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42.授業見学

 レチェットが本校に逃げ込んでから約一ヶ月した頃。


 ちょうど夏と秋の狭間というような気温の日に、リリス達はやってきた。




 他の神守は既に何日か何週間か前に着いてここに泊まっている。





「レチェット!」

「リリス様。お久しぶりです、ご迷惑をかけました」

「そんなことはいい! 大丈夫なのか……?」

「はい。全く問題ありません」

「平衡感覚ないくせに何言ってんだ」




 本来なら養護教諭がいるべき席から、白衣を着た職服姿の黎冥は振り返った。



 リリスは興味深そうだが質疑応答を成立させる意はない。





「平衡感覚麻痺、右耳難聴、思考判断及び集中力の低下。問題ないと言うには多すぎる気がしますけど」

「口開く度喧嘩腰になんな。止めるの誰だと」



 奥から出てきた、同じく制服に白衣のアヤネは黎冥に検査結果を渡す。





 先日、戸永(となが)が流行病で倒れたため最近はこの二人が保健室にいる。


 ちなみに理科の授業も並行で。




 低学年になるとアヤネに丸ごと投げられる。





「……治るのか……?」

「そもそも治療法が確立されてませんし。補助と薬で抑えるのが精一杯です。ここに脳外科医はいないので」

「平衡感覚は最低限鍛えられますし耳も難聴というだけで聞こえてはいます。左耳は無事なので会話に問題はありません。思考判断及び集中力低下に至っては本人の性格上、生真面目すぎるので特に問題はないかと」




 白衣のポケットに手を突っ込んだアヤネと、足を組んで結果を眺める黎冥にリリスは何故か目を輝かせた。




 レチェットはそれを可愛いなぁと眺め、アヤネはそれを扱いやすそうだなぁと眺める。


 二人とも微笑ましそうな顔して。






「会議や祈りに支障を来たす身体的問題は今のところありませんよ。平衡感覚でしゃがんだら倒れる時はありますが」

「……聖なる力の方は問題ないよな?」

「まだ分かりませんよ。……てかそもそも外傷で力が減ることってあんの?」

「減ることはないけど」



 減ることはないけど、耐えられなくなることはある。





 ご存知の通り力持ちが力を全て使い切ると倒れるが、要は倒れる量が変わる。





 いまいちピンと来ていなさそうなリリスとスヒェナのために例えを使おう。







 例えば力が十あったとします。


 今まで、一残っていたら意識はありました。



 でも怪我で脳に損傷が出てからは、三残っていても気絶します。





 これは力量の問題ではなく、力の変動に体がどれだけ耐えられるか。

 こういう問題。






「……過去にその例に当てはまった人物は?」

「身近なところで言うと俺とかシュルト様とか……稔想も少し影響が出ましたけど。後は有名どころで寝丈当主ですね」




 黎冥は昔、いじめで集団リンチの時に脳震盪で力の変動に耐えれなくなっている。



 今までは気を失う瞬間までは体調不良が出ない体だったのに、今は目眩や耳鳴りや痺れがする。

 なんならちょっと便利になった。




 シュルトに関しては兄弟喧嘩時に二階から落ちて頭が割れ、その影響で力の制御に苦労し何度か体が限界を迎えていたはず。





 稔想は遊びすぎて崖から落ち、一時的な記憶の混乱後に例に出した正しくそれになった。




 寝丈(りん)に関してはもう常識並みだ。


 十二年前、当主二十歳の時に交通事故で記憶喪失。

 今は祈ることが完全に出来なくなっている。





「……鈴みたいにならなければまた祈れるということか?」

「まぁ可能性は。寝丈当主だって叩き込めば祈れると思いますよ。ただ本人の恐怖心との戦いでしょうね」

「……分かった」






 黎冥はアヤネに結果の紙を返し、アヤネはそれを棚から引っ張り出したファイルに挟む。






「……零、十一時」

「行くか」

「どこか行くのか」

「授業です。仮にも教師なので」

「見に行こう」

「高一なので分からないでしょう」

「行く!」


 ワガママお嬢様め。





 黎冥はおとなしくアヤネを連れて、リリスとスヒェナも勝手に付いてきて実験室に降りた。




 既に生徒が待っており、皆がまだ頬の治らない黎冥に手を振る。



 男は心做しか嬉しそうだ。





「先生お大事にー」

「黎冥先生ずっと貼ってるけど治んないの? 厨二病?」

「見るか」

「さっさと始めろ」

「はいはい」




 黎冥の頬は未だ傷が塞がらず、たまに血も出てくる。



 今週末寺に行く約束をした。






「えーと……」

「化学結合」

「そう。教科書百八。化学結合から」




 黎冥は教科書を見ずにただ机に手を突くだけで淡々と説明し、アヤネはそれを耳で聞いて黒板に書き出す。



 アヤネの助言で、最低限のことしか教えてくれない教科書より気が済むまで学んだ研究者の言葉の方が分かりやすいということで、教科書の内容を取り入れながらも黎冥の言葉で説明している。




 その分テストの難易度も上がったので平均点が一気に落ちたが。

 気にしない気にしない。


 学年に満点が二人いれば十分。

 それも一学年だけだけど。










「……このように原子は物体の粒子、元素は原子の種類のことである。つまり窒素も元素。原子は元素の元ってこと」

「原子核の構造は?」

「それはまた次」

「あそ」




 アヤネは黒板の下にしゃがむとアヤネ作の原子図を黒板に貼る。


 去年、アヤネたちの学年が使うからと書いたものがまだ残っていた。







「元素の元である原子は複数の()から作られている。中心が原子核と呼ばれる原子の中心。その周りを先程説明した電子が万有引力によって回っている」

「万有引力は引力の関係によって中心と一定の距離を保って回る力のこと」

「電子の数で原子番号が決まり、水素は一、ヘリウムはニ、リチウムは三、ベリリウムは四、と周期表は原子番号通りに並んでいる」





 アヤネは周期表の拡大図も貼り付け、指し棒で色々と指していく。


 真正面に黎冥がいるので見えているかは知らないが、皆注目しているので見えているだろう。












 授業が終わり、皆が盛大な溜め息を吐いた。



「ねぇ黎冥せんせー、試験簡単にしてよー」

「習った範囲内しか出てないだろ」

「それは当たり前では?」

「俺の時予習も出てた」

「入試かよ……」





 今日は朝に授業が二本あって、今の授業で今日は終わり。



「あ、アヤネ先輩これ助かりました」

「お役に立てたら何より」

「何、ノート?」




 蘆黎(ろくろ)弟がアヤネにノートを渡すと皆が覗いてきて、アヤネから借りてノートを開く。



 綺麗な字で、隙間なくびっしりと。

 元々罫線の間に少しの隙間があるので見にくくはない。というかわざわざその形を探して買っている。




 黎冥が見にくいと酷評を付けるノートだ。





「ノートなんか借りなくても教科書読めば分かるだろ。教科書の内容やってんだから」

「私は暗記のために書いてるだけですー」

「先生と一緒にしないでー!」

「アヤネ先輩も兄さんも桁外れのところにいるから読んでて面白いんです」

「普通のことしか書いてないじゃん」

「研究者にとっての面白さは新発見だけだろ」




 アヤネはノートをパラパラとめくる黎冥から取り上げて、教卓に置いた。




 生徒の向かう机に座った黎冥は腕を組む。




「いや過去の論文とかも面白いけどさ」

「お前は常識を面白いと感じるか」

「いいえ」

「科学者の常識は一般人にとって未知の領域だって理解しろ」

「嫌です」

「は?」




 黎冥は楽しそうに二人の会話を聞く蘆黎弟の頭に手を置く。



「次のテストは満点取れそうか」

「死ぬ気で勉強してます!」

「偏差値七十幾つに入れたんだろ」

「黎冥先生の偏差値は八十近いです」

「そういや海外の大学の最難関試験で満点首席が出たとか」

「あぁあれ、なんかやってたな」



 知り合いの記事だったので見たが、満点でもおかしくはない頭を持っている奴なので軽く目を通しただけで終わった。



 ちなみに近々来日予定。




「アヤネ先輩ってなんでそんな頭いいの?」

「血筋」

「強い言葉が出た。黎冥先生は血筋じゃないでしょ」

「俺は他に使うべき脳を一種類に使い込んだから」



 黎冥がそんなことを言うと、ずっと教科書を読んでいた生徒が口を開いた。



「研究者って楽しい?」

「研究者だけじゃなくて自分の好きなこと仕事にしてたらなんでも楽しいだろ」

「先生は教師が好きなの?」

「えいや全然」



 ただ、教師をしていたら最悪科学界を干されても実験は出来るよね、と言うだけ。


 今から数学教師になってと言われたら即辞める。



 それに教師には明確な昇進昇格というものがないので、会社のようなビリビリした雰囲気と嫉妬に揉まれなくて済む。




「教師になって人手不足を解消してくれ。あと俺に休む時間を頂戴」

「研究の時間を休みに回せよ。てか副業休めよ。研究で潤ってるだろ」

「いつ紑蝶から搾り取られるか分からん」



 レチェットの救出がなくなったせいで()は守られたが、いつ六を吹っかけられてもおかしくない状況であり性格なので、稼いでおいて損はない。


 あとリリスへの出費で瀕死。




「出費?」

「アヤネ保護のあれ」

「あれか……」

「黎冥先生ってアヤネ先輩大好きだよねー」

「優秀な弟子ですから」

「アヤネ先輩彼氏いないの? 美人で頭良かったらモテるでしょ!」




 皆がアヤネに注目し、アヤネは目を瞬くと首を傾げた。



「好みの人がいないもんで」

「アヤネ先輩の好みの人って……兄さんみたいな人?」

「いや馬鹿でも天才でもない平々凡々な人」

「そこら中にいるますよ」

「出会いがないんよ」






 アヤネは黒板を消し、紙をクルクルと丸めてゴムで止める。





 そこから恋話が始まり、皆が片想いを匿名で話したり過去の彼氏彼女を愚痴ったり出会いがないだの好みがいないだの振り向かれないだの。








「恋話するのはいいですけど六人さん。次技術家庭じゃないのかな」

「……何分!?」

「どうしようもう始まってる!」

「先生言ってよぅ!」

「中学生じゃねぇんだから甘えんな」

「うわぁ先生先輩さよーなら!」






 黎冥の時計を見たアヤネの一声で皆が大慌てで出て行き、始めから気付いて黙っていた二人は静かに見送った。










 ずっと後ろで見ていたリリスはクスクスと笑い、教室を奇妙なものを見る目で眺めているスヒェナは何か言いたげに黎冥を見た。




「お前の生徒は面白いな」

「黎冥様、この教室は理科室ですよね……?」

「理科室です」

「実験室の間違いです」

「いいえ理科室です」

「理科室にはモルモットもマウスも劇薬も何に使うか分からない器具もありません」

「あります」




 ねぇよ。






 アヤネと黎冥の言い合いの傍で、檻の中で暴れているフェレットを見に行こうとするリリスをスヒェナは全力で止めた。

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