36.お悩み
何故誰かの恋人になったわけでも使用人になったわけでも、ましてや自分用でもないのに、こんな朝の五時という早朝から弁当を作らなければならないのか。
神守会議が終わった数日後の八月頭。
アヤネは丸いフライパンで卵焼きを作る。
洗い物を増やしたくないので丸い鉄フライパンだ。
丸も四角も変わらない。
三角でない限りたぶんどんな形でも出来る。
「アヤネちゃんは黎冥先生に?」
「出掛けるから作ってくれ、と」
「……一人分にしては多くない?」
「盗み聞きしていた羽鄽と稔想にも頼まれました」
「人気者だね!」
同じく自分の朝食を作っている調理員さんと二人で料理をする。
今日のおかずは黎冥の希望で鳥の照り焼きと、稔想の希望でいんげんの胡麻和え。
羽鄽の希望で素手で握ったおにぎりが出たが却下させて頂いた。
食べずに一生取っておきそうで真面目に怖い。
卵焼き、照り焼き、胡麻和え、アボカドサラダ。とミニトマトを一つか二つか。
ちなみに食堂にあった使い捨て弁当箱を頂いた。
前に短期遠征と言うか、遠征一日目のお昼等に食べるお弁当を詰めていたのだが、金銭的に厳しい学生にあまりにも人気だったため中止。
それの余りらしい。
黎冥は白米少なめ、稔想と羽鄽は普通。
と言うか黎冥は全体的に少ないので胡麻和えとアボカドで埋めておく。
このアボカドは盛り付けに一つだけ余って、それがもうすぐ傷む可能性があったので貰った。
この程度ならまだ大丈夫だろうということで生食だ。
この季節なので保冷袋に保冷剤を入れるため腐りはしないだろう。
「わ、美味しそう!」
「ありがとうございます」
「黎冥先生幸せ者だねー。アヤネちゃんにお弁当作ってもらえるなんて」
「買い被りすぎですよ」
「いやぁ、アヤネちゃん将来いいお嫁さんになるよ!」
「相手が……ね……あはは」
「美人で優しいんだからいい人なんですぐ見つかるよ! 学校出たら世界は広いんだから」
気さくな調理員さんと話しながら弁当の蓋を閉め、保冷袋に保冷袋と弁当を入れた。
「アヤネー、弁当出来たー?」
「今ちょうど」
「アヤネちゃんおはよー。弁当をありがとう〜!」
「感謝はいらないから無茶振りしないで」
「無理〜」
稔想は満面の笑みでそう言うと逃げるように去って行った。
黎冥にも弁当を渡し、アヤネの寮に向かう。
「また研究会?」
「いや今日は色々。なんで? アヤネが興味持つのは珍しい」
「忙しそうだなーと」
「寂しいか」
「幻聴聞こえてんじゃない」
「聞こえてねぇよ」
アヤネは寮に座り、黎冥は向かいにしゃがんだ。
今日は体調が悪そうというか、明らか絶不調の顔だ。
たまにあるが、見た目からして全く違う。
顔は青白いし浮腫んでいるし、雰囲気も明らかに重い。
「またなんかあった?」
「いや……夢見が悪かっただけ」
「悪夢?」
「あく……む……みたいな感じではない。なんか、ずっと逃げて緊張状態みたいな」
怖さや冷たさはなかったが、ずっと脈が跳ねて焦って慌てて、とにかく慌ただしい夢だった。
夢の中でどっと疲れた気がする。
「……この前泣きそうだって言ってたじゃん」
「うん」
「その時になんもなかったから溜まってんのかも」
「……面倒臭い体」
「向き合ってやれ。精神に付き合わされてる体も体だし」
「疲れるよ」
「知ってる。なんかあったら言えよ。絶対隠すな」
アヤネが小さく頷いたのを確認し、頬に触れて脈や体温を測る。
本人的にも吐き気や頭痛、不快感等はないようだ。
ただ、気分が上がらないだけだ、と。
「今日は一日休んどけ」
「出掛ける」
「いいけど無理すんなよ?」
「大丈夫」
「心配なんだけど」
こういう日は大抵大丈夫じゃなかった記憶が。
記憶違いだろうか。
アヤネが否定しているのだから記憶違いなのだろう。
「じゃあ行ってくるけど。朝食食べろよ」
「母親ですか」
「保護者です」
「違いますけど」
「後見人なんだからそうだろ」
「いや違うだろ」
アヤネの不可解な視線を無視し、荷物を持ってきた稔想の元に行くと鞄に弁当を入れた。
稔想は寮から見送るアヤネに大きく手を振ると黎冥に引っ張られて外に出る。
「アヤネちゃん可愛ええよなぁ」
「手出すなよ」
「何、ついに狙い始めたん?」
「狙ってええん?」
「勝てる気せぇへん……」
「ええの?」
「やめて」
「よろしい」
そんなことより今はアヤネの心身回復が最優先。
親のこともあるのに、加えて恋愛など不器用なアヤネが両立出来るはずがない。
「兄さんってアヤネちゃんのことどう思ってるん?」
「弟子」
「恋愛目線では論外ってこと?」
「……まぁ三十までに結婚しろって言われたら候補かもしれない。他の女と付き合いないし。一番素でいれる気がする」
「惚れてるやん」
「誰もそこまでは言っとらんやろ」
稔想は小さく笑い、黎冥は少し口を尖らせる。
アヤネが贔屓目抜きにしても本気で美人なのは分かっているし、真面目で器量が良くて優しいのも知っている。が。
正直黎冥がアヤネとくっ付くことは有り得ないと思っている。
アヤネからは嫌われているし、黎冥の意識的にアヤネは完全に弟子という概念が生まれているので恋愛対象と見れなくもないが相当焦った時じゃないと無理。というか嫌。
弟子と恋人の区別はつけたい。
「……てか稔想彼女いなかったっけ」
「おらんわ馬鹿にしてんのか」
「してない。そんだけ性格良かったら三、四人は惚れてるだろ」
「いきなり褒めてくれるやん……。……そもそも女の人と関わりなかったし」
「……姉さんに頼んだら?」
「アヤネちゃんがおるからええのー! くっ付くんやったる俺が遅れんうちにくっ付いてや。くっつかんのやったら離れとって」
「親次第」
黎冥が腕を組むと、稔想は目を瞬いた後に近所迷惑になりそうなほど大きな声を上げた。
「えぇ当主なるん!? えそういうことやろ!?」
「五月蝿い五月蝿い」
「あ、ごめっ……。……えぇ〜、兄さん当主なるんや……!?」
アヤネを守るのと、立場確保的に当主に立った方が得策だと判断したのだ。
それがいつになるかは知らないが当主の職務は知っているし今すぐ死なれても問題はない。
ただ、問題はやっぱり伴侶。
血の繋がった子供は必須なので、最低限好みの人を見つけたいが。
「あー老ける……」
「見た目全く変わらんで。二十歳って言っても疑わんもん」
「二十……五……六……」
「八までは大丈夫やで」
「落ち込むわぁ……」
「兄さんは見た目永遠の二十歳やから。童顔やし」
稔想の腕を掴んであらぬ方向に回し、童顔という言葉を訂正させる。
せめて若いと言ってくれ。
この歳で童顔はもう嫌だ。
分かっている。
生まれつき童顔だし老け顔の人からは羨ましがられて、普通顔の人からも羨ましがられる。
分かってはいるのだが、結構傷付く。
黎冥の場合は身長と声も加算されて尚更。
ちなみに二十四の時に高校生と間違えられたことがある。
しかも高一と。
最悪だった。
「兄さん元気だしぃな」
「いつかお前が兄に見られるぞ。高校生と大人」
「え嫌や兄さんの兄になんかなりたくない!」
「なんか腹立つなぁ。てか兄に見られるってだけで兄にはならんし」
「俺言動幼いって言われるし大丈夫やろ。雰囲気やって」
「幼い自覚があるなら直せ」
「個性潰さんとって」
「便利な言葉」
目的地は学校を出て徒歩十五分前後で着く市民体育館。
朝の七時。
午後からある体験に助っ人で呼ばれたのだ。
昔から実家付近で習い事として習わされ、本校入学後も近場というところで引きずり引きずられ行っていたところのお手伝い。
「久しぶりや〜。出来るかなぁ?」
「始まる前に引かせてもらえるみたいだしその間に戻したらいいだろ」
「一本で感覚が戻る兄さんと一緒にせんとって」
「俺そんな超人じゃねぇし」
体験八人、内経験者三人。
今年も毎年と同じような比率。
弓道とは、生涯を費やして追求する人生の道のため、単純な動き故に一丈のズレで全てが台無しになる。
単純かつ奥が深いからこそ、高校から初めて大学で離れ、社会人として家庭を持った今、空き時間が出来たからまた始める。なんてことも珍しくない。
単純な話、動きさえ覚えていれば後は回数を重ねるしかないのですぐ引けるようになる。
ただ、その動きを覚える時に如何に基礎を固めるか、というだけ。
正射必中。
正しく射れば必ず中る。
弓道の心得であり、皆が目指す高み。
久しぶりに教本を読みながら、稔想とともに体育館内を歩く。
入ってすぐに見えるのがバスケコート。
バスケコートの手前を曲がると柔道場。
柔道場とは反対に曲がった先にあるのが弓道場。
柔道場が改築されてるーと思って通り過ぎようとした時、ふと一枚の掛け軸が目に入った。
天井付近に吊るされ、少し進むと左側にももう一枚見える。
「ちょっとすみません」
「どうかしましたか?」
「あの掛け軸って」
凄く、物凄く見覚えがある。
三人で道場を覗くと、案の定。
稔想が見覚えないのは仕方ない。
まだ帰ってきていない時期の話。
「あぁあの掛け軸。かっこいいですよね。噂で聞きましたが、師範の一番弟子が書いたそうですよ。今はいないらしいですけど」
あいつ本当に何をいくつどこまでやってんだ。
「兄さん、何本か引くんやろ。はよ行くで」
「……うん」
三人で道場に入り、道具を準備していると、体験の人だろう。
ジャージや運動服の老若男女が何人かずつ入ってきた。
「体格バラバラやね〜」
「全員が出来るからこそだろ。先引くぞ」
「どーぞ」
稔想は既に来ている見学者を上座に上がらせ、自分も上座の最後尾で眺める。
ここは観戦席がないのが惜しい。
やっぱり所作が美しいと、雰囲気も相まって品があるよなーと眺めてる。
一射目は的に掠ったが、二射目は見事的中。
やはり一射で感覚を取り戻すと言うのは間違いではなかった。
「やっぱ兄さんすぐ戻すやん」
「二射目は中て射。中たってんの見せた方がいいだろ」
「そんな分からんかったで」
「稔想の目が腐ってんだろ。それで審査員やってんのか」
「ひっどー」
「はいはいごめんね」
「雑すぎや」
稔想が射場に入る前、黎冥が巻藁で練習しようとしていると。
道場の入口が開き、二人がやってきた。
「お疲れ様でーす」
「こんにちは」
「あ、ほら黎冥さん来てた!」
「帰っていい?」




