第70話 旅立ち
「本当に大丈夫なの? 私に気を使わなくていいんだからね?」
ノワラお姉ちゃんは、私の目を真っすぐに見つめてそう言った。私が1人で旅に出たいと相談したからだ。
お姉ちゃんと私とでは、時の流れの感覚が違う。ノワラお姉ちゃんと一緒に過ごした時間はそれほど長くない。だけど、お姉ちゃんにとってはとても長い時間なんだと思う。
なにより、お姉ちゃんと過ごした時は短いけど、今まで生きてきて一番濃密な時間だった。これまでのすべてを忘れさせてくれるほど、幸せでかけがえのない記憶として私の脳裏に刻まれていった。
本当ならもっともっと……、これからもずっとお姉ちゃんと一緒にいたい。
だけど、お姉ちゃんと私は同じ「時」を生きることができない。なにより私の存在がお姉ちゃんを縛っていることにも気付いている。
私とお姉ちゃんが出会った国「グランソフィア」、そこには今でもお姉ちゃんの大切な人がたくさん暮らしている。お姉ちゃんはここに暮らすようになってからずっとその人たちと連絡を取る方法を探していた。
そして、どれくらい前だったかしら……。お姉ちゃんははじけそうな笑顔で私に話してくれた。
『ロコちゃんが! それにガーネットさんやグレイに、お父さんもお母さんも元気にしてるって!』
一緒に暮らしているからわかる。お姉ちゃんは大切な人たちに会いに行きたいんだ。あんな曇りのない笑顔はこれまで見たことなかったから……。
お姉ちゃんがグランソフィアに近付かないのは、私を気にしてのことだ。聞いた話では、「聖ソフィア教団」はまだ残っているらしい。神託という導を失ったとしても、これまでずっと信じてきたものを急に捨て去るのは簡単ではないのだろう。
それでも、教団の権力は以前と比べてずいぶんと弱まり、国を解放する動きが広まっているそうだ。すぐにはむずかしいかもしれないけど、そう遠くない未来には、自由に出入りできるようなっているかもしれない。
私は誰よりもノワラお姉ちゃんに幸せになってほしい。それに、「しゃーねぇな」のお姉ちゃんにもだ。
その枷に私はなりたくない。
ノワラお姉ちゃんと一緒に過ごせたおかげで私は、「人」として生きていけるようになったと思う。
お姉ちゃんと一緒に料理をした。とても楽しかったし、うまくできるとお姉ちゃんはとても喜んでくれた。
お買い物をしていてスリにあった時、私は怒った。ノワラお姉ちゃんはもっと怒って、その犯人を捕まえて平手をくらわしていた。すごい音がして、人が集まってきたのでふたりで慌ててその場から逃げ出した。その後はいっぱい笑った。
お姉ちゃんが大切な人たちのことを調べてうまくいかなかったとき、夜に独りで泣いているのを見かけた。私も悲しくてベッドで泣いた。
ノワラお姉ちゃんと一緒に生活していろんな感情を知った。それとは逆に「忘れる」こともできるようになった。暗い部屋でずっと私が聞いていた「知識」は、私に必要なものだったのか。少なくとも、今生きていくうえでそれはいらないものだった。
頭に入ってくるものを初めて「いらない」と思えた。そうすると、それがなんだったかわからなくなった。お姉ちゃんと話をして、それが「忘れる」だと知った。
長い時を同じ場所で過ごすと奇妙に思う人も出てくるかもしれない。だけど、今の私ならひとりでも生きていけると思った。全部、ノワラお姉ちゃんのおかげだ。
「ノワラお姉ちゃん、私はもう十分お姉ちゃんに守られてきたよ? お姉ちゃんには私のためじゃなくて、自分のために時間を使ってほしいの」
「ソフィア……」
「私はみんなよりずっと長生きだから、またこの姿でお姉ちゃんにも会えるよ? だけど、お姉ちゃんにとっての、この時間は私よりずっと重いものなんだ」
お姉ちゃんは下を向いて、一度息を吐き出した後、改めて私の目を覗いてきた。
「私のためじゃなく……、ソフィア自身がそうしたいのなら止めないわ。よく考えたら私よりずっとあなたは大人なんだしね?」
お姉ちゃんは本当に優しい。きっと「聖女」とはこういう人のことを指す言葉なんだ。
「ありがとう。ノワラお姉ちゃんは、お姉ちゃんの幸せのために生きて。私も自分の生きる道を自分で見つけてみせる。そうしたら、きっとどこかで私たちの道は交差すると思うんだ」
お姉ちゃんは少しの間、私の顔を見つめた後にそれ以上なにも言わなかった。
ただ、眩しいくらいの笑顔を向けてくれた。




