8.黎冥の素顔
花の女神のお告げらしきものは数日に一回だけで、操られていた子も友達の足の怪我の指摘により発覚した。
本人に記憶はなく、歌も知らない。いわば夢遊病のような状態で動き回っている状態。
お告げの夜には歌が聞こえ、必ず花弁が落ちることも三度のお告げで確定している。
加護を持たない人は歌を聞くと極度に眠くなるようで、聞かせた黎冥も羽鄽も実験に使った同い歳の人達も全員が寝たが、加護持ちの人達は寝なかった。
花の神話には登場しないのでこれかどうかは分からないが、花の女神の兄分にあたる歌の神の神話に子供達に子守唄を歌う場面があった。
本なので音程もリズムも分からなかったが、歌詞的にある程度一緒だったのでたぶんこれだろうと仮定。
神話で子守唄に触れた説明や読み取れそうなものはなかったが、それでも仮定しない限り狂師が探し尽くそうとしていたので仮定しざるを得なかった。
今、アヤネは寮で座ったままお菓子を食べている。
事を聞き付けた食堂の調理師が夜中に食べたら確実に太るであろうドーナツをくれたので食べている最中だ。
太れて羽鄽の執着が無くなるならそれでいい。
元々、ストレスから食が細くなり、気が付けば小四で拒食症だった。
百三十三センチで二十六キロ、身体測定の時に先生が虐待を疑ったほどだ。
それから治ることなく、通院も無視して着々と成長し、今は夕食だけなら茶碗一杯と少し食べられるようになった。
元のおかず含め茶碗一杯で吐いていた頃を考えると素晴らしい進歩だ。
百三十三で茶碗一杯弱と百四十九で茶碗一杯強ならどうかと思うが。
二つあるドーナツの半分をかじったところで空腹感が消えたので食べ終わった。
最近は朝から寝て夕方起きて夜は茫然を繰り返しているので完全昼夜逆転生活となっている。
図書館にも行けないので本もない。
暇だなぁと考えていると、ようやくお望みのものが聞こえてきた。
良い子よお眠りよ、母なる大地に抱かれ、暖かい太陽と優しい月に照らされた神に愛された我が子らよ。
父がよく歌っていたので知っている。何故父が知っていたかは知らないが、それも宗教関連だろう。
深追いはしたくない。
早く出ようと扉を開けて靴を置くため視線を下に落とした瞬間、視界に人の足が見えた。
ハッと見上げると、光のない目を開けて歌っている例の加護を受けた少女が立っていた。
白いルームウェアを着て髪は雑に下ろされている。
いきなり来たので肩を震わせ、勢いよく後ろに下がった。
脈が飛び跳ね胃が痛くなってくる。
何をどうしていいか分からず、ただ見つめ合っていると少女が中に入ってきた。
歳下だが身長は相手の方が高い。
歌ったまま見下ろされ、静かに手が伸びてくるとヒヤリと冷たい手が頬に触れる。
『我が女神の箱庭へようこそ。とても可愛らしい子だわ。いつかこちらに遊びに来てね』
「……は、い……」
『あと、あの子。あ、やっぱりいいわ。貴方に会いに来ただけなの。ヴァイオレットお姉様をお願いね』
「な…………」
ヴァイオレットは死の女神、神と女神を統べる女王的立場の女神だ。
確か、ヴァイオレットは幼い姿だが五大神の中でも二番目に古く、花の女神や海の女神、太陽と月の神を育てた女神だったはず。
何故ヴァイオレットが出てくるのか。
呆然として頭の中に大量の疑問符が浮かんでいると、花の女神はにこりと笑ってスっと抜けていった。
少女の体が崩れ落ち、慌てて抱き支える。
人の体とはこれ程重たいのか。いや筋力がなさすぎるだけか。
何とか関節を痛めない方に伸ばし、ここからどうしろと絶望する。
そもそもどこの寮の人だ。
歳も性別も関係なく、奥も手前も知らんこっちゃと言わんばかりにぐちゃぐちゃに配置されているのでこの人がどこの人なのかなど知らない。
花弁が落ちているのは何故か入口からだし、そもそも知っていたとしても五キロの米で筋肉痛になっていたアヤネには到底運べない。
これは起こしてもいいのだろうか。
力的な何かでしばらく起きないとか眠りより気絶に近いとかなんだとかあるのだろうか。
というか、いっそこのままアヤネの寮に寝かせてアヤネが外にいればいいのでは。
それしか手段がない。
終わった後の疲労感とストレスでアヤネが放心していると、左側の細い通路から足音が聞こえ、灯りが徐々に近付いてきた。
これは閉めた方が良い奴だと警笛が鳴ったので、女子の足を挟まないようにドアノブに手を伸ばすと同時に反対から開けられ、ドアノブは遠のいた。
「……どういう状況?」
「夜中に女子の部屋に来んな零点男」
いつか夜中にやってきた時と同様に隈が無く、パッチリくっきり二重でウェリントン型の黒眼鏡をかけた黎冥は倒れている女子と座っている女子を見下ろした。
一人はほぼ失神に近い形で倒れており、一人はいつも通り睨んでくる。
「歌が終わって目が覚めたから安全確認しに来た。なんで寮に呼んでんだ」
「開けた瞬間いたの。まだ一歩も出てない」
「そうか。ご苦労さん」
アヤネにランプを渡し、倒れている女子を横抱きにした。
アヤネからランプを受け取ろうと見下ろすと、アヤネは靴を履いて外に出てくる。
「なんで出んの」
「お前が何するか分からないから」
「そんな信用ない?」
「微塵もない」
先日、指輪で脅されたこと、未だに忘れていない。
アヤネの中で黎冥への評価は下がる一方だ。
今、一番新しい更新が、夜中になんの躊躇いもなく女子の部屋に来る変態。
脅された事の更新は、自分の欲のためなら他人を脅すヤツ。
下衆もビックリな低評価だ。
「……なんで睨まれてんの」
「てか寮に送ったとして開かなくない?」
「本人の繋がった手さえあれば」
繋がった、というところが重要なのだろう。
狂師ならではの言葉選びだ。
「女経験ないの?」
「あれ見てないと思うか」
「遊んでたんだ……」
「そうはならないだろ」
「何人?」
「四」
「四股?」
「蹴り飛ばすぞ」
浮気されたのは自分の方だろう。
そう言い返して見下ろすと、まさに死人顔をしていた。
「私の時間……」
「なんで執着してたんだか」
「知らない」
アヤネは大きく深い溜め息を吐くと、ようやく寮が見えてきた。
扉が半開きで外に布団が垂れている。
本当に夢遊病のような感じだったのか。
二人が話しながらもうすぐ着くという時、当の本人が目を覚ました。
「ぅん……」
「あ、起きた」
「もうすぐ着くけど」
裸足なのでこのままと言う選択肢が選ばれた時、女子は状況を理解したのが大声を上げた。
「えっれっれ黎冥先生!? あれ!?」
「五月蝿い」
「着いた」
アヤネに入るなと言われたので寮に下ろし、軽く脱力した。
非力が多い研究者に人一人は辛い。
「おやすみなさーい」
「えっあのっ……」
アヤネは躊躇いなく扉を閉めると本人の前で失礼な態度を取る黎冥の脛を蹴った。
「女子の前で失礼すぎる」
「何が」
「下ろした瞬間脱力って重かったですって言ってるようなもんだし。女子が体重気にするって知らないわけ?」
「嫉妬? 抱っこぐらいならするけど」
「触んな気色悪い」
ふざける黎冥を蹴り、ランプを返した。
「じゃ、さよなら」
「どこ行く気」
「着替える」
「暗いだろ」
「別に……」
いや本当に、片目見えない上に重度の乱視で昼間でも眼鏡なしは危ないのにそこに暗さが加われば怪我したいと言っているようなものだ。
「そんなに危なくない」
「昼間でも怪我してんだろ。黙って歩け」
アヤネの背を押し、二人で更衣室に向かった。
「……ねぇ」
「何」
「なんで隈ないの」
なにげに一番気になっていることを聞けば、黎冥は一瞬動きが鈍くなった。
何かと思って見上げればすぐに答えが返ってくる。
「寝たから」
「無理がある」
「起きて数時間したら隈が酷くなる体質」
「じゃあお前出勤の三時間以上前に起きてんのか。私が六時に起きた時は目の下真っ黒だろ」
下手くそな嘘を吐くなと舌打ちすれば、黎冥は珍しく黙り込んだ。
前に素顔を見た時からなんとなく分かってはいた。
たぶんこのいい顔面といい地位を持っていても安全に暮らすためだろう。
顔良し力良し頭良し人望良し性格駄目なら、相当な面食いなら堂々と襲うかもしれない。
というか皆が黎冥を追いかけ回すのはこの素顔を知っているからだろうか。
それならもう隠す意味もないだろうに、おとなしく諦めればいいものを。
真横に隈で悩んでいる女子を置いて、実は嘘でしたは結構辛い。
「はぁ……ストレス……」
「そんなショックだった?」
「違う」
アヤネのこの痩せた体も目下の隈も痛む胃潰瘍も、全てストレスのせいだ。
そしてこんな自分が嫌いでまたストレスがかかるという負のループが起きる。
もう諦めたことがほとんどだが、こうして現実を突き付けられると少し憂鬱な気分になる。
早く寝よう。
黎冥に寮まで送られ、寮に入ったアヤネは布団にくるまった。
そして花の女神事件が解決したと知らされたのは、黎冥が花弁の研究にアヤネを使い倒している最中の時期だった。