第4話 出航
二人がバポールの家を出る頃には、朝日が煌々と照っていた。アヴォンはその光を鬱陶しそうに目細め、手で遮る。踵を返して、仕事場ではなく家の方へと足を向ける。
「俺の元から離れる気なんて、ありませんよね」
喜びを隠しきれていない幽霊に向かって言う。
ロウバーには願ってもいない転機が来たのだ。自分が知ることができなかった世界の真実を知るべき人物を見つけ、その者を旅路へと連れ出すことができるのだ。
「もちろん。一年かけてようやく俺の未練を晴らせる奴を見つけたんだぞ?しかも、見鬼の瞳なんていうおまけ付き。うまくいけば、俺も世界の真実を知ることができそうだしな」
「……そうですよねぇ」
話しているうちに、光に目が慣れてきて翳していた手をおろす。
海鳥の鳴き声と漣の音の合間に、遠くで漁師の掛け声が耳に届いてくる。座礁のことで不安でも、仕事はしなければならない。
みんな、怖いだろうな。と、アヴォンはロウバーに聞こえないように小さく呟いた。
自分がここに留まれば災いは次から次へと訪れ、彼らの恐怖は雪だるま式に募っていく。容易にこの小さな港の成り行きを想像できてしまうことに、アヴォンは顔を顰めた。港の人々を恐怖に陥れてまで自分の意思を貫く覚悟は、少年の中にはなかった。
鼻から小さく息を洩らして口を開いた。
「行きましょうか、冒険」
ロウバーが瞠目して呆気に取られる。お構いなしにアヴォンは言葉を続ける。
「準備するんで、何が必要か教えてくださいね」
「なんだよ急に。本当は冒険に出かけたかったのか?」
アヴォンは振り返って幽霊を睨みつける。深緑の目がギラリと光った。
「勘違いするな!お前のためじゃない。俺と港の人たちのためだ!お前の未練を晴らす気はこれっポチもないし、世界の真実なんかに辿り着く気はさらさらない!霊を祓える者を見つけたら、躊躇いなくお前を祓う。お前を消すための旅だ。それを忘れるなよ」
ロウバーはなんとも言えない表情でアヴォンをしばらく見つめていたが、突然大きな声で笑い始めた。予想もしなかった彼の反応に、今度はアヴォンが呆気に取られる番だった。幽霊はひとしきり笑い終えると、少年を見下ろす。
「お前、こんなちっぽけな港の奴らのために命を張れるのか」
いかにも愉快そうな声でそう言った。馬鹿にされているのだろうかと思ったアヴォンは、怪訝な表情をして幽霊を見上げる。その表情を見て、ロウバーは馬鹿にはしていないと言って誤解を解く。
「感心しているんだよ。俺らはそんなじゃなかったからな」
海の方に視線を移してロウバーの口調が穏やかなものに変わった。彼は海ではなく、どこか遠くの……水平線よりも遥か遠くを見るかのような目をしていた。そんなロウバーの様子を見ていると、彼が静かに歌い始めた。
箱の中には金、銀が 溢れんばかりに入ってる
ラム酒に酔いしれ ヨーホーホー
40人の血と引き換えに 悪魔が生き残りに差し出した
エール酒飲み干し ヨーホーホー
歌い終わると、ロウバーは少年の方に微笑みかける。
「これからお前の辿る道は険しいぞ。なんたって、俺が辿った道を進むんだからな。後戻りのできない、血に塗れたこの道をな。逃げるなよ?」
「もう覚悟はできてる」
そう言うアヴォンの真っ直ぐな深緑の目には、強い意志がこもっていた。その目を見て、ロウバーは小さく笑った。
「この少年に、良い風が吹かんことを」
幽霊は広大な海に向かって、祈るように呟いた。
「おい寝ぼけ眼!いつまで寝てるつもりだ!?」
スフトの怒鳴り声が聞こえてくる。魚の選別を終えて、アヴォンがいないことに気付いて呼びにきたのだろう。他にも3人の少年が家の前に集っている。呼ばれている当の本人は家の陰に隠れて息を潜めていた。アヴォンは堅パン、革水筒や毛布など、ロウバーが持っていけと言った物が詰まったリュックを背負っている。ここで見つかってしまえば、彼らに邪魔されるに決まっている。幽霊のことは信じてもらえないし、バポールに相談して得た警告と助言を言えば、更に信じてもらえなくなって、おかしな奴だと馬鹿にされるだろう。
どうしようかと、隣を浮遊している幽霊に目配せする。彼も困った表情を浮かべていた。
「スフトに憑依できますか?」
スフトに憑依できたのなら、少年たちをここから遠ざけることができる。だが、ロウバーは首を横に振った。
「残念だが、自らの力で憑依できるのは強力な力を持つ霊か怨霊くらいだ。俺は霊能者の力がないと憑依できない」
アヴォンは顎に手を添えて考えていると、少年たちとは違う声が聞こえてきた。
「どうしたんだ、お前たち」
声からして、釣具屋の店長だ。
「アヴォンがなかなか起きないんですよ。誰も見てないって言うから、家に居ると思うんですけど」
「あぁ、アヴォンかい?あいつならバポールの婆さんの家に入っていくのを見たよ」
思わぬ助け舟がきた。忌避されている老婆の元を訪れていたところを見られた懸念があったが、見られて正解だった。
バポールの名を聞いて、少年たちがあからさまに嫌そうな声を上げた。
「マジかよ。あいつ、ついにあのイカれ婆さんと関わるようになっちまったのかよ」
「そう言ってやるな。何か理由があるんだろう。まだそこに居るかもしれないぞ?」
しばらく沈黙が流れる。迷っているのだろう。お互いに顔を見合わせる様子が想像できる。しばらくして、スフトが口を開いた。
「お前ら、先に仕事場に行ってろ。俺があいつを迎えに行ってくる」
「いいのかよ?」
「あぁ」
スタスタと走り去っていく音が聞こえ、遅れていくつかの足音が少しずつ遠ざかっていく。ロウバーが上昇して、家の付近に誰もいないことを確認しアヴォンに頷きかける。アヴォンは荷物を背負い直して停泊地に向かって走っていく。
あまり人目に触れない隅の方に走っていって、ヨットに乗り込む。一つくらいヨットがなくなっても大事にはならない。だが、少年が一人消えたとなると、港は大騒ぎするだろうな。
他人事のようにそう考えながら、荷物を置き、ヨットの紐を解いて飛び乗り、櫂を持って力一杯水を掻く。ヨットは少しずつ進んでいく。ロウバーは静かにヨットの周りを浮遊しながら見守っている。
少し開けた場所にまでヨットを進めて辺りを見渡す。誰も見ていないことを確認して、ヨットを漕いで推進力を上げる。帆を操って風の力も使いながら、港から離れていく。途中、離岸流を見つけてヨットを近づけると、波に乗ってさらに速度が出る。十分な速度が出たことを確認し、アヴォンは漕ぐのをやめて港の方を振り返る。
みるみるうちに遠ざかっていく故郷は、陽炎で揺れていた。