第3話 災いの兆し
少年の億劫な表情を見て、ロウバーは嫌な予感がした。アヴォンは止めていた足を動かして、いかにもやる気のなさげな声で言った。
「やっぱり、詳しい人を探して祓って貰いましょう」
「ちょ、待て待て待て待て!」
サラッとアヴォンはそう告げたが、ロウバーにとっては死刑宣告されたも同じだ。祓われた後の幽霊がどのようになるかは分からないが……
「世界の真実だぞ!?こんな小さな港から抜け出して、広い世界に飛び込むチャンスを手離すのか?」
「俺はここの暮らしに満足しているんです」
ロウバーは頭を抱えた。自分の次の後継者が見つかったと舞い上がってしまって、この少年は冒険心がまったくないことを忘れていた。
だが、ロウバーはそう簡単に引き下がるような者ではない。“海の覇王”と呼ばれた彼はそのカリスマ性を駆使して、少しでも興味を持つように自身の経験や世界の珍しいものを話すが、アヴォンは聞く耳を持たない。
そうこうしているうちに、アヴォンの家が見えてきた。少年は少し足を早め、家のドアを開け、振り返って幽霊を睨みつける。彼は口をつぐんだ。
「家、入らないでくださいね」
そう言って勢いよく扉を閉めた。
その気になれば、ロウバーは簡単に家の中に入ることができるのが、ドアの前で大人しく浮遊していた。いつもの彼なら、なんの危険も顧みずに飛び込む勇気はあるが、今はその勇気も湧き上がってこなかった。
「ま、無理に干渉するのもな」
そう呟いて、ロウバーは上昇して屋根に降り立つ。月明かりに照らされた波間が白く光っては揺れている。月光に照らされない部分が黒く染まって広がっている。遠くの方で小さな光が動いているが、夜間航海の明かりだろう。どこにいても、見える景色は同じものだ。
だが、死んで少し変わったことがある。生前には視えなかった霊の類が視えるようになったことだ。アヴォンは気憶のみだが、ロウバーのような死者は全ての霊を視ることができた。自身のように未練が残る霊、地縛霊、生霊、怨霊、その他諸々の霊を視ることができた。
今も、砂浜のところに霊が二つか三つ、歩いたりその場に立ち止まったりしている。港の空には海鳥の霊が漂っては消えている。
ロウバーが口笛を吹きながらそれらを観察していると、海岸の方がチラチラと光り始めた。口笛を吹くのをやめて彼がそちらに視線を移すと、海水が月光を忙しなく反射させているのに加え、青い光で描かれた魚が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。魚の群れが座礁でもしたのだろうか。この時は深く考えず、ロウバーは再び口笛を吹いた。
翌朝、アヴォンはいつものようにバルコニーに出てグーッと背伸びをする。
「おはよう、アヴォン。昨夜はよく眠れたか?」
上からロウバーが声をかけてきたが、無視して辺りを見渡す。すると、いつもの朝とは違う光景が視界に入った。何人かの港の者達が海岸に集まっている。彼らの足元には黒っぽい集合体があった。家からは遠すぎてよく見えない。
アヴォンは一度家に入り、軽い朝食を済ませてから外に出て海岸の方に向かう。その後をろうばーが浮遊してついていく。二人が海岸いつくことには、大勢の人が集まって言葉を交わしながら足元を見て苦い顔をしている。彼らの視線を追ってみると、イワシの群れが砂浜の上に散らばっていた。
漁師たちは口々に何か呟いている。何を呟いているのかはよく聞こえなかったが、ロウバーが僅かに聞き取れたのは“不吉”という言葉だった。
「どうしたんだ、一体?」
疑問に思ったロウバーがアヴォンに尋ねる。
少年は群衆から少し離れ、付いてこいという仕草を見せる。二人は海岸から離れ、人気のない場所まで来ると、アヴォンは振り返って幽霊をキッと睨みつけた。
「お前、何するつもりだ?」
「何を?質問の真意は知らんが、強いていうならお前を冒険に───」
「違うそうじゃない。災いを招こうとしてるだろ?」
ロウバーはキョトンとした表情を浮かべる。それを見たアヴォンは違和感を覚えて思考を巡らす。
昨日の会話で分かったことだが、この幽霊は隠し事などしない。こちらが何かを尋ねれば全て包み隠さず話す。そのため、彼の反応を見たアヴォンは、本当に彼には心当たりがないのだろうと考えた。では、なぜイワシの座礁が起こったのか。
難しい顔をしている少年に、ロウバーは恐る恐る声をかける。
「なぁ、アヴォン。座礁が起こると、何か悪いことでもあるのか?」
「知らないんですか?海賊なのに」
「俺は内陸の出身で海に出たのは四年前だ。港の文化は齧った程度だ」
少年はもう一度辺りに視線を走らせて、誰もいないことを確認してから説明を始めた。
「昔から、魚の群れの座礁が起こると、災いが起こると言われているんです。何事も起こらずに済んだものもあるけれど、地震、海底火山噴火、大嵐などの災害が、座礁からほとんど期間が空かずに起こっている場合もあります。昨夜のバポールのお婆ちゃんの話もあって、てっきりあなたが災いを招いたのかと思って」
「昨夜、何もしていないんだがな」
顎に手を添えて考え込むロウバー。海を見渡しながら口笛を吹く、いつもの夜だった。特に変わったことはしていない。
「心当たりはないな」
「そうですか」
「俺たちだけじゃどうにもならない。あの婆さんに話を聞きに行こう」
ロウバーの提案に頷いて、アヴォンは彼女の家へと足を向けた。
昨夜と同じように扉を開けて声をかける。相変わらずカーテンは締め切られ、暖炉の火だけが揺れている。焚き始めたばかりのようで、火はまだ小さい。
バポールはいつものようにロッキングチェアにちょこんと座っている。だが、扉が開く音とアヴォンの僅かに皺だらけの手をピクリと動かしただけで、少年を捲し立てはせずに、静かに隣に座るように言った。やはり、彼女は何か感じ取っているようだ。
「お婆ちゃん、災いはどうやって招かれるの?」
バポールは小さく笑って手を揉み解す。
「やっぱり、災いかい?今朝からやけに霊たちの落ち着きがないし、海の方も騒がしいし。何があったんだい?」
アヴォンは座礁が起こったことと、要因であろうロウバーに何かしたかと尋ねたが、彼は何も知らない様子だったことを述べた。老婆は話を聞き終えると、しばらく黙り込んだ。何かを考えているようだが、どこか躊躇っているようにも見える。
「見鬼の坊や。心して聞きなさい」
バポールは手探りでアヴォンの手を手繰り寄せて握った。暖炉の前に座り続けている彼女にしては、少し冷えていた。
「霊に詳しい者から聞いた話だと、災いは霊の意志に関係なく引き起こされてしまうそうだよ。もし霊に聞く耳があるのなら、この港から立ち去るように言いなさい。もし断られたり、話が通じないようなら……坊やはこの港から出ていかなければならない」
アヴォンが息を呑んだ。
ロウバーも僅かに目を見開いている。
バポールは一息入れて、こう続けた。
「霊を祓うか、未練を晴らして消えるまでは、坊やはここに帰ることはできないよ」