5.助手の初仕事
「……うん、胃潰瘍ね。ここがただれて血管が切れてるの」
「……そうですよね……」
礼拝法を教わった後、黎冥に騙されて保健室で胃カメラをされた。
何故保健室にこんなものがあるのか聞けば、力を持たない一般信徒は卒業するまでここから出ることはほぼ不可能なので保健室には病院並みの施設が備わっているらしい。
どうやら壁をすり抜けて出入り出来るのは聖なる力によるもので、力持ちの信徒と手を繋げば出られるがそんな事をしてくれる優しい信徒は滅多にいないのでほぼ出られない、と。
出るのはいいとしても入れなくなるのでやらないそうだ。
胃カメラを入れられたアヤネは先生が説明してくれるのも興味無しにずっと口を押えている。
「……じゃあ薬出しとくね。身長体重は?」
「耳塞げ」
「お前軽いだろ」
「耳塞げ」
「な……」
「耳塞げ」
軽かったとしても絶対言いふらされるので聞かせられない。
アヤネが同じ事を繰り返すと黎冥は仕方なさそうに耳を塞ぎ、そっぽ向いた。
「百四十九の三十九です」
「軽っ……! ちゃんと食べてる……!?」
「拒食症なんで……。ちゃんと食べてます」
いや正確には夜しか食べてないが、そこを言う必要はアヤネの中では無いので黙っておく。
「それならいいんだけどね。……じゃあ待合室の窓口で薬渡すからね」
「はい」
アヤネは立ち上がると待合室に戻った。
ここは入口からの直線道のT字路を左に曲がった突き当たりの右に位置する場所だ。
T字路を右に行けば教室等に、左に行けば保健室に、後ろに行けば食堂や広間、職員室に囲まれた入口に行ける。
この迷路も徐々に覚えてきた。
「鼓さん、とりあえず二週間分出しとくので薬がなくなったらまた来てください」
「はい」
「お大事に」
「ありがとうございました」
二度と来る気はない。
どうせ放置しておけば治るのだ。
アヤネは薬を受け取ると踵を返した。
「授業ないの」
「基本午後から」
「あっそう」
「お前、授業出てないだろ」
「だいたい分かるし。……あいつどうなった?」
「兎童に引き渡した」
兎童に引き渡して厳重処分を頼んだ。
弟子を罰することが出来るのは師匠だけだ。
いい加減その杜撰さは直せと言ってある。
「……ねぇ」
「何」
「人の縁ってどうやったら切れんの?」
突然何を聞くか。
アヤネを見下ろすと不機嫌そうな目で睨み返された。
いや本人は睨んでいるつもりはないのかもしれない。
ただ、胃カメラ後の最悪な機嫌で人を見上げれば不機嫌に睨んでいるように見えるだけ。
大切なのは周囲からの見え方だ。
「こっちから離れるか相手から嫌われるか他人に仲介してもらうか……」
「……人って嫌い」
「極論すぎる」
「面倒臭いじゃん……女子のドロッドロの裏側とか異性間の問題とか」
「生きてる間はずっとそうなる」
「毎日馬鹿にみたいに笑って遊んでる人が哀れに見えてくる」
「それは末期だろ……」
黎冥に今日の午後の授業は出席しろと言われたので教科書を持って理科室に向かう。
T字路を左に曲がって保健室がある突き当たりを左、行くとすぐに階段があるのでそこを降り、後ろに回り込んだ扉が理科室。
木製の引戸を開けると、何人かの子供が集まっていた。
皆がこちらを見る。
黎冥はローブの代わりに白衣を着て教卓に座っており、紫の液体が入ったフラスコを回していた。
「あ、来た」
「塩酸……」
「正解。ここに水酸化ナトリウムを入れる」
「なんで食塩作ろうとしてんの? 海水結晶化させて干したらいいのに」
「ここは化学教室ですけど」
化学と言いながら木造教室の壁には蛇が詰まった瓶やネズミの死骸、棚に置かれたケースにはフェレットや生きたマウス、水槽には魚や貝、大きな黒板の右側には男女の人体模型、左側には振り子時計ほどの幅の薬品棚があった。
「なんで呼ばれたの……」
「助手」
「帰っていい?」
「手伝え」
「実験嫌い」
「研究者の弟子だろ」
早く来いと言われたので教科書を持ったまま教卓の方に行った。
生徒は七人。
四人用の大きな机が三つ並んでおり、教卓から見て左から三二二で実験の準備をしていた。
濃塩酸と水酸化ナトリウムという事は六年か。
「何やんの」
「濃塩酸と苛性ソーダ混ぜる」
「だけ?」
「ちょっと黙ってろ」
呼び出して我儘すぎる。
授業の進行を邪魔する気のないアヤネは教科書を持って端によると教科書を読み始めた。
黎冥の授業はつまらなさそうだなと聞きながら色々と読んでいると、黎冥に呼ばれた。
「アヤネ、六年手伝え」
「はいはい」
教科書を持って中心の机の子を手伝う。
手伝うと言っても椅子に座り、危険がないかを眺めるだけ。
黎冥が事前に危険性とお手本を見せていたので皆も注意深く実験している。
アヤネが口を出すことは無さそうだ。
「……あ、先生! 緑になった!」
「それで成功な。記録書いて」
「はーい」
「蒸発は?」
「やりたきゃやっとけ」
「面倒」
アヤネはまた教科書を読み始める。
「アヤネさんは何年生?」
「高一」
「黎冥先生の弟子なんでしょ? 実験嫌いなの?」
「過去の色んな人が研究結果出してるからね。未知の生物の解剖とか爆発物の実験なら……」
「小六に何言ってんだ」
教科書が頭に乗り、上を見上げると呆れ顔の黎冥が立っていた。
「黒板書け」
「自分でやれ」
「黎冥先生の字は読めないから。あれはほぼ線。達筆にもなってない。筆記体でもあんな書かないよ」
「らしい」
「ただの無能だろ」
アヤネは黎冥に書くことを聞きながら慣れた手付きでチョークを走らせる。
「じゃあ次の内容は……苛性ソーダでAI溶かすか……」
「先生……」
「水酸化ナトリウムでアルミニウム溶かす」
「AIって何?」
「アルミニウムの略称みたいなもの」
黎冥が教科書を読んで聞いていないので代わりにアヤネが答える。
この教師、こういうところがあるから不評な気がする。
いや不評の噂は聞いていないがこの様子なら不評だろう。
アヤネが元素記号について説明していると、ようやく黎冥が顔を上げた。
「お前知ったかぶりしたいの?」
「一発殴らせろ」
「教育に悪いなぁ」
黎冥はアヤネの両腕を掴むと次の内容を知らせ、持ち物を書かせてから少し早いが授業を終わった。
「ありがとうございましたー」
「次忘れ物したら塩酸飲ませるからな」
「狂師……」
アヤネが小さく呟くと荷物を持った六年が集まってきた。
「アヤネ先輩は次も来る?」
「アヤネさん元素記号教えて!」
「高校ではどんなことやるのー?」
六年に質問され、黎冥は次の準備を始めたのでアヤネは戸惑いながら答える。
こんな大勢と話したのはいつぶりだろうか。
黎冥が片付けを始め、終わりのベルが鳴って少しすると教室の扉が開いた。
「黎冥先生〜昨日ぶりー!」
「おーいちびっ子は次行けよ〜」
「誰あれ」
次は高校生だろうか。
六年が元気に出ていき、アヤネも出て行こうとしたら黎冥に帰宅禁止令を出された。
「次は高二な」
「予習しかしてない」
「言われた通り動いとけ」
二対八人の授業が始まり、生物の遺伝子について教えていく。
ここは実験教室と言うより理科室に近く、座学も実験も全てここでやるようだ。
黎冥の問に対して誰も答えなかったら一番後ろの角に座って教科書を読んでいるアヤネに振ってくる。
アヤネも合っているかどうか分からないので正直答えたくない。が、知らないと言えば馬鹿と言われるので腹立つ。
何故この教師は見た目も中身も零点なのに人気なのだろうか。
級色の関係か。
信徒はそんなに力が重要なのだろうか。
力を持ち得ない信徒もいるのに何故か。
前に力持ちの信徒が力を貸すことは無いと言っていたが、それの延長線上で何か、やはり力の優劣に関する差があるのかもしれない。
今度司書の藥止さんにでも聞いておこう。
アヤネが頬杖を突いてフェレットと睨み合っていると、また頭に教科書が乗った。
「サボるな」
「私関係ないじゃん……」
「他学年の授業受けられるなんて滅多にない。有り難く受けとけ」
「忙しいんで構わないでもらって」
「究極の暇人だろ」
人を暇人扱いするな。間違ってないけど。
口角を下げ、フェレットから黎冥に視線を移した。フェレットが檻の中で暴れるが無視。
「で、何」
「黒板書け」
「無能め」
「生まれつきだ」
アヤネは立ち上がるとチョークを持ち、黎冥が話す速さに合わせて黒板に書き始めた。
時々図や式が出てくるのでそれも付け加えて。
時々黎冥の教科書を覗き込んでいると、黎冥に無言で渡されたのでおとなしく受け取っておく。
予備があるのかなと思いながら黒板に書いていると、黎冥が何も見ずに教科書と全く同じことを言い始めた。
皆、それを必死にノートに写している。
「で、細菌の遺伝子が……」
黎冥の声に被せるようにベルが鳴り、全員がペンを置いて脱力した。
「先生難しい〜!」
「もっとゆっくり説明してくれ……」
「読み返したら分かるだろ」
「分からないから言われてんだろ……」
教科書を置いて手を洗うアヤネの呟きに耳ざとく反応し、アヤネを睨んだ。
「分かってんだろ」
「全員が私と同じ頭をしてたらいいね」
「自慢?」
「私より馬鹿なお前が理解出来てることに驚きって言ってんの」
アヤネがそう言うと黎冥が額に青筋を浮かべた。
その他の女子が顔を引きつらせ、男子たちはゲラゲラと笑う。
「気つよ〜! 先生のカノジョー?」
「助手」
「書類上の弟子」
「あじゃあ噂の!? 師匠に反発するって罰則怖くねぇの!? 最悪師弟関係消されんぞ!?」
「別に。私が望んだわけじゃないんで」
アヤネは黎冥に渡された教科書を本棚に押し込み、貼られていた遺伝子ポスターを巻いてダンボールに挿した。
「……黎冥先生が望んだってこと?」
「そうです」
「俺名義の推薦だからな」
「え……えぇぇ!? 色仕掛けじゃねぇのぉ!?」
「こんな奴に色仕掛け仕掛けるなら死んだ方がマシ。なんなら今すぐ死んでやる」
アヤネが黎冥を指さして男子生徒を睨むと男子生徒は顔を引きつらせ、他の生徒は驚きでざわめく。
「アヤネに色仕掛けは無理だろ。相当物好きじゃないと」
「黙ってろ零点男」
「怖〜」
二人が喧嘩し、色々あって黎冥が荒ぶりアヤネが煽っていると大きく扉が開いた。
「黎冥先生! 来たよ〜!……なんだブスちゃんもいる」
学校の第一問題児がいらっしゃった。
もう放課後なので来てもいいが会って一番に貶すのはどうだろうか。
「黎冥せんせーい、放課後お出かけしよぉ?」
「くっ付くな奪」
「照れなくてもいいよぅ!」
「邪魔」
「ドライだなぁ。クールでかっこいいけどね!」
「うるさっ……」
もう帰ってもいいだろうか。
アヤネが茫然としていると高二の先輩達は各々帰り始めた。
あの二人に付き合うのも嫌なので帰って買い物に行こう。
化粧品が切れたので新しく買わなければならない。
早く帰ろう。