに波紋を広げていった。
ふと、気配を感じて彼女が目を開けると、中庭の入り口に一人の子どもが立っていた。
七、八歳ほどのその子は、濃い灰色のマントを羽織っていた。王都の下層民や孤児に与えられる“保護監視用の識別服”である。街で拾われ、魔道技術の実験や教育観察の対象とされている子ども――それがこの都では“普通”だった。
子どもは大きな瞳を見開き、セリアの方をじっと見つめていた。けれど、その目に恐れはなかった。不思議そうに、なにかを思い出そうとするような、そんなまなざしだった。
セリアは歌を止めずに、その子へと微笑んだ。
やがて、子どもはおそるおそる近づき、声を絞り出すように言った。
「……それ、なにしてるの?」
「歌ってたの。うた、って知ってる?」
「……たぶん、知らない。でも、耳がくすぐったくて、へんな気持ちになった」
セリアは頷いて、胸にそっと手を当てた。
「歌はね、ただの音じゃないよ。ここ――心の中の風を、言葉にして出すもの。誰かに、想いが届いてほしいって願うもの」
子どもは黙って、風のような歌声を聞いていた。
そして、ほかの子どもたちも集まりはじめた。どこからともなく、ぽつりぽつりと姿を見せ、音に惹かれるようにベンチの周りに座っていく。
「もっと歌って」と誰かがつぶやき、「ねえ、それ、ぼくもできる?」と手を伸ばす子もいた。
セリアは笑いながら、頷いた。
「もちろん。一緒に、思い出そう。歌って、話して、笑うこと……感じるって、こんなに暖かいってことを」
そして、彼女はもう一度、空を見上げた。
「……この声が、あなたに届きますように」
その祈りのような歌声は、今度こそ王都シェリオンの空に、確かに届いていた。
中庭に差す陽射しは、まだ春のぬくもりを携えていたが、その光に心が温まることはなかった。王都シェリオンの中心にある王宮の庭は、まるで仮面のような都市全体を象徴しているかのように、整然と、そして無感情に整えられていた。
だがその中にあって、セリアの歌声だけが、違っていた。
「♪風は巡り、花を抱いて……」
小さな輪の中に、五、六人の子どもたちが集まっている。誰もが年端もいかぬ少年少女で、王宮の侍女や門番の子どもなのだろう。最初は遠巻きにしていた彼らも、今ではすっかりセリアの周囲に寄り添い、目を輝かせていた。
「セリアお姉ちゃん、もう一回! さっきの“ひかりのうた”!」
「わたし、“こころにふれた”ってのが好き!」
無邪気な声に、セリアはくすりと笑った。
「ふふ、それじゃあ、次は“星のうた”にしようか」
子どもたちが歓声を上げる。
その様子を、離れた場所から見つめる一人の女性がいた。王宮付きの女官、アリスティア。整った容姿に淡い金髪をまとめた彼女は、無表情な仮面のような顔立ちのまま、静かにセリアの姿を見つめていた。
「……“うた”など、もう都には必要ないとされたはずだが」
隣にいた老僕がそう口にすると、アリスティアはかすかに眉を動かした。
「……必要ない、ではなく、忘れられたのです」
その言葉に、老僕は驚いたように視線を向けた。だが、彼女はもう視線を外し、庭の一角に目を移していた。
「音楽、舞踏、詩、物語……都はそれらすべてを“魔道具の効率”の中で切り捨てました。感情は、制度の外に置かれた。だからこそ、彼女の歌は届くのです。“外から来た声”として」
その頃、セリアの膝にちょこんと座る子どもが、ぽつりとつぶやいた。
「……ねぇ。セリアおねえちゃんって、ほんとに王さまたちと一緒に来たの?」
「うん、王さま……っていうより、友だちのフィンと。フィンはね、とってもまじめで、時々かたくて、でも――すごくあったかい人だよ」
そう話すセリアの瞳は、どこか誇らしげだった。
「ふーん。じゃあ、そのフィンって人も、“うた”知ってるの?」
「ううん、知らなかった。でもね、覚えようとしてくれたの」
子どもたちが、へぇーっと声をそろえて感心する。小さな輪が、さらにもう一人、もう一人と増えていく。
そこへ、フィンがゆっくりと現れた。
「……なんだか、祭りでも始まりそうだな」
「うたのお祭りだよ」
セリアがそう返すと、フィンは少しだけ頬を緩めた。
「中庭が、こんなふうに笑い声でいっぱいになるなんて思わなかったよ。やっぱり君の歌は特別だな」
「ううん、特別なのは“うた”じゃなくて、“誰かに届くこと”だよ」
セリアは空を見上げながら、そっと言った。
「届くって、すごいこと。名前も知らない人にだって、心を運べるんだもん」
「それは、俺の剣にはできないことだな……」
ぽつりと漏らしたフィンの言葉に、セリアは微笑んだ。
「でも、フィンの剣は“守って”くれる。私の歌が届くまでの“時間”を稼いでくれる。どっちも、大事だよ」
その言葉に、フィンは一瞬だけ目を伏せた。
そう――自分は、歌うことも、語ることもできない。ただ戦うことしかできない。だが、その間にも、セリアの声が、子どもたちの心に確かに届いているのだ。
「……ありがとう、セリア」
「うん」
中庭の風が、もう一度吹いた。
花壇のあいだから、まるでそれまで隠れていた香りが解き放たれるように、甘い風が通り過ぎる。
その風の中で、セリアの歌が再び始まった。
「♪ 星は遠く 光は胸に……」
子どもたちが、その歌に合わせて手拍子をはじめる。
その光景を、いつのまにか女官たちも、門番たちも、遠巻きに見つめていた。無表情のまま、けれどどこか懐かしいものを思い出すような――そんな、わずかな“ゆらぎ”を宿した目で。
王都シェリオン。魔道具に囲まれ、仮面に包まれた都市に、ひとすじの“うた”が芽吹いた。
それはまだ、小さな波紋だったかもしれない。
だが、波紋は、やがて広がる。
“感情”というものが忘れられた都に、“祈り”という名の音が――確かに、根を下ろそうとしていた。
王都シェリオンの中心にそびえる王宮。その中庭は、まるで永遠の眠りについた神殿のように、完璧な静寂に包まれていた。
セリアが歌を口ずさんだあの翌日――。
フィンは、使節団の一員として王宮内の謁見間へと通される前、再び中庭を訪れていた。
昨日、セリアが歌っていたあの場所には、誰の姿もない。だが、芝の上には小さな足跡がいくつも残っており、それが風とともに交じり合って、やさしい記憶のように揺れていた。
「……おまえの声が、ほんの少しだけ、この都に届いたのかもしれないな」
フィンはひとり呟くと、懐から折りたたんだ手紙を取り出した。それは今朝方、王宮の使いから渡されたものだった。封には封蝋が施されており、表にはこう書かれていた。
――“導師”より。
フィンは眉をひそめながら、それをそっと開く。
《仮面舞踏会の夜、あなたが沈黙したことは、理解に足る行動でした。英雄とは、力の誇示ではなく、時に沈黙という選択を取るものなのだと。》
《ですが、英雄はまた、言葉によって世界を動かす者でもあります。今宵、再びあなたと対話の場を設けたい。》
手紙はそこで途切れていた。
「……誘ってくる、ってことか」
フィンは手紙を握りしめると、ふと視線を横へ向けた。
花壇の陰――そこに、セリアがいた。
「見てたのか」
「うん。さっき、こっそり来た」
「こっそり、って……」
フィンは苦笑したが、その笑みはすぐに真顔へと戻る。
「昨夜、おまえの歌で子どもたちが集まったって話、王宮中に広がってるらしい」
「えっ」
「良くも悪くもな。……“風の歌を持ち込んだ少女”として、ちょっとした噂になってる」
セリアはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「……怖い?」
「ん?」
「わたしが目立つことで、使節団に迷惑がかかったりしないかなって……それがちょっと怖いの」
フィンは肩をすくめると、軽く頭を振った。
「俺たちは、“変化を起こす者”としてここに来たんだろ? 波紋が広がるのを恐れてたら、何もできない」
セリアは小さく微笑んだ。
「……ありがとう。やっぱり、あなたがいてくれてよかった」
そのとき、芝生の向こうから、小さな影が走ってきた。
昨日、最初にセリアの歌を聴いた、あの黒髪の子どもだ。
今日はマントを着ておらず、代わりに淡い緑のチュニックを身に着けている。手には、小さな白い花が握られていた。
「……これ、きみに」
そう言って差し出された花を、セリアは両手でそっと受け取る。
「ありがとう。とってもきれい」
「それ……“風の歌のおねえちゃん”にあげたいって思ったんだ」
「“風の歌のおねえちゃん”?」
「昨日、母さまが言ってたんだ。『風の音が聞こえた気がした』って。だから……きっと、ほんとに届いてたんだよ」
セリアの瞳に、淡い光が宿る。
フィンはその様子を静かに見つめながら、口の中で小さくつぶやいた。
「……届くんだな、ちゃんと」
やがて、遠くの鐘が二度、低く鳴った。
それは、謁見の時が近いことを知らせる合図だった。
「行こう、セリア。次は、仮面の導師との再戦だ」
「うん」
セリアは胸に花を抱きながら、歩き出した。
その足取りは、昨日よりも少しだけ、強くなっていた。
ご覧いただきありがとうございました!
セリアの歌と、ひとりの子どもとの出会い。それは、仮面に覆われた都の空気に小さな風穴をあける始まりとなりました。
今回の舞台は激しい戦いや政治の駆け引きではなく、“静寂の中の感情”をテーマに描いています。