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4.二時の惨事

 最悪な夢を見た。



 物心つく前から宗教じみていた父が教祖になった時の夢。


 母は寺を建てた出費に発狂し、怒り狂う母に父は指図するなと暴力を振るい、結局母が瀕死になった時の夢。



 家の中を走り回って母が逃げていたので自分は父にクローゼットに押し込められ、父のコートに染み付いた煙管の臭いで気分が悪いのを我慢して息を殺しながら泣いていた。




 いわゆる過去夢というもの。

 こんな狭い空間で、座ったまま寝ていたからだろうか。


 睡魔に負けてアラームもかけなかったせいで夜中の午前二時。

 絶対怒られる。




 体を起こし、またみぞおちが痛く胸焼けのような気持ち悪さが出てきた。


 喉がおかしな伸び方をしていたせいで戻した時に咳が出た。




 口を抑え、みぞおちが痛いまま咳をすると、何故か知らないが吐血した。


 一瞬の混乱が起こり、頭の中で色々と弾いた結果、たぶん胃潰瘍。

 いや知らないが腹部の痛みと吐き気と吐血は胃潰瘍の気がする。違っても知らない。



 口をハンカチで押え、咳き込みながらローファーを履き、スカートを整えた。



 寮を出る頃には咳は止まっていたがまだ気持ち悪く、みぞおちが痛い。



 胃酸が逆流したのだろうか。

 みぞおち付近に鋭い激痛が走り、吐き気と同時に暗闇に包まれた廊下に座り込んだ。


 顔面蒼白で目が潤むのが分かる。

 早くトイレに行って手を洗おう。


 ついでに吐けたら吐こう。



 そもそも胃の内容物がないから吐けないし吐瀉物の代わりに胃酸が上がってきたのか。



 黎冥(れいめい)の、始めの寮選びで運を使い果たしたという話を思い出しながらまだフラフラする足で立ち上がった。



 よろめき、何とか一歩を踏み出すがなんせ気が遠くなる距離だ。

 なんなら寮に戻った方が早いまである。




 結局座り込み、症状が収まるまで待とうとした時、どこからか足音が聞こえてきた。



「アヤネちゃん……?」


 ランプのオレンジ色の光が見え、顔を上げる。



 ハンカチで口を押さえたまま見上げると何故か詩渚(しいな)が駆け寄ってきた。



「大丈夫……!?」

「し、いなさん……。……大丈夫、です……」


 正直大丈夫ではないが助けを頼んだら確実に何かされるので大丈夫と言っておく。


 が、こんな状態の人に大丈夫と答えられ、そっかならまた明日といくほど馬鹿ではない。



「無理しんといて! どっ、どうすればいい……!?」

「……だれ、か……呼んで……」

「こ、この時間やしねぇ……。……俺手伝うわ! どこ?」

「……じゃあ、トイレまで……」



 そろそろ限界になってきた。



 目に涙が浮かび、ほぼ全体重をかけながら本来なら二分ほどで行けるトイレまで数十分かけて行き、とりあえず出せるものは全部出した。



 酸化して赤黒くなった血だったが気にしない。


 血まみれの手を洗い、口もゆすいだ。



「大丈夫?」

「はい、助かりました」

「ほんならええんやけど……。顔色もだいぶん良くなったね」



 そう言って頬に触れられ、そちらを見ると同時に唇にキスされた。


 やっぱりと思い、詩渚の唇を噛んで離れる。


 これも計画かたまたまか、入口と個室の間に手洗い場があるのだが、アヤネは詩渚の左側、つまりは個室側にいるのだ。


 トイレから逃げるには詩渚の隣を通らなければならないが無理だ。

 狭すぎるし痛いし気持ち悪いし吐きそうだしもう踏んだり蹴ったり。




「あんまり驚かへんね。察してた? 慣れてたら受け入れるよなぁ」

「こっち来んな」

「威勢はええね。察してたのに逃げへんかったってことは覚悟はあったってことやろ?」

「違う!」

「大きい声出すと人くんで? それとも見られたい派? 俺はええで?」



 そう言ってゆっくり近付いてくる詩渚と距離を保ちながら後ろに下がる。




 しかしすぐに壁に当たり、詩渚がニコリと笑った。


「いい子やね」

「気持ち悪い……!」



 壁に背中をつけたまま顎を掴まれ、爪が痛いのを我慢して必死に顔を逸らし、腕で押し返そうとする。

 が、その腕も虚しく両腕ともに掴まれて横に逸らされた。



「離れろっ……!」

「いい加減諦めえな。無理やよ、そんな抵抗しても」



 目に涙が浮かび、首が引っかかれるのも他所に大きく抵抗していると歪んだ視界の端に誰かが映った。




 誰か捉えようと歪んで細くなった目を微かに開いた時、また誰かがやってきてなんの躊躇いもなく中に入ってきた。




「ストップ」

「……誰やあんた」

「お前が大嫌いな黎冥先生だけど」




 眼鏡の印象がなくなり、隈が消えて重い瞼は二重に、目がぱっちり開いている。



 二重と隈の有無でずいぶんと印象が変わるものだ。



「何カッコつけてんねんウザイわ」

「夜中に女子襲う奴が何言ってんだか」




 黎冥は言い返してこようとする詩渚の脛を蹴って黙らせ、座り込んだアヤネを見下ろした。




「アヤネ、大丈夫……ではないか」




 アヤネはローブの袖で口を押え、震える手で黎冥のローブの袖を掴んだ。




 正直、頭の中では予測していたしもう慣れたと思っていたが心では怖かったらしい。


 顔面蒼白で涙が浮かび、震えてきた。

 足がすくみ、混乱と恐怖で焦りながら動かない足を叱咤する。




 何故袖を掴んだかも分からないし動いてほしい足は動かないし気持ち悪い痛いしもう最悪だ。




 せめて手だけでも離せ。

 黎冥ならたぶん置いていくのでその後から立てばいい。

 早く離せ。





 アヤネがゆっくりと腕を下ろすと、黎冥が向かいにしゃがんで頭に手が置かれた。



「よしよし」


 頭を撫でられ、ふっと何かの糸が切れた。




 ぼろぼろと涙がこぼれ、黎冥を睨む。


「えっなんかごめん……」

「うっさい……。……帰るぅ……」

「う、うん……」



 黎冥に差し出された手を借りて立ち上がり、詩渚を引き取った黎冥とはトイレ前で別れてから一人で寮に帰った。





 最悪。

 夢見は悪いし体調も悪いし人付き合いも気分も感情も全てが最悪。



 明日は寮に引き篭ろう。もうしばらく外には出たくない。







 そんなことを考えて眠りに落ちた後の朝。

 誰かに頬をつつかれて目を覚ました。


 誰か、この寮を開けられるのは二人しかいない。

 そして二人のうち、一人は寝ていたので実質一人。





 目を開けて眩しい明かりに照らされるそれを睨み上げた。



「勝手に開けんなよ……」

「声がっ……」


 しゃがんでいた膝を押して突き飛ばし、体を起こすとジャージのフードを被った。

 髪がボサボサなので応急処置だ。



 前髪をピンで止め、角に置いてあったタンブラーで水を飲む。



「……で、何の用」

「昨日来なかったから」

「寝てた。すみませんね」

「気持ちの篭ってない謝罪はいらない」

「じゃあ出てけ。せめて十分後に来い。ついでに兎童(とどうさんに今の話全部言ってこい」




 たぶん、こいつは無自覚だ。



 と、思ってそう言ったが、戻った隈と重い瞼に眼鏡顔の黎冥は立ち上がるとローブを払った。



「女子捨てたかと思ったけど」

「ねぇ師匠ってどうやったら変えられる?」

「あ、認めた?」

「書類上の話な。勘違いすんな」



 アヤネは櫛で整えると鏡を見ながら髪を編む。

 今日はハーフアップにリボンを付けた。




「ねぇ、身支度する時ぐらい閉めたいんだけど」

「諦めろ」

「は……?」



 ここは普通に他人がよく通る場所なので視線が痛い。

 黎冥は人気者だしこんな寮を開けっ放しにしている人など滅多にいないので皆が見てくる。



「本当に……」

「入ったら怒るだろ」

「貴方が職員室で待つという選択肢はないんですか?」

「二度寝防止」

「出てけ変態零点男」



 アヤネは顔を顰めて舌打ちをすると立ち上がり、スニーカーを履いた。

 寝る時は万年ジャージだ。


 普通のパジャマは気に入るものがないのでいつもフード付きのジャージが多い。




「呼び出しの用って何」

「力の使い方と祈りの方法。でもその前に保健室」

「なんで? 怪我でもしてんの。一人で行ってよ」

「お前だよ」



 二時の惨事を忘れましたで済ませる気はない。


 黎冥が見下ろすとアヤネは口に手を当て、顔を逸らすとそっぽ向いていても分かるほど顔をしかめた。




 数秒後、静かに戻す。




「どうせ胃潰瘍だから問題ない」

「それが問題だろ。吐血したんなら血管切れてるし」

「問題ある?」

「重度で胃に穴が空いてるかも」


 それ、発見したら面倒くさい事になるやつではないだろうか。



 アヤネは一秒にも満たない速さで最善の案を絞り出した。


「よくなるから問題ない」

「じゃあその問題だらけの体検査して記録取っとけ」

「遠慮しとく」

「強制な」




 更衣室はT字路の交わる中心にあり、男女で別れた大部屋で、女子の方は大部屋の周りにロッカーがビッシリ並んでいる。


 番号を確認して鍵を開けて中を開け、黒タイツを履いてからスカートを履いた。



 靴下は着脱自由らしいので履かず、リボンとローブを整えてから外に出た。


 ここは部屋以外は基本土足で、教室や寮に入る時だけ靴を脱ぐ。



 なので移動中は白ローファーだ。




「お待たせしました」

「行くぞ」

「保健室以外で。どこ?」

「ほけ……」

「帰る」

「待て待て待て」



 本気で寮に足を向けるアヤネの腕を掴む。


「分かったから。祈祷室な」

「……はい」


 ふざけなかったら素直に付いてくるのだが、なんだろうか。



 このノリが嫌いか、本当に嫌われているだけか。



 黎冥が悩んでいると、向かいから(ふい)が歩いてきた。



「おや、黎冥。朝に出てるのは珍しいね」

「秘学の実技」

「あぁ、つずみちゃんは工具以来だね」

「工具ありがとうございました。助かりました」

「お礼はアイスでいいよ」

「はい」



 がめつい教師め。





 黎冥は呆れると慧に別れを告げ、地下の祈祷室に向かった。



 二人だけなので一番小さい部屋でいい。

 それでも十分広いのだが。



 祈祷室の床は木ではなく大理石となっているので非常に冷たい。




「神はどこまで覚えた?」

「空の神から死の女神まで」

「五大神は?」

死生命時星(しせいめいじせい)。死の女神、生の神、命の神、時の女神、星の神」

「十分」



 アヤネの加護はまだ不明だが、信徒として生きる最低限の知識なのであって当然なのだ。



「そこ座って」

「正座?」

「膝立ち」


 中央を指さされ、何も分からないのでとりあえず言われた通り中央に膝立ちになる。




 祈祷室は正面に五大神の彫刻が飾られており、横にその他の神の彫刻がそれぞれ並んでいる。


 ここは青白い光で、先程のオレンジとは一風変わった雰囲気だ。




「秘学の教科書の一ページは?」

「覚えてる」

「指組んでそれを言えばいい」




 小さく首を傾げながらも頷き、言われた通り腕を組んだ。







 我ら神に仕ふる人の子、信徒にて神に祈りを捧ぐ。

 神の御加護を、女神の恩恵を、我ら信徒へ。

 聖なる力用いわたり救ひ給へ







 下からふわりと風が起こり、髪が浮いた。




 体の中から何かが抜けていき、抜けていくのと比例して風が強くなる。







「……アヤネ、終わり。手離せ」



 そう言われ、組んでいた手を離せば風は収まり、抜ける感覚が止まった。




 黎冥が寄ってきて顔を覗き込む。



「気分は?」

「普通……」

「頭痛いとか」

「ない」

「……お前の方がバケモノかもしれない」


 わけが分からず、黎冥に手を借りて立ち上がり、髪を整える。






「普通は今の量取られたら気絶するんだけど……」

「今のが聖なる力?」

「そう。アヤネの中にある聖なる力が神像に捧げられた証拠。体が軽くなっただろ」

「うん。ちょっと違和感があるけど……」

「今のが礼拝法な。加護の足りない土地でやるのも同じ感じで出来る」



 加護の足りない土地は適当な広さの空き地でこれをやるらしい。

 聖なる力がある限り、神は応えてくれる、と。





「それじゃ特別授業は終わり」



 そう言って、黎冥に手を引かれ祈祷室を後にした。

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