100話:守る者、剣を掲げて
ついに迎えた第100話。ここまで読み続けてくださった皆さま、本当にありがとうございます。
この物語は、剣も持たず、魔法も知らず、ただ“語ること”しかできなかった少年フィンが、“言葉と意志”で世界と向き合い、変えていく過程を描いてきました。
そしてこの節目の物語では、彼が《王》としてではなく、《守る者》としての決意を剣に込める姿を描いています。
剣を振るう者ではなく、剣を掲げる者として――。
“風”の力と共に、次なる世界へ想いを馳せる姿を、どうか最後まで見届けてください。
北の最果て、“深き森”――その名の通り、陽の光すら届かぬ常闇の領域。
冷えた霧が地表を這い、風の音さえも迷い込んで消える場所。
だが、今――その沈黙を破るように、風が吠えていた。
「……森が、怯えてる」
フィン・グリムリーフは、静かにその場に膝をついた。
地面に手を添えると、冷たい苔の下に脈打つ“魔の気配”が、まるで怒りと悲しみを混ぜ合わせたように脈打っていた。
風が舞う。
それは、彼の背後に浮かぶ“風の龍”の意志だった。
かつて契約を交わした古の精霊、その意志は今、フィンの心と完全に同調していた。
――この森には、世界を侵す“獣化の種”が眠っている。
それはただの魔獣ではない。
かつて魔神が敗走の際に残した“呪い”とも呼ぶべきもの。
接触した生物は理性を失い、憎しみと破壊の衝動に支配される。
そしてその中には、村を、森を、家族を守っていた“人間”さえ含まれていた。
「……これはもう、祈りじゃ届かない」
フィンは腰の剣に手をかけた。
――精霊剣。
銀と翡翠の光を宿すその刃は、風と炎、そして“守りの記憶”を抱いた、世界にただ一つの剣。
火炎龍の幼竜が命を賭して彼に託した“命の火”。
風の龍が彼の内に流し込んだ“意思を繋ぐ風”。
それは、力ではなく“決意”の象徴だった。
足元の霧が揺れる。
森の奥から、何かが目覚める音がした。
「……来るな」
フィンが立ち上がった瞬間、森の木々が左右に割れた。
現れたのは、四つ脚の巨体――全身に棘のような樹皮を纏った異形の“獣化体”。
人の顔を持ち、だがその眼には何も映っていない。
怒りと悲鳴の混ざった咆哮が、森を揺るがす。
セリアが、数歩後方で弓を構えた。
だがフィンは手をあげて制する。
「俺が行く。これは……俺の戦いだ」
そう告げるその顔は、かつての“旅立ちの少年”ではなかった。
多くを背負い、命を見つめ、迷いと希望の狭間で何度も剣を掲げてきた――
“守る者”としての覚悟を宿した青年の顔だった。
「カゼナギ……風よ、俺に力を」
その瞬間、空気が弾けた。
フィンの足元を旋回するように風が巻き起こり、森全体を包み込む。
木の葉が震え、獣が一瞬、足を止める。
「悲しみを力に変えるな。
怒りを進む力にするな。
――守りたいもののために、“願い”を、剣に刻め」
風の龍の声が、彼の胸奥に響いた。
まるで子守唄のように、静かで、確かな声だった。
フィンの足が、地を蹴る。
《風陣・翔牙――》
カゼナギの刃が、一閃。
獣の咆哮が止まり、代わりに風が空を貫いた。
刃ではなく、風が獣を包み、呪いを洗い流すように、渦が森全体を浄化していく。
まるで、精霊そのものが、彼の剣を通して息づいているかのようだった。
セリアが、呆然とそれを見つめていた。
いつもなら言葉を返す彼女も、いまはただその背に、心を奪われていた。
(これが……“剣の継ぎ手”)
だが、フィンの目にあるのは勝利でも誇りでもなかった。
彼は、倒した獣の傍に静かに近寄り、その額に手を当てた。
「すまない。……もっと早く、来られていれば」
その声は、祈りだった。
剣を振るう者ではなく、“守る者”の声だった。
風が、再び吹いた。
優しく、慰めるように、獣の身体を包む。
そしてその風は、フィンの背を押し、彼の影を遠くへ運ぶ。
彼がまだ、見ぬ大陸の先に進むべき者であることを――その風が、知っていた。
森が、うねっていた。
大地を這う根が軋み、枝葉が悲鳴を上げるように風に舞う。北の最果てに広がる“深き森”――その奥で、何かが蠢いていた。
「……やっぱり、異変は確かに起きてる」
フィンは小高い丘の上から森を見渡し、低く呟いた。
その額には、風の龍から授かった印が淡く浮かび、彼の鼓動に呼応して脈打っている。普段は隠れているその加護が、今はまるで警鐘のように主張していた。
「風が……ざわめいてる。森全体が、息苦しそうだ」
隣で立ち尽くすセリアが、不安げに彼を見上げた。その瞳には、彼を信じる気持ちと、どうにもならない焦りが入り混じっていた。
「ノスタルドラグが……何か言ってるの?」
「“魔の種”が、根を張ろうとしてる……そんな感触だ」
風の精霊竜は、世界の声を風に乗せて伝える存在。そして、その契約者であるフィンだけが、その囁きを受け取ることができた。
「このままだと、森も村も……呑まれる」
「じゃあ……止めるしかないね」
セリアは不安を押し殺し、フィンの目を真っすぐ見つめた。
「私、信じてる。あなたが、繋ぎ直してくれるって」
「……ありがとう、セリア」
彼はそっと頷き、二人は馬を降りて森の入口へと向かう。
森の中は異様な静寂に満ちていた。鳥の声も、虫の音もなく、ただ風のざわめきだけが響いていた――だがその音も、いつもの優しさを欠き、不穏に揺れていた。
「おかしい……この森、こんなに黙り込む場所じゃなかった」
「まるで……何かを“避けてる”みたい。森そのものが“目を逸らしてる”」
セリアの言葉に、フィンは息を呑んだ。
そのとき、風がぴたりと止まる。
木々が揺れることなく静止し、空気すら凍りつく。
――ザッ。
黒い霧を纏った異形の“種”が、森の奥から姿を現した。
それは植物のようでありながら、腐敗と呪詛の気配を纏い、触手のような根を這わせながら迫ってくる。
「来るよ、セリア!」
「うん……でも、こいつ……普通じゃない!」
フィンは腰の剣を引き抜いた。
それは、風の加護を受けた剣。ノスタルドラグの契約によって名を与えられた、精霊の風が宿る刃――
「……応えてくれ、《カゼナギ》」
剣が風を裂き、彼の周囲に渦が巻く。風の龍の力が、彼の身体を包み、風の刃となって形を成す。
「風よ、俺の意志と共に――道を切り拓け!」
“魔の種”の触手が襲いかかる。フィンはその一つを跳ね除け、刃を振るった。
ザン――と、一閃。
風が咆哮し、根が裂ける。腐れた液体が地面に垂れ、周囲の草が焼けるように崩れていく。
「セリア、下がって!」
「でも……!」
「これは俺の役目だ。ノスタルドラグの力は、俺にしか扱えない。君は、俺を見ていてくれ」
セリアは唇を噛みしめたが、やがて頷く。
「わかった……でも、絶対に無茶はしないで」
「大丈夫。……俺は、風と一緒にいる」
フィンは一歩、前へと踏み出す。
風が吠え、剣が応える。彼はただ斬るのではなく、“風の道”を描いていた。
それは破壊ではなく、命を蝕む呪いを浄化し、森の秩序を修復するための刃。
“魔の種”は悲鳴を上げ、黒い霧をまき散らして暴れる。
「この森は、生きてるんだ。だから……お前に、踏み荒らさせたりしない!」
最後の一撃――風をまとった剣が閃き、瘴気を吹き飛ばした。
空が晴れ、森がゆっくりと息を取り戻していく。
セリアが駆け寄り、彼の肩に手を添えた。
「……終わったの?」
「ああ。……もう、大丈夫だ」
フィンは剣を下ろし、空を仰ぐ。
優しい風が頬を撫でた。
その風こそが、彼への答えだった。
森の奥へと進むにつれて、空気はますます重くなっていった。
鬱蒼と茂る枝葉が陽光を遮り、まるで昼だというのに夜の帳が下りたかのような暗さが支配している。風は止み、ただ濃密な気配だけがまとわりつく。フィンの額に浮かぶ《風の紋章》が再び脈打ち始めた。
「ここだ……“魔の種”の核がある場所だ」
フィンが立ち止まり、地面に膝をついて耳を澄ませた。微かに、だが確かに――地の底から軋むような呻きが聞こえる。
「地鳴り……?」
セリアも膝をついて聞き取ろうとするが、その瞬間、足元の地面がぐらりと揺れた。
「ッ――来る!」
フィンが叫ぶと同時に、大地が裂けた。亀裂から噴き出す黒い霧。それはただの瘴気ではなかった。腐食する力を持ち、触れた木の幹はたちまち灰色に変色して崩れ落ちる。
「離れて、セリア!」
フィンは彼女の手を引き、霧の届かぬ岩場へと身を滑らせた。背後で、地面が大きく隆起し、異形の存在が現れる。
それは、根と茎と花弁を模した――だが、明らかに植物ではない“何か”だった。
中央に空いた花弁のような裂け目の奥には、巨大な“目”があった。黒く濁り、血走ったその眼球が、ギョロリとフィンたちを見据えている。
「っ……これはもう、“種”なんてものじゃない……!」
セリアが震える声でつぶやく。彼女の顔に浮かんだのは、恐怖というよりも、自然の理を逸脱した“何か”への本能的な拒絶だった。
「これは……“魔の核”だ」
フィンは低く呟いた。
「“魔の種”はこれを中心に、森の生命を乗っ取り、拡大していたんだ」
そのとき、風が戻った。
まるでノスタルドラグが、それに呼応するかのように、森の上空を旋回する。風がざわめき、フィンの周囲に渦を巻く。
「応えてくれ……カゼナギ!」
フィンの声に応じるように、剣が風を呼び起こす。葉が舞い、枝がしなる。ノスタルドラグの加護が、フィンの身体を風の媒介として貫いた。
「風よ、浄化の刃となれ!」
フィンが踏み込み、剣を突き出す。だが、“魔の核”は動いた。
根のような触手が地を這い、フィンの足元へと伸びる。その動きは異様なほどに速く、地面を割りながら彼へと迫った。
「くっ……!」
フィンは瞬時に風を纏い、空中に飛び上がる。地面が爆ぜ、黒い粘液が辺りに飛び散った。
空中で体勢を立て直すフィンの瞳に、“核”の目が再び映る。その目は動かない。ただ、すべてを見透かすように、静かにフィンを見上げている。
――違う。これは攻撃ではない。
フィンは気づく。これは“観察”だ。あの目は、フィンたちの行動を“測っている”。
「……自我があるのか?」
彼の疑問に答えるように、“核”の花弁がわずかに開き、禍々しい花粉のような霧を吐き出した。
風がそれを巻き込み、空中に拡散する。だが、次の瞬間――
「セリア、息を止めろッ!」
フィンが叫ぶと同時に、自らの風でセリアを包み込んだ。浄化の風だ。風は霧をはじき、セリアの周囲を守る。
「ありがとう……でも、あなたが!」
「平気だ。ノスタルドラグが……守ってくれてる!」
剣が共鳴し、風の結界がフィンの周囲を包む。彼の剣は、もはや“武器”ではなかった。
それは――“風の意志”そのもの。
フィンは地に降り、再び前に出る。
「俺が切り拓く。風の道を!」
剣が閃き、風が炸裂する。“核”の触手が何本も伸びてくるが、フィンの風がそれを裂いてゆく。
セリアは遠巻きにそれを見つめながら、胸に手を当てる。
(……彼は今、風と共にある)
フィンが“ただの少年”だった頃の姿を、セリアは覚えている。勇気はあったが、力はなかった。だが今――彼は違う。精霊と契約し、剣に意志を宿し、大地の理を浄化しようとしている。
「行って……フィン」
彼女の囁きが風に乗り、彼の背を押した。
フィンは深く息を吸い、最後の一撃へと力を込めた。
「ノスタルドラグ……俺に力を!」
剣が白く輝く。風が渦を巻き、中心へと収束する。
そして――
「風よ、すべてを清めろ……《烈破・風葬陣》!」
その瞬間、森全体を覆うほどの風が爆発した。
触手も、霧も、黒い核そのものも――風に呑まれ、消えていった。
風が止むと、そこには静寂だけが残っていた。
フィンは剣を杖にして膝をつく。だが、その顔は安堵に満ちていた。
「……終わった」
セリアが駆け寄り、彼を抱きしめる。
「本当に、終わったんだね……」
フィンは小さく笑った。
「風が、そう言ってるよ」
森の葉が揺れる。その音は、もう苦しみではなく、安らぎだった。
風が止んでいた。
あの咆哮と共に森の大気を荒らしていた“魔の種”は、いまや一匹残らず倒され、その腐食の瘴気も、精霊たちの風により静かに祓われていた。空は澄み渡り、北の果てに立つフィンの影を、朝日が長く引き伸ばしていた。
深き森の先端。海へ続く崖の縁に、フィンはひとり佇んでいた。
額に浮かぶ《風の紋章》が、朝の陽を受けて淡く光っている。それは風の龍との契約の証であり、今まさに精霊たちが彼の剣に力を宿している証でもあった。
「……よくやったな、フィン」
背後から聞こえたのは、竜の気配を帯びた風の声だった。声の主は姿を見せなかったが、フィンにはわかる。今なお彼の背に寄り添う風の気配――ノスタルドラグだ。
フィンは静かに頷き、背負っていた剣を地に突き立てた。
青白く光るその刃は、風と契約した“風精の剣”であり、王となった彼が《守る者》として受け継いだ象徴でもある。
その剣が、ゆっくりと呼吸するように淡く脈打ち始める。
「……俺は、まだ“王”なんかじゃないよ」
ぽつりとフィンは呟いた。
その目は、はるか海の彼方を見つめている。地図に描かれていない“彼方の大陸”――誰も見たことのない、新たな世界。
「でも……守るって決めた。だから、剣を取った」
この北の果てに潜んでいた“獣化の源”――魔の種は、ただの災厄ではなかった。古の戦争の名残か、あるいは世界を蝕む何かの兆しか。だがそれでも、目の前の命を守るために、フィンは剣を振るった。
命を奪わぬ剣でありながら、命を守るために奮い立つ力。
その象徴が、今この《カゼナギ》に宿っている。
「……終わったの?」
背後から、小さな声が届く。
振り返れば、丘の斜面を登ってきたのはセリアだった。長旅に疲れたのか、髪は風に乱れ、ほほも赤く染まっている。けれど、その眼差しはまっすぐで、真っ先にフィンの姿を探し当てていた。
「うん。魔の種はすべて祓った。……しばらくは、大丈夫だと思う」
そう答えると、セリアはそっと彼の隣に腰を下ろした。
二人の間に風が吹く。ノスタルドラグの息吹のような、優しくも強い風。
「……ここ、すごく高いね。海が……すっごく広くて、きれい」
「そうだな」
「でも、あの向こうにも……誰かが生きてるのかな。泣いたり、笑ったり、戦ったり……フィンみたいに、誰かを守ろうとしてる人がいるのかな」
セリアの呟きは、風に乗って空に溶けていく。
フィンはその声を聞きながら、ふと空を仰いだ。
――世界は、まだまだ広い。
風の契約者として、《守る者》として、まだ彼の旅は終わらない。
王都に戻れば、また政の決断が待っている。
新たな災厄の兆しもあれば、国内の復興に携わる仲間たちもいる。
けれど、いまこの瞬間だけは――ただ風と共に、空と海と世界の果てに思いを馳せていたかった。
「セリア」
「うん?」
「……もう少しだけ、こうしていてもいいか?」
「もちろん!」
そう答えたセリアは、無邪気な笑顔を浮かべて風を両手で受け止めた。
その手のひらに、どこかで咲いた花の種がひとつ、ふわりと乗っていた。
それはまるで――世界が彼らに託した“未来の兆し”のように。
風は今日も、フィンたちを見守っていた。
そして、彼の剣が示す方向に、希望という名の光が差し始めていた。
物語は、次なる大地へ――。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
第100話『守る者、剣を掲げて』、いかがでしたでしょうか?
風の契約を結んだ少年が“王”ではなく“守る者”を選ぶこの節目は、まさに物語の「前半の終着点」であり、同時に「新たな旅の始まり」です。
ここまで続けられたのも、読者の皆さんの応援や感想、リアクション、ブックマーク、レビューのおかげです。
この先、フィンの旅は“世界の果て”へと続いていきます。
人も知らぬ大地。新たな文明。眠る脅威と、希望の種。
次巻からは、いよいよ“異世界の本質”に触れていく物語となります。
もしこの物語が「少しでも心に残った」と感じていただけたら――
感想を一言でも!
ブックマークや評価ボタンをポチッと!
SNSやレビューで広めていただけたら、本当に励みになります!
それでは、また第101話でお会いしましょう!