20.舌
黎冥が散々セリョアを見下し、馬鹿にした結果、セリョアに片想い中の一立に平手打ちされた。
予想はしていたので驚かない。
想定外なのは舌を噛み切ってしまったこと。
痛い。
「いい音鳴るね」
「兄さんやり過ぎや……」
「口が止まらなかった」
「ちょうどいいじゃん。しばらく黙ってろよ」
「つーめた」
顔面蒼白のセリョアと引きつり顔の雯麟を連れてきたアヤネは黎冥の隣に立ち、不服そうに頬をさする黎冥を鼻で笑った。
二人は一度後ろに下がり、嫌がるセリョアとセリョアを落ち着かせる雯麟を無理やり前に出す。
「セリョア、大丈夫だから……」
「嫌です! 人を叩いて平気でいる人なんて! 人じゃありません!」
「セリョア様馬鹿にしたから叩かれたんだろ」
「それすら理解出来てない馬鹿ってことだよ」
「天然じゃなかったんだ」
「天然女子はもうちょい可愛い」
「黙れクズ」
アヤネは積み重なって黎冥の身長ほどになった木箱を登って座り、黎冥は耳鳴りがしていることに気付く。
これはいいところに入ったかもしれない。
後で痛み止めを飲んでおこう。
「セリョア、落ち着け……」
「離して下さい! いやぁ!」
「雯麟様、下がらせて下さい。五月蝿いです」
アヤネが声を掛けると、雯麟は小さく頷きながらセリョアを少し離れた物陰まで連れて行った。
奥に行けばアヤネの寮がある角だ。
「アヤネって意外と率直に言うのな」
「五月蝿いのって嫌いなんだよね」
泣くしか方法のない赤子はそれで生きているので全然良いのだが、話せて動ける大人が泣いているのは少々鬱陶しくなる。
泣いてもいいが叫ぶな。
うずくまってもいいが物陰で。
自分の感情で他人に迷惑をかけるな。
「厳しっ……。……泣き虫が言えることじゃないだろ」
「零、ちょっとこっち来い」
「絶対蹴る気だろ」
下がった膝下をぶらぶらと振り、その真下を指さす。
この状態で蹴られたら脳震盪が起こる気がするので断る。
「アヤネちゃんって案外毒舌なんやね」
「いやひねくれてるだけだろ」
「頭蹴り飛ばすぞ」
「やめろ」
アヤネは木箱を飛び降り、黎冥の隣に着地する。
「このお二方はいつ帰るんですか」
「セリョア様と雯麟様取り返したら」
「雯麟様はセリョア様の言いなりなんでしょ。書類だけ移したら返すのなんて簡単じゃん」
「シュルトを即帰国させたお前が一番頼りになる」
「人を操ってこその自立」
何言ってんだこいつ。
黎冥が白い目でアヤネを見下ろすと、同じような目で見返された。
「意味も理解出来ない馬鹿なのかな」
「しばらく仕事三倍にしてやるよ。喜べ」
「嬉しくねぇわ」
稔想が後ろで小さく笑い、黎冥は楽しそうな稔想に視線を向けると、絶望して何も聞いていない一立と理解出来ていなさそうな副校長に手を振った。
「それじゃあ書類だけ送りますので。二人は明日か明後日には帰します」
「あ、あの……黎冥様は中心校には……」
「えぇ、気が向いたら」
「本当ですか!? それでは、アヤネ様も!?」
「気が向いたらですよ。腐蝕事件後の中心校には、いや元々ですけど、一切信用は置いていないので。気が向いたら」
それは一生向かないやつだ。
ちゃんと察し取れた副校長は項垂れ、一立を引きずって校内を出て行った。
小さく手を振って見送ると、後ろから拍手が聞こえてくる。
「凄い! あの副校長を撃退した!」
「さっすが圜鑒くーん!」
「るい、あんたよくも生徒の前で醜態晒せるわね」
「帰れよ……!」
手を下ろし、振り返ると三人を睨んだ。
相変わらず顔面だけはいい両親に、だいぶん離れたところにいる紑蝶。
その後ろに縮こまった生咲。
「仕事中に来んな。てか仕事中じゃなくても来んな」
「圜鑒君、前の会食で帰っちゃったじゃない? あの後大変だったんだから」
「どうでもいい。帰れよ」
もう泣きたくなってきた黎冥が眉を寄せると、春飆は人差し指を立てて左右に動かした。
「そういうわけにはいかない。今日は重要な話し合いだからね」
「じゃあさっさと行け。いちいち構ってくんな」
「圜鑒、親に向かって……」
「俺に向かって指図すんな」
重要な話し合いなら黎冥家として参加するのだろう。
圜鑒は黎冥として参加する気はないし、そもそも参加する気がない。
もしするとしても黒の序列一位か教師として、アヤネの師匠としてだ。
黎冥次期当主としても、黎冥家長男としても参加する気はない。
参加するなら黎冥圜鑒として参加出来る立場でだけ。
「まぁいいや。アヤネ、後で水持ってきて」
「はいはい」
首を押える黎冥に違和感を覚えたアヤネはおとなしく返事をして、稔想と話しながら寮に戻る黎冥を見送った。
少し不満そうにする家族三人を放置してアヤネも寮に帰ろうと角に差し掛かった時、マントを掴まれた。
見下ろせば、うずくまって泣いているセリョアが雯麟に背をさすられながらアヤネを見上げている。
「セリョア様、騙すのは男だけではないんですよ」
それだけ言うとマントを払って寮に帰り、濡れてシワになったマントをタオルで挟む。
黎冥の部屋で干させてもらおう。
制服に戻ったアヤネが、紙コップに入った水と、腕にかけたマントを持って行くと、黎冥は鏡の向かいに座って口を開けていた。
「何してんの」
「口ん中切れた」
「何やってんだ」
また職服に戻っている黎冥に水を渡し、クローゼットからハンガーを取り出すとマントを掛ける。
「どうした」
「掴まれて濡れてシワが出来た」
「災難だな」
「お互い様」
「口内炎になる気がする」
「白く腫れたら噛んで潰そう」
「え……?」
ベッドで本を読んでいた稔想と黎冥の小さな声が重なり、アヤネは誤魔化すように笑った。
時既に遅し。
「……アヤネちゃんって時々怖いこと言うね」
「そう?」
「兄さんに影響されてきてんちゃう?」
「最悪……」
「風評被害なんですけど」
「自業自得だろ」
アヤネは稔想の隣の黎冥側に座り、薬を飲んでから舌を出して薬を塗る黎冥を眺める。
「舌長くない?」
「え、はひ?」
「見せて見せてー」
稔想もアヤネの後ろから黎冥を横顔を眺め、小さく頷く。
舌の半ばを切ったのだろうが、限界かは知らないがべーっと出して舌先が顎先辺りまで来ている。
普通は下唇下か、顎上あたりのはず。
「……こっち見んな」
「舌長い人って滑舌ええんやろ」
「へー」
「興味無さそうやな。舌長い人ってキスが上手いらしい!」
「関係ないだろ」
「兄さん上手い?」
「……試す?」
黎冥が舌を見せながら笑って稔想を見ると、稔想は俯いて耳を赤くしながら拒否した。
兄弟間でそんなんやるか。
「稔想って案外初々しいよね」
「いいじゃん可愛い方が得する」
「顔面の代わりか」
「馬鹿にしてる?」
アヤネの言葉に兄弟の声が揃い、アヤネはゆっくりと首を横に振って否定した。
「あ、横も切れてるし……」
「大丈夫?」
「思ったより切れてた」
重ねて噛んだか、噛んだのと擦り切れたのか。
どっちでもいいが痛い。
口内の怪我は久しぶりなので気になって余計に痛みが増す。
少々反省しよう。
「アヤネちゃんはキスしたことある?」
「えーどっちかな」
また面倒臭い会話を広げ始めたと稔想を見ると、アヤネの顔を覗き込んでアヤネは真顔で顔を逸らしていた。
「経験なしか」
「え、そうなん?」
「その顔はなしの顔」
「……真顔やん」
「ある時は逸らさず当たり前って言うだろうし」
「わー……完全に読み切ってる……。……ないん?」
「ないね」
当たった。
あれだけ男を捕まえていても、やはり駄目男を量産していたのでキスする雰囲気などあったもんじゃないはず。
それに本番の年になってからこっちに来てしまったので仕方がないか。
「完全になし?」
「えー……襲われてやられたのは二、三……四……五……六回……七回ぐらい?」
「今度護身術でも教えてやるよ」
「アヤネちゃん人気やもんね」
「駄目男が集るごみ箱だろ」
「最低な例えだな」
間違っていない。
いないし、どちらかと言えば的確だが、それでも人の喩えに使う言葉ではなかろう。
ゴミ箱て。
捨てられるのではなく、自ら迎えに行くのでどちらかと言うと掃除機かもしれない。
両方有り得るか。
「……あんだけ囲まれてたのになしってちょっと面白いな」
「なんか接点あったっけ」
「焼肉の帰りのさ」
「……あぁん……」
アヤネの元彼、元々彼、元々元彼がよりを戻しに言い寄ってきて、欛虂にやられていたあの時だ。
アヤネが来て、まだ数ヶ月も経っていない頃。
「保身だから傍に置いとくだけで効果あったから。それ以上も以下もない必要なかったというか」
「自分で依存って言ってたくせに」
「優しくされたら依存するんよ」
悟ったような風に当たり前のことを言うアヤネを見下ろして呆れていると、突然稔想がアヤネを押し倒した。
黎冥は一切動揺せず薬を片付ける。
「じゃあ俺が優しくしたら依存する?」
「え、いや……」
「兄さんの方が好み?」
「いやそれはない」
「羽鄽君に応えんの?」
「それも……ないかな……」
「シュルト様?」
「ない」
「それじゃあ俺でええやん? 一生尽くすし従うで?」
「おい弟暴走してるんだけど」
「しーらね」
どうでも良さそうに薬を片付けて、刺繍の準備をする黎冥を睨んでいると、頬を掴まれて上に向かされた。
「ちょっと……」
「よそ見禁止」
「……零も羽鄽もシュルトも論外だけど。稔想もないから」
「えぇ? 一番気合うやん? アヤネちゃんの好きなように変わんで?」
アヤネは、別に自分の好みなどどうでもいい。というかない。
口を酸っぱくして言うが、最も望むのは平々凡々の何も劣っていないし優れていない男。
ただ、そんな男を百人集められたとしてその中で選ぶとしたら、
自分の芯を持っていて
どれだけ誘っても乗らず、
自分の信念に忠実な人。
稔想の信念がアヤネの好きなように変わる事と言うなら別に止めも嫌がりもしないが、アヤネの恋愛対象からは外れるし好みからも外れる。
アヤネ本人が芯を持っていないので、相手の芯に勝手に沿ってしまう。
それに慣れて動いているのに、相手からも寄り添われたら調子が狂うなんてもんじゃない。
アヤネがアヤネじゃなくなる。
「……それじゃあ俺に惚れたら俺に寄り添ってくれるってことか!」
「だから……!」
「稔想、そんぐらいにしとけ」
「えぇーん?」
「もし本気ならホテルでも行ってこい。俺の部屋でやんな」
「……行こっか!」
「一人で行ってこい!」
アヤネは稔想を蹴り、ベッドから抜け出すと怒って部屋を出て行った。
黎冥はそれを見送り、稔想はベッドにあぐらをかいて頬を膨らませる。
「もぅ! 兄さん〜! アヤネちゃんと仲介してやぁ!」
「俺は仲人じゃねぇよ」
「仲人になって!」
「知り合いなんだから自分で頑張れよ」
今のアヤネの場合、どれだけ頑張ってもなびかないと思うが。




