第1話:靴を履いたホビット(挿絵あり)
追放されたホビットが、世界を旅する物語が始まります。
平穏を愛する村の掟に背き、外の世界へと歩き出す少年フィン。
これは、彼が“伝説”と呼ばれるまでの最初の一歩です。
主人公の挿絵です。
ホビットの里です。
ホビットの村〈ミスリルの丘〉では、何百年も変わらぬ暮らしが守られていた。
日が昇れば畑を耕し、日が沈めば家に帰る。狭い谷と小さな丘に囲まれたその場所で、人々は変化を「災い」として恐れていた。
その村で、フィン・グリムリーフは異端だった。
彼は他のホビットよりも頭ひとつ背が高く、足の毛がやや薄かった。
そして、何より致命的だったのは――**「夢を語る」**ということだった。
「いつか、世界の果てまで行ってみたい」
「この村の外には、空を飛ぶ船や、火を吹く山があるらしいよ」
「魔法が生きている街が、南の大陸にあるって、古地図に書いてあった!」
子どもたちはその話に目を輝かせ、大人たちは眉をひそめた。
「ホビットは、平穏であるべきだ」
「旅など、恐ろしいことを吹き込むな」
「掟に背く者は、この村に必要ない」
そんな声が、日に日に大きくなっていった。
ある朝、フィンが靴を履いて畑に現れたとき――それは決定打となった。
ホビットは裸足で土を踏みしめ、大地と共に生きるもの。靴など、「他種族の真似」としか映らなかった。
「おまえの居場所は、もうここにはない」
年長のホビットたちは冷たく言い放った。
フィンは、何も言い返さなかった。
ただ、いつものように微笑んだ。
口元に浮かべたその笑顔が、皮肉に見えたのか、村人たちはさらに眉をひそめた。
「見ろ、また笑ってやがる」
「まったく、恥を知らんのか……」
誰かがそう呟いた。
けれど、フィンの耳には届いていなかった。
いや、聞こえていても、届いていなかったのだ。
――笑うしかなかった。
夢を語るたびに冷たい視線を向けられ、靴を履いたくらいで追い出される。
この村で暮らすことに、彼はとっくに限界を感じていた。
だからこそ、宣告はむしろ、救いだった。
「……風が変わったな」
ぽつりと呟いたその声に、誰も返事をしなかった。
谷の向こうから吹き込む風が、どこか遠くの匂いを運んできていた。
森の奥の湿った香り、見たことのない草花の香り。
それは、まだ誰も踏みしめたことのない世界の気配だった。
その夜、フィンは丘の上に立ち、星を見上げた。
家には戻らなかった。焚き火を囲むこともなく、草の上に寝転んだ。
空には満天の星が瞬いている。
星は沈黙している。でも、彼には囁いているように思えた。
「来い」と、「見においで」と。
彼は薄く笑って、拳を握った。
「僕は――行くよ。ひとりでも」
そして、目を閉じた。
夜の風が、旅の匂いを運んでいた。
朝になれば、彼は村を去る。
二度と振り返らないつもりだった。
けれど心のどこかで、誰か一人でも――自分の言葉を覚えていてくれたら、と願っていた。
村の中央、石庭と呼ばれる広場には、年長者たちが列をなしていた。
空は灰色の雲に覆われ、風もなく、息苦しいほどの静けさが満ちていた。
その中心に立つのは、長老ベルム。
ミスリルの丘で最も古く、最も掟に厳しい男である。
フィン・グリムリーフは、その前に一人で立っていた。
背筋を伸ばし、磨かれた革の靴を履いたまま、凛とした姿で。
「掟に背き、村の平穏を乱し、若者の心に外の欲を植え付けた罪により――
フィン・グリムリーフを、この村より追放する」
長老の声はよく通り、静まり返った石庭に響いた。
ざわ……と、周囲のホビットたちが低くざわめく。
母親の背に隠れる子ども、唇を結ぶ年寄り、目を伏せる若者。
フィンは、そのすべてをまっすぐに見返していた。
「言いたいことがあれば申せ」と、長老が言う。
フィンは一度だけ息を吸い、静かに言葉を放った。
「僕は、外の世界が見たかっただけです」
誰も動かなかった。風すら止まっているように感じた。
「知らないことを知りたくて、遠くを見てみたくて、地図にない場所へ行ってみたかった。
それだけが罪なら……僕は、これからも罪を重ねます」
沈黙のなか、ひとりの子どもが目を潤ませていた。
かつて、フィンの語った“空飛ぶ船”に目を輝かせていた少年だ。
「フィンは、悪くないもん……!」
その声に、大人たちは慌てて子を抱きしめた。
長老は顔をしかめ、しかし何も言わなかった。
フィンは微笑んだ。
少年に向けた、たった一度の優しい笑顔だった。
「ありがとう。でも、もう僕はここにいられないんだ」
その言葉は、少年だけに届いたように思えた。
ベルムは一歩前に出て、厳かに告げた。
「この場をもって、追放の儀は完了した。
日没までに村を離れよ。荷は許すが、護衛も見送りも不要。
おまえは、今このときをもって、ミスリルの丘の民ではない」
淡々とした声だったが、誰の胸にも重く響いた。
フィンは頭を下げなかった。ただ、その場から一歩だけ後ろへ下がる。
「さようなら。皆が、この丘で安らかに暮らせますように」
そう言って、くるりと背を向ける。
もう誰も、彼を呼び止めなかった。
村を囲む柵を越えるとき、フィンは一度だけ立ち止まった。
誰かが呼び止めてくれるのではないか――
そんな期待が、自分の中にわずかでも残っていたことに気づいて、苦笑した。
誰もいない。
門の向こうは、ただ冷たい風が吹くだけだ。
肩にかけた布袋が、風に揺れてきしむ。
中には、火打ち石と乾燥肉、数枚の古い地図。
それから、亡き父がくれた一冊の冒険譚が入っていた。
「外の世界には、君がまだ知らないことがいっぱいあるんだ」
幼い頃、父がそう言って聞かせてくれた。
その声はもう思い出せないけれど、言葉だけは胸に残っている。
空を仰げば、雲の切れ間から光が差し込んでいた。
フィンは目を細め、ひとつ息を吐いた。
「父さん……僕、行くよ」
そして、誰もいない道を歩き出す。
その足取りは、誰よりもしっかりと地を踏みしめていた。
夕暮れが村を包むころ、フィンは静かに自分の家へと戻った。
追放の儀を終えた彼に、誰も声をかけてこなかった。
いや、誰も目を合わせようとすらしなかった。
家の扉を開けると、土の香りと干し草の匂いが鼻をくすぐった。
使い慣れた机、削れた椅子、壁にかけられた地図――
すべてが小さな日常の証であり、もう戻ることのない風景だった。
フィンは棚から荷袋を取り出し、必要最低限のものを詰め込んでいく。
革の水筒、火打ち石、乾燥肉、ロープ、針金。
そして最後に、父の形見である一冊の冒険譚を袋の一番奥に滑り込ませた。
「これで、足りるかな……」
ぽつりとつぶやき、部屋の隅に目をやる。
そこには、少年時代に拾った小さなコンパスが転がっていた。
針は少し狂っているが、なぜか捨てる気にはなれなかった。
荷造りを終えたフィンは、囲炉裏の火を見つめながら腰を下ろした。
家を出るその瞬間まで、何かが変わるのではないかという気持ちがあった。
誰かが来て、「やっぱり戻ってこい」と言ってくれるのではないか――
そんな淡い幻想は、時の流れと共に静かに消えていった。
夜が更け、星々が空を埋め尽くすころ、フィンは最後の食事をとった。
塩漬けの豆と固いパン。それでも不思議と、味は悪くなかった。
彼は食器を洗い、水を飲み、最後に荷袋の紐を結んだ。
そして扉の前で立ち止まり、家の中をぐるりと見渡す。
「ありがとう」
誰に向けた言葉でもない。ただ、口をついて出た。
家の戸をそっと閉める音が、あたりに静かに響いた。
それは一つの時代の終わりの音でもあった。
外は冷え込んでいた。
けれど、その寒さがむしろ心を引き締めてくれる気がした。
フィンは小さく息を吐き、星の瞬く空を見上げる。
夜空は晴れ渡り、見渡す限りの星が瞬いていた。
あの光のひとつひとつが、まだ見ぬ世界に繋がっている気がした。
彼はそっと、家の扉に背を向け、そして歩き出した。
草を踏みしめる音が、夜の静けさに吸い込まれていく。
村を離れる道は、思っていたよりも暗くて、長かった。
知っているはずの小道が、まるで別の世界のように思えた。
丘の上まで登ったとき、フィンはもう一度だけ振り返った。
小さな村の灯りが、点のように瞬いている。
あの光が、誰かの安らぎでありますように。
そして、自分の旅の終わりが、どこかの誰かの始まりでありますように。
「……またな、誰か」
ぽつりとつぶやき、彼は再び前を向いた。
足元の土は冷たく、風はまだ肌に刺さるようだった。
それでも、胸の奥に灯る小さな火は、消えていなかった。
フィン・グリムリーフ。
ホビットの異端者にして、旅人となる者。
彼の物語は、ついに夜を越えて動き出す。
空がわずかに白み始めたころ、フィン・グリムリーフは村の丘の上にいた。
昨日までと同じ場所、同じ道、同じ空――
けれど、今日という日はすべてが少し違って見えた。
背には荷袋、腰には小さなナイフ。
肩にかけた地図筒の中には、古ぼけた手書きの地図と、父が遺した旅の記録が入っている。
心許ない装備だったが、それでも彼には十分だった。
むしろ、それ以上の重さは抱えたくなかった。
彼は小道の脇にある一本の老木に手を当てた。
幹はひび割れ、表皮は苔に覆われている。
子どものころ、この木に登って村を見渡しては、遠くの山々に思いを馳せたものだった。
「また、しばらく来られないな」
誰に語るでもなく、ぽつりと呟く。
朝の空気はまだ冷たく、吐く息が白く浮かぶ。
背後にある村は、まだ眠っていた。
家々の窓に灯りはなく、鶏の声も牛の鳴き声も聞こえない。
それがかえって、この場所の静けさを際立たせていた。
だが、フィンの中にはざわめきがあった。
期待、不安、寂しさ、そして喜び。
さまざまな感情が入り混じり、胸の奥で言葉にならぬ渦を巻いていた。
「本当に、行くんだな」
そう口にした瞬間、ようやく実感がわいた。
もう戻れないのだ。
自分は、この村の住人ではなくなった。
その現実が、思ったよりも静かに、自分の中に溶け込んでいた。
彼は最後に、村を振り返った。
低い石塀、小さな畑、煙の出ない煙突。
見慣れた風景が、今はもう別の世界のように遠く感じられた。
「さようなら、ミスリルの丘」
言葉にすると、思っていたよりも穏やかな気持ちだった。
悲しさもある。
けれど、それ以上に、歩き出したいという衝動が勝っていた。
フィンは足を一歩、前に出した。
土の感触。草の湿り気。
ひとつひとつが新鮮で、心に沁みた。
夜の間に降った露が靴の先を濡らし、冷たさが皮を通じて足に伝わってくる。
それでも彼は止まらなかった。
道はなだらかな下り坂となり、やがて林の入り口へと続いている。
木々の間から射し込む朝の光が、まるで彼を歓迎するかのようにゆっくりと差し込んできた。
鳥が鳴いた。
一羽、また一羽と、森の中に朝が訪れる。
生命の気配が満ちていく。
それは、村とは違う、むき出しの自然の息吹だった。
そしてその中に、彼は足を踏み入れた。
木の葉が揺れ、小枝が折れる音が耳に心地よい。
フィンは歩きながら、胸の内で自分に言い聞かせた。
「ここからが、本当の旅の始まりだ」
そうだ、自分はもう追放された村の若者ではない。
これからは、ただの旅人でもない。
きっと、いつか――
自分なりの意味で、この世界に名を刻む存在になるのだ。
荷袋の中で、父の冒険譚がわずかに動いた気がした。
まるで「行け」と背を押してくれるように。
フィンは小さく頷いた。
足取りは軽く、視線はまっすぐに前を向いていた。
この道の先に何があるのかは、まだ誰も知らない。
だが、だからこそ――知りたいと思った。
そうして、フィン・グリムリーフは最初の一歩を刻んだ。
旅人として。
そして、物語の主役として。
森の入り口に差しかかったとき、フィンは足を止めた。
そこから先は、村の誰もが「境界」と呼んでいた場所だった。
木々は密に生い茂り、薄暗い空間がぽっかりと口を開けている。
草の香り、湿った土の匂い、そしてどこか獣のような気配。
自然そのものが息をしている。そんな印象だった。
フィンは一歩、森の中に足を踏み入れた。
その瞬間――足元で「カラン」と何かが転がった。
「ん?」
かがんで拾い上げると、それは金属製のペンダントだった。
楕円形のプレートに、見慣れぬ紋章が刻まれている。
星のような形と、文字とも模様ともつかない曲線。
(誰かの落とし物……? いや、村では見たことがない)
首をかしげながら、フィンはそれをポケットにしまった。
まだ何者でもない彼にとって、それは単なる偶然の拾い物だった。
だが後に――このペンダントが、彼の運命を大きく変えることになる。
彼は再び足を踏み出す。
森の奥へ、誰も知らない冒険のはじまりへ。
最後までお読みいただきありがとうございます!
第1話では、主人公フィンの追放から旅立ちまでを描きました。
小さな一歩が、やがて大きな物語に繋がっていきます。
次回、第2話では早くも世界との“接触”が始まります。
拾ったペンダントの正体と、出会いの予感も――。
お楽しみに!
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