43.焦り
ある日の休日。
今日はアヤネが朝からどこかに出掛けているので黎冥は一人で仕事中。
基本的に教師に休みはないとされるが、黎冥は二徹すれば休憩もなしに頭のネジを緩めて終わらせられる。
異常な量には異常な頭で立ち向かうしかない。
そして今はそんな仕事を終わらせて、一人で副業。
最近はアヤネに任せ切りのものもあれば一切手を付けていなかったものもあれば毎日毎日やっていたものもあるので、今はそれの処理。
平日よりは人の少ない物静かな職員室で、回されるペンを片手に書類と睨めっこしていると今日も今日とて元気な声が聞こえてきた。
「にいさーん!」
「るいくーん!」
職員室なのだから静かにしてくれないだろうか。
毎回思うが、遠慮というものがない。
せめて黎冥の自室で叫んでくれ。あそこなら誰も迷惑しないから。
ペンを置いて立ち上がり、最近はまた増えた白衣のまま職員室の外に出る。
「何」
「アヤネちゃんとはどぅ?」
「普通」
「アヤネちゃんは? いっつもおんのに珍しいやん」
「なんか用事あるらしい」
「最近出掛けること多いわね。……浮気されてんじゃないの」
「付き合ってませんから」
アヤネに彼氏が出来たら引くつもり。
先日帰った時も、見付けられなかった時用の最終手段として黎の名を引く遠い会ったこともないような親戚を候補として置いていると言われた。
最低限好みは合っていたので頷いてきたばかりだ。
「兄さんがこんな状態で新しく付き合うような子やないし浮気はされてへんやろうけど。こんな頻繁に出かけるってなんかあんで?」
「前お屋敷に行った時は何の用だったの?」
「あ、掃除の続きか!」
紑蝶は凶暴なくせに血は苦手なので説明は省き、稔想は黎冥の腕を掴んだ。
黎冥も腕を掴み返し、意地でも行かせない。
「手伝い行こーやー!」
「アヤネから来んなって言われてんの」
「なんでぇ!? 兄さんなんかしたんか!」
黎冥が、お祓いに行ってようやく治り始めた頬を指さすと稔想は固まった後おとなしく手を離した。
前にアヤネの傷跡も見せてもらったが、本当に鱗状の痕が残っていた。
アヤネの脇腹と右上腕、あと左の首に近い肩。
残っていたのは脇腹で、これはほんの二、三年前に出来たものだかららしい。
他は幼少の頃に出来て皮膚が伸びたので薄くなった、とも。
でも黎冥は顔なので痕が残ると二度と消えないだろうから、絶対に薬を塗って跡形なく治せと切羽詰まった表情で言われたら頷くしかないだろう。
ちなみに風を察知して離れたら駄目。
もしそれが温風の場合、皮膚どころか筋肉まで刺さってそれが反り返り、それこそ肌が鱗やおろし金状になる。
アヤネも反射的に避けたらそうなった、と。
もしかしたらあれの生まれつきの不運体質は何かの霊に取り憑かれているのかもしれない。
家の不運も本人の不運も。
「兄さん何してたん? 仕事?」
「副業」
「教職も副業やろ」
「それも込みで諸々」
「るいは副業何やってんの? 研究関係?」
「そっちが本職。副業は色々やってるけど」
今は本職一本に教職と、副業三本。
研究職以外は小遣い稼ぎ感覚だ。
使い所がないのでほぼ全額貯金行きだが。
「内容は?」
「おも……」
「るい君また俳優業でも始めたら? そういやりゅうちゃんこっちに来てるらしいね」
「あそうなん? 兄さん会ってきたらええやん。新聞見たら泊まってるホテルぐらい分かるやろ」
「いや手紙来たし。会わないって断ったけど」
「えーそうなの?」
紑蝶はつまらなさそうに口を尖らせ、黎冥の首に腕を回しながら耳元で会わない理由を聞き続ける。
忙しいのが第一として、お互いに会える時間が作れない。
第二に、黎冥圜鑒と亦技豐霳が揃うと記者やファンが何故か反応して寄ってくる。
一人の時は気付かれなかったのに、揃った瞬間に寄ってくる。
第三に、もし会っている途中で黎冥が信徒関係者と会ったら勘のいい豐霳には誤魔化せない。
第四、これが一番重要。
この顔で会いたくない。
活動中、死ぬ気で顔を守った意味がなくなってしまう。
この顔で外を歩いても黎冥圜鑒とはバレないが、豐霳と揃うと絶対に見付かる。
叩かれただとか事故っただとか変な記事を書き立てられるのは御免だ。
紑蝶が稔想を引きずって買い物に行ったので、仕事に戻ったお昼。
喉が痛くなってきて、ずっと咳をしている。
「黎冥、大丈夫か」
「何が……げほっ……!」
「休め。心労が集ってる証拠だ」
「問題ない」
「アヤネちゃんに迷惑かかるぞ」
「なんでそうなんの……」
なんでも何も、黎冥が倒れて看病するのはアヤネだ。
アヤネは黎冥の看病を好きでやる性格ではないと思う。
アヤネと言えばおとなしく言うことを聞くのだからこれの依存ぶりもかなりか。
たかが弟子がそんなに可愛いだろうか。
たとえ一番弟子だったとしてもあそこまで性格が歪むことはないと思う。
なんだろうか。
アヤネの何がそこまで黎冥を突き動かすのだ。
「黎冥先生も大変ね。神守様の仕事もご実家の仕事もあるし……結婚の話も出てるんでしょ。こんな日ぐらい休んだらいいのにね」
いつも通り椅子を移動させて隣に座った兎童にそう言われ、無意識に動かして仕事をこなしていた手を止める。
「結婚……?」
「あれ、慧ちゃん知らないの? 二十八歳までに結婚しなきゃだからお見合いとか何回もやってるって。アヤネちゃんはどんな気持ちなのかなぁ」
「ど、どう言う……」
「だってこの前ね」
先日、黎冥の弟子になって一年半になるがどんな感じだと、良ければ他の師匠も紹介すると提案してみたのだ。
だがアヤネから帰ってきたのは驚きの、一番信用して頼れるから、という言葉。
自分から言っておいてなんだが、この二人できているのではと疑った。
「でき……」
「……あれ、慧ちゃん?」
最近、静蘭と言う奴や神守にばかり気を取られていて二人の行方を何も見ていなかった。
まずい。
兎童はいきなり出て行った慧に呆気を取られ、もう慧の姿が見えなくなった扉の方を眺める。
「ど……どうしたんだろ……」
「あの二人同級生でしょう。案外そういう系かもしれませんよ」
「慧ちゃん幼馴染の子と婚約の話出てますよ?」
「……三角関係……!?」
「匡火先生、妄想も程々に」
呆れた様子の柘は、男ながら肩ほどまで伸びて束ねられている髪を払いながらワクワクする匡火につっこむ。
数学のベテラン教師だが兎童より若い。
「慧ちゃんはそんな子じゃありませんよ〜!」
「だってあの二人仲良いじゃないですか。時々喧嘩しますけどその後も息ピッタリですし」
「それで言うなら鼓さんと黎冥先生こそでしょう。二人とも嫌がりながらもだんだん平たくなって……!」
「さすがに教え子に手を出すほどではないと思いますよ?」
「でもこの前食堂でフラれたって言ってましたよ」
「四角関係!?」
柘は食堂で弟君と話していた、楽な道とやらを話す。
実はガッツリ聞き耳を立てていたので案外覚えているものだ。
「楽な道って何なんですかね」
「さぁ……?」
それからしばらくして未だ三人で話し続けていると、職員室に元気な響いた。
「失礼しますー! お手紙の時間ですー!」
「今日も元気ですね〜」
「あれー、黎冥先生いませんねー。早便で来ていたので早く届けた方がいいと思ったんですけどー……」
「あ、じゃあ預かるわ。寮にいるはずだから」
「あ、いえいえー。寮にいるなら届けますー」
「そう?」
皆にお手紙を配った後、教師寮に続く階段を上がって黎冥の部屋をノックした。
「黎冥先生ー。早便でお手紙ですー」
中から咳き込んだ声は聞こえるが、返事が帰ってこない。
最近は大変そうだし、よく体調を崩すと聞いたので扉の下に差し込んでおいた。
「げほっ……けほっ……」
痰が絡んだような、明らかに腫れた喉から出る咳をしながらベッドから落ちるように降りた。
今まで何度かこういうことは起こったが、今思えばよく普通に仕事出来ていたな。
やはり甘えを知っては駄目なのか。
人生、常に気を張って生きなければ。
鼻血が出てきた鼻を抑えながら封筒を開け、中を開く。
月見里さんからかと思ったが書かれていた文字は達筆ではなくたぶん女性の文字。
とある事故後、月見里は目が見えなくなり、手紙は住み込み側仕えが読み書きしているらしい。
その側仕えが妊娠でいなかった期間に手紙が届き、代用の子は達筆が読めず返事が遅くなってしまった。
神來社の字は覚えているが見えないので何も出来ない。
だが、神來社と十三年間過ごした仲。
誰よりも神來社を理解しているつもりだ。
何かあったら遠慮なく頼ってほしい、と。
これは本人特定が難航する可能性が高い。
屋敷に何か残っていたらアヤネが持ってきてくれる可能性が高いが、几帳面で心配性で頭のいい神來社が残しているだろうか。
これだけ近くに住んでいたのに誰も、黎冥すら気付かなかったのだ。
相当警戒して、ほとんど残していない可能性がある。
娘のアヤネならその裏もかけるだろうか。
布団に潜る気力もないままベッドに倒れ、手紙片手にほぼ気絶に近い入眠。
「悩んでますね」
声が聞こえ、妙に軽くなった体で振り返る。
真っ赤な髪に、他人の空似並にアヤネに似た顔の美人。
「……女神様」
「こんにちは。……初めましてではありませんがこうして話すのは初めてですね」
やっぱり健康になったらこんだけ美人になるよなぁ、と眺めながらも体の向きを変える。
何故加護のない黎冥と接触出来るのだろうか。
アヤネ繋がりか。
「婚期真っ只中の婚活中だそうですね」
「……嫌な情報持ってますね」
「あの子から伝わってくるんですよ。とても心配されています」
黎冥が顔をしかめると、女神はもう何をしても美しい顔で微笑んだ。
「彼女が危険です。必ず守って下さい。これ以上時の糸を狂わせてはなりません」
「アヤネが? 何故……」
「未来を告げることは禁忌に触れるので教えられません。ですがあの子が死ぬと貴方も死んでしまう。貴方が死ぬとあの子も死ぬでしょう。必ず守って下さい。あの石がある限り、私はいつでも貴方を、あの子を守りますから」
そんなことを言う女神の表情はどこか悲痛で、今にも泣きそうな顔だった。




