少し休んでいかれませんか?
毎日、この地下通路を歩きながら僕は思う。
――ちょっと遠いよなぁ
僕が勤める会社が新しい事務所を作り、そちらに異動することになった。前の事務所より電車の駅でいえば、二駅近くなったのだけれど、最寄り駅から事務所までが遠くなった。
とはいえ地下通路で、ほぼ近くまで行けるので、暑い日も空調が効いていて涼しいし、雨の日も傘を使うのは、ほんの僅かな距離だ。
初めはこの距離も運動だ、と思っていたのだけれど、段々徒歩二十分の距離が恨めしくなる。
それに今日は仕事に行きたくなかった。
僕が勤めているのは、福祉サービスの会社だ。昨日、面談した利用者がいるのだけれど、僕が言ったことがどうやらメンタルを刺激してしまったらしく、クレームが入ったのだった。
今日、僕の上司と共に、再度、その利用者と面談をすることになっていた。
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僕は昔からあまり目立たないタイプだった。でも、人望はあったと思う。だから、友達からいろんな相談をされた。
「若木に話聞いてもらってよかったよ」
と言われると嬉しかった。
そして、いつからか人の力になれる仕事がしたいと思うようになった。具体的にどんな仕事があるのか調べたのは、大学受験の時だった。
福祉系の大学で学び、支援員になることにした。病気や障がいのある人を支える仕事だ。大学生にしては珍しく、僕は真面目に勉強し、卒業後は今の会社に就職した。そして、支援員として働き始めた。
今年で四年目になる。去年、後輩ができたけれど、僕もまだまだ新人だ。だから、昨日のようなミスをする。でも、そんな時に限って三年という経験が、劣等感として僕に襲いかかる。
救いなのは、上司が大らかということだ。
今日の面談も同席してくれる、四元さんが細やかにフォローしてくれるだろう。それは心強い。
でも、それに甘えてばかりいられないよな、とも思う。
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いつも通りに飲食店が並ぶ前を通り、パン屋の角を曲がる。そのうち左右に自治体が設置した掲示板だけが並ぶ通路になる。
途中に何箇所か地上に出る階段がある。
僕は歩みを進めた。そのうちに、何となく違和感を覚えた。
――あれ? ここに地上に出る階段なかったっけ?
いつもあるはずの階段が、消えていることに気づいた。そして、辺りを見回す。通路の壁の左右に設置してあるはずの掲示板も、いつしか消えていた。
一瞬、異次元に来てしまったかのような心細さが胸に沸く。掲示板が取り付けられている、くすんだ白い壁が木目のある落ち着いた、色に変化しているのが目に入った。
その色合いを見た途端、心細さは消え去った。そして気持ちが緩むのを感じた。いい意味で『どうにでもなる』と思えたのだ。
迷うことなく僕は通路を歩き始めた。いつも使っている階段も消えていた。どうしたもんかな……と思っていると五メートルほど先にランプの灯が灯っているのが見えた。
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その灯に吸い寄せられるように近づいた。
ランプの横には小窓がある。僕の背丈より少し高い位置にあるそれを、背伸びして覗く。
どうやら店のようだった。カフェ? バー?
店内は控えめな灯に包まれていて、カウンターと深緑色の布張りのソファーの席があった。何人かの客の姿も見える。みんな眠っているかのような静けさを醸し出している。
その一員になりたくて、僕は店内に続く入り口に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた男性の声が僕を迎えた。バーに行ったことはないけれど、ドラマで見るバーテンダーの格好をした背の高い男性が、こちらを見ている。
緊張のあまり僕はその場に立ち尽くした。
「少し休んでいかれませんか?」
男性が目を細め、優しい口調で続けて言う。僕は黙って頷いた。
「では、こちらへ」
と案内された席は一人がけのソファー席だった。腰を下ろすと、適度な弾力と柔らかさが僕の体を包んだ。こんなに座り心地のいいソファーは初めてだと思った。
目の前には丸いテーブルがある。メニューのようなものは見当たらない。でも、周りにいる人の前には、何かしらのドリンクが入っているのだろうグラスやマグカップがある。
一旦ひっこんだ、さっきのバーテンダーの人が、メニューを持って来てくれるのかもしれないと思い直し、ソファーに背をもたれかけるようにしにして深く座った。
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「お待たせいたしました」
入り口で聞いたのと同じ声が頭の上から降ってきた。
前にある丸いテーブルにグラスが置かれる。昔ながらの喫茶店で使われていそうな分厚いガラスでできていた。
グラスの中には氷が入っていて、小さな気泡が浮かぶ飲み物が入っていた。縁にはくし切りにしたレモンが刺してある。
「あの、注文してないですけど……」
グラスを指差して言うと、男性は笑みを讃えてゆっくり頷いた。
「当店は当店を必要として下さるお客様だけしか、ご来店になれません。選ばれた方にしか、来て頂けないのです」
きっと何度も同じ台詞を言っているのだろう、彼は淀みなく話した。
「お客様がなぜ当店に来られたのか推察し、その方に今、必要な飲み物を提供させて頂いております」
そう言ってお辞儀する。
「あなたは何か、お困りの様子でした。責任感が強い方なのだと推察しました。たまには、弾けてもいいんじゃないでしょうか……ということでレモンスカッシュをご用意致しました。一人で抱え込まず、周りに頼ってよいのですよ」
彼の言葉に僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。
今日の再面談のこと、四元さんに迷惑をかけると思っていたこと、自分の不甲斐なさに情けなくなっていたこと。そんな全てを彼に見透かされていたのだと思った。
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彼が去ってから、僕はストローをグラスに差し、一口飲んだ。ぱちぱちと弾ける炭酸、品のいいレモンの風味。おいしい、と思った。本物のレモン果汁を使っているのではないだろうか。
グラスに入ったそれの半分程を一気に飲み干した。
口の中で炭酸が弾ける度、先程の彼の言葉を思い出す。
―― たまには、弾けてもいいんじゃないでしょうか
―― 一人で抱え込まず、周りに頼ってよいのですよ
知らず知らずのうちに、僕は自分にあらゆることを課していたのかもしれない。
一人前になること、責任を持つこと、自分で頑張ること、弱音を吐かないこと。
どれも大人には必要なものだ。でも、大人だって人間だ。時には、解放されることも、甘えることも必要だ。そう思い至ると、すぐに会社に向かいたくなった。
今日は存分に四元さんの力を借りよう。
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会計をしようとカウンターに近づくと、先程の男性がこちらを見た。
「お会計、お願いします」
「当店では、お会計は必要ありません」
男性はそう言って柔らかい笑みを湛える。
混乱している僕に言葉を続けた。
「いってらっしゃい。きっと上手くいきますよ」
気づくと、いつもの地下通路に戻っていた。
さっきまでの出来事は夢だったのか? いや、でも、口の中には、あのレモンスカッシュの爽やかさが残っている。
それに気持ちが軽くなっていた。
―― きっと上手くいきますよ
その言葉通りになるような気がして、僕は地上に出る階段を上っていった。
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