2.尾行
ある日の夕暮れ。
アヤネは古びたソファとチェストの間に身を隠し、口を塞いで息を潜める。
五月蝿いほど脈が跳ね、視界が点滅し始めた時、チェストを挟んだ後ろから足音が聞こえてきた。
段々近付いてくる足音が別人である事を祈りながら息を殺していると、最も近付いたであろうところで足音が止まり、影が被さった。
「……いくら第十九校分校が地震で散乱したからと言ってここに来る理由はないでしょう、セリョア様?」
寝不足で熟睡のところを叩き起された不機嫌黎冥はマントを掴んでくるアヤネの頭に手を置きながら、職員室の真ん中に立つ黒い神服を着たセリョアを睨んだ。
「セリョア、圜鑒さんの弟子に……」
「断る。存在価値がない奴に時間を割く意味がない」
「セリョアは黒です。絶対お役に立てます!」
「アヤネに取り付きたいだけだろ。……来るなら雯麟様の弟子になって教師にしてここに就かせる事ですね」
「分かりました! 雯麟様でもシュルト様でも頼んでみます!」
セリョアはそう言って敬礼をすると、アヤネの頭をひとしきり撫でてから布に身を包んで学校を出ていった。
黎冥はずっとマントを掴んでくるアヤネを見下ろす。
「変なのに気に入られすぎ」
「人の縁はどうしたら切れますか……」
「縁の女神にでも祈れ」
「……それは逆に遊ばれる奴では?」
何かに勘付いたアヤネが顔を上げると黎冥は静かに視線を逸らし、シワの付いたマントを伸ばす。
「中身で気に入られてんだからいいだろ」
「女神のような微笑みって言ってるからな。パーティードレス選ぶ時に体見て引いてたし」
「そりゃ……なぁ」
「見たことあるような反応すんなよ」
いや、アヤネのは見た事はないが拒食症の人は何人か見ている。
肋は全て浮き、腕も足も骨と筋肉の境が分かるほどに肉も脂肪もない。
ウエストは異常に細く、肩の骨や背骨も骨盤もくっきり見える。
肌は乾燥し、体温が低く低血圧。
脈も弱く、時々不整脈にもなる。
精神病のため心因性目眩や偏頭痛を伴うことが多く、中には吐きすぎるせいで逆流性食道炎等を発症している人も。
昔、授業に出なくなって保健室で医者を手伝っていた時に知った情報だ。
あとアヤネが来てから調べたものも。
寮に帰る途中の道で雑談をする。
「……アヤネってたこある?」
「無理やり吐くことないし。吐く時は吐くけど吐きそうな時は食べないから……」
「自発的に吐くことはないんだ」
「ダイエットじゃなくて家庭環境で胃が受け付けなくなっただけだし」
アヤネの肩に腕を置き、アヤネはそれを払い落としながら黎冥を見上げた。
「零って童顔だよね」
「そう? なんか……良くも悪くもいい顔としか言われない」
「童顔で鼻高いってズルいよ」
「お前に言われたくない」
アヤネは大人系の顔で、ぱっちり二重に白い肌と高い鼻、血色のいい綺麗な唇。
理系なら誰しも測りたいと思う黄金比。
「髪切ろうかなぁ」
「ミディアム以下は似合わない」
「そんなことない」
「絶対無理」
「無理ってなんだよ」
結局のしかかってくる黎冥を放置し、伸びた横髪を触る。
今度切りに行こう。
と思い、そう言えばとまた黎冥を見上げる。
「髪伸びないよね」
「切ってるもん」
「定期的に切る派か」
「まぁ……三週間から一ヶ月に一回ぐらい?」
短髪が嫌いなので長めに切っているのだが、前髪が眉下目上の長さなので放置するとすぐに伸びて目にかかるのだ。
これ以上視力を落とすと研究に支障が出る。
「まぁそんぐらいがいいよねぇ……」
「ずっと切ってないだろ」
「前髪だけ自分で切るけど。後ろは失敗したら地獄だし」
黎冥はアヤネの髪を梳き、髪質を見る。
かなり手入れされているが、ストレスのせいか白髪と枝毛が多い。
普通のところは潤いがあってキューティクルも締まった綺麗な髪だ。
天使の輪もはっきり見える。
「俺切ってあげようか」
「遠慮する」
「言っとくけど俺、自分の髪自分で切ってるからな」
黎冥がそう言うとアヤネは足を止め、黎冥の周りをぐるぐると回り始めた。
先程から、そんな毎月定期的に出掛けている日などあったかと疑問に思っていたがまさか前も後ろも自分で切っているとは。
「……無駄に器用な奴め」
「人に髪触られんの嫌じゃん」
「自分がされて嫌なこと他人にやるなよ」
「皆にそれはお前だけだって言われたんで」
確かにアヤネも嫌ではないが。
そんな嫌がる人はあまりいないとは思うが。
これが触ってくると妙に抵抗感というか嫌悪感と言うか、そんなものが湧き出てくる。
表現しにくいが本当に静かに離れたくなるような気持ちになる。
「女子の髪切ったことあんの」
「慧と紑蝶なら」
「遠慮しとく」
「なんで!」
「誰でも何でも遠慮しとく」
黎冥はつまらなさそうに口角を下げ、すっかり定位置になったようにアヤネの肩に腕を置く。
ちょうど二人の身長が小顔一つ分ほど違うのだが、そのせいで腕を置くのに肩がちょうどいいのだ。
ちなみにアヤネは鬱陶しがるには鬱陶しがるが、肩を組まない限り一回払うか払わないかであとは放置する。
肩を組むと歩きにくいので二人とも納得した体勢だ。
それでも歩きにくいにはにくいのだが。
アヤネの手元を覗き込んだりしながら歩く時は便利だったりする。
「なーんか面白い話ない?」
「紑蝶から手紙の返事が来たって話する?」
「その手紙貸して」
「断る」
「貸せよ」
黎冥はアヤネに体重を掛け、アヤネは断固拒否しながら黎冥の身体を押し返す。
これに貸したら最後、絶対に捨てられるので死んでも貸せないし貸す気は微塵もない。
もし可能性があるとしたら手紙が役目を終えたあとだ。貸さないが。
これに貸したらシュレッダーに掛けられてゴミ箱で発見されるという無惨な光景が容易に想像出来る。
いや、もしかしたら水で破られるか。
これは暴走癖があるのでそれの牽制に使う。
黎冥はひとしきりアヤネに圧をかけた後、溜め息を吐きながら足を止め、静かに振り返った。
ついにか、とアヤネも振り返る。
「お前らは何してんの?」
堂々と後を付けてくる慧、兎童、北校校長の真惢。
物影に隠れながら付けてくる稔想と羽鄽。それと紑蝶も。
「君ら……距離近くないか」
「黎冥アヤネちゃんに触んな……!」
「るいくん大きくなったねぇ!」
「兄さん彼女いるんやろ……!?」
「え〜! るいくん彼女いるんだぁ!?」
「すごい美人で職業医者の!」
「逆玉の輿!?」
五月蝿い姉弟め。
黎冥は顔をしかめ、アヤネは首を傾げる。
「なんでるいくんなの」
「るいがって顔じゃないでしょ」
「るいがって顔やろ」
「お前に蝶も似合わねぇよ」
「美人に蝶は当たり前でしょ!」
「たいして美人じゃねーじゃん」
「お前彼女にフラれろ!」
「もうフリました」
皆が固まり、紑蝶と稔想は飛び出すと黎冥の肩を掴んだ。
隙を見て羽鄽はアヤネを避難という名の独占をする。
「なんで! 別れたん!? 可愛い彼女やったやん!」
「会ったことないだろ」
「フったの!? フラれたんじゃなくて!? 依存しなかったの!」
「毎回してるみたいに言うな」
「してるやん!」
「してねーよ! てか離れろ! 邪魔!」
女性陣は微笑ましそうにそれを眺め、アヤネと羽鄽は複雑そうな表情を浮べる。
「るいくんが女の子に触れるようになったことにこの間驚いたばっかりなのに! 彼女がいたなんて!」
「兄さんモテるやん! 顔いいし頭いいし! 意外と優しいし!」
「優しくはないでしょ!」
「五月蝿い離れろ! 餓鬼扱いすんな! あと稔想は失礼なん気付いとるか!? 姉さんは失礼と言うかただ馬鹿にしたいだけやろ!」
「あ、戻った〜! なぁなぁ彼女何人目なん? 遊びやったん?」
「いや一年で婚約って言われたら誰でも無理とはなるやろ。絶対嫌や」
「……それは……まぁ……そうやな……」
「私は全然いいけど! 逆玉の輿なら持ってこいでしょ!」
「俺の方が年収も月収も高いの! 俺の年収超えてる女はほとんど社長ぐらいやろ! 社長でもギリギリや!」
黎冥は腕にくっついて来る紑蝶を振り払い、稔想は黎冥の肩に腕を置いて揺さぶる。
黎冥は稔想に対してはされるがままだ。
親と姉が共通の敵というのはあながち間違ってはいないのかもしれない。
それと、いい加減やめてくれないだろうか。
もうこっちが恥ずかしくなってきた。
「てか姉さんはなんでおんの!? 帰れよ!」
「あ、そうそう! アヤネちゃんにメイク術を伝授してもらいたくって!」
「家帰れよ! 妻鹿さんに聞け!」
「やだ〜。あの人鬱陶しいし家行きたくなーい」
アヤネは首を傾げ、黎冥は小動物が威嚇するように紑蝶を睨む。
稔想は黎冥の頭に手を置いて撫でるだけだが、それも叩き落とされた。
「お前は何がしたいの?」
「兄さんイライラしすぎ。カルシウム不足ちゃうん」
「お前が苛立たせてること自覚しろや。いくら稔想でもやるにはやるからな?」
「ご……ごめんやん……?」
黎冥は稔想の胸ぐらを掴んで威圧し、紑蝶は羽鄽からアヤネを奪った。
稔想がおとなしくなると黎冥は紑蝶からアヤネを奪い取り、嫌な笑みを浮かべる紑蝶を睨む。
「夜中にしろ。仕事するから」
「嫉妬かなぁ?」
「迷惑だよ」
短時間で色々振り回されたアヤネは息を吐き、皆に腕を引っ張られて痛くなった肩を押さえた。
唯一、黎冥だけ首根っこを掴んできたが息が詰まりかけたのもまた事実。
「紑蝶に反抗したら黒歴史晒されるんじゃないの。手紙にあれだけ書けたんだからまだまだあるでしょ」
「俺の黒歴史そんなにないからな? あと頭の回転が遅いから仕返しに関しては問題ない」
「全部聞こえてそうですけど」
「聞こえて速くなるならいくらでも言ってやる。絶対俺の方が勝るから」
確かに回転の速さなら皆に勝るだろうが。
「その性格が治らない限り全人類に負けてるよ」




