38.船旅、その一
十月二十六日から十一月九日まで、船旅が続く。
陸を行くと三ヶ月近くかかるらしいので船で横断だ。
毎年、遭難や難破を懸念するが今年は特に不安な様子は見せていない。
だってこの船には海の神に引きずり込まれた女の子がいるんだもの。
「磯臭……」
アヤネは押し込まれた自室で丸まり、ずっと布団と体で鼻を覆っている。
慣れない磯臭さと潮の匂いでやられ、今は窓も扉も締め切って引きこもっている最中だ。
皆、下のボートに降りて泳いだり釣りをしたり、船の底から海底を眺めているらしいがアヤネはそんな事は出来ない。
この船、土地の祈りに行った時よりも磯の匂いが染み付き、海の匂いが伝わってくるので気分が一向に良くならない。
と言うのも、最近は食べられるようになってきた朝食時に早津と南校に飛ばされたらしい委に肉やらパンやらを押し付けられ吐いた後だ。
また吐きそう。
ここには北校生徒も南校生徒もいるので知らない顔が多い。
いや本校ですら毎日知らない顔がいるのだが。
胸焼けと不快感と磯臭さで気分も体調も最悪。
不幸中の幸い、同じ廊下内にトイレがあるので、また吐きそうになったらすぐ行ける。胃は空だけど。
胃酸まで吐きそうな勢いで、いやまぁ吐いたのだが、口をゆすいでトイレを出ると黎冥がアヤネの部屋の前に立っているのが見えた。
顔色の悪いアヤネを見付けると少し駆け足で寄ってくる。
「酔った?」
「食べ過ぎ……」
「朝は食べれるようになったんだろ」
「痛い……」
黎冥に支えられながら部屋に帰り、胃酸で荒れる胃を押える。
水は飲んだ方がいいのだが飲むと確実に吐くのでただ耐えるしかない。
薬もあるが飲んだ傍から吐くので無理だ。
三十分か、一時間弱ほど黎冥に背をさすられているとようやく落ち着いてきた。
「……胃が痛い……」
「吐かないならぬるま湯飲んで胃酸薄めた方がいいけど」
「……た、ぶん……」
「吐くなよ?」
アヤネは高校の黒なので少しいい個室だ。
二段ベッドにシャワールームと小さなキッチン的なものもある。
冷蔵庫と電子レンジとトースターがあるだけだが、それでも紙コップや割り箸は設備されているし何か買ってここで食べることも出来る。
ただ、二週間の旅ということで 弁当等はないらしい。
食堂でパックに詰めてもらってそれをここで食べる、と。
面倒臭いし目立つ。
黎冥は紙コップに水を入れてレンジで軽く温め、アヤネに渡した。
「船なんかではしゃぐタチじゃないだろ」
「早津と委がいた」
「……今晩からは俺も付き添う」
「お願いします」
黎冥は今朝、生徒人数の確認を終えた後に同乗している鳴嬪と羽鄽と墓千に振り回されて朝食を食べ損ねたらしい。
黎冥は変な時間に食べたし、アヤネもこの胃ではしばらくは食べられないので次は夕食だ。
「食える気しねー……」
「糖分塩分水分は摂れよ?」
「分かってるけど……気持ち悪いぃ……」
胃を押さえて机に突っ伏すアヤネと話しながらベッドに座る。
上のベッドが荒れているので、わざわざ上のベッドを使っているのだろう。
下は座っても問題あるまい。
「そういや一番重要なのはどうなったの」
「今重要なのが三つ思い浮かんだ」
「誕生日はどうでもいい、序列も適当」
「引き抜きか」
それは黎冥の人脈で頑張った。というか鳴嬪を釣って。
鳴嬪の友人が中心校にいるので黎冥とアヤネを巻き込んで共同研究で引きこもればいいよねという話になった。
研究室は地下の薄暗い地下牢を改造して作ったらしいので人は滅多に立ち入らず、入口にも鉄柵と南京錠が二つかかっているようなので問題はないだろう。
後は黎冥の執着心による話術で何とかしろと言われたが、言ってはならない単語が含まれているのでアヤネには黙っておく。
「その地下牢に降りてきたらどうすんの?」
「研究室な。……降りてきても別に問題ない。契約書本書は持ってきてるし契約自体に引き抜かれないよう細工してあるからアヤネ側から破棄しない限り」
師弟契約条項第四項。
鼓純音、黎冥圜鑒ノ師弟契約八鼓純音ガ卒業スルマデ破棄禁止トスル。
同契約第五項。
第四項ノ例外トシテ、鼓純音本人ノ意思デ契約破棄ヲ宣言シタ場合、破棄八黎冥圜鑒ノ意思二関係無ク破棄サレル。
同契約第六項。
鼓純音、黎冥圜鑒ノ師弟契約二他者ガ介入スル事ヲ禁ジル。
同契約第七項。
第六項二基ヅキ、鼓純音、黎冥圜鑒ガ第六項二触レタ時点デ師弟契約八永久二破棄不可トスル。
同契約第八項。
両者ノ意思無ク他者ガ介入シタ場合、其ノ者ハ死の女神ノ契約二背イタト看做シ、鼓純音ノ意思ヲ用イテ処分スル。
「て、事でお前は何があっても絶対、冗談でも言うなよ」
「これ零側からは出来ないの?」
「俺側から出来るようにしたらアヤネ人質に取られたら終わりだし」
「あぁ」
弟子は師を選ぶ権利があるためアヤネ側からは破棄出来るようにしている。
他人はこの契約に関われないし黎冥も後出しでとやかく言うことは出来ない。
完全アヤネ有利の条件だ。
「……この第八項は?」
「罰則に関すること」
「なんで私の意思で?」
「いや俺の意思でもいいよ? いいけどその場合は会社も人もどんどん潰れて死んでくけどいい?」
「……いや、これでいい」
「うん」
ちなみにこれとは別に星の神の契約で他者の上書きと他の契約からの条項破棄、条項追加を縛っている。
これも神の加護がないと出来ない契約だ。
師弟関係はアヤネ有利の契約だし主にアヤネの契約なのでアヤネの名で死の契約を結び、星は黎冥の名で結んだ。
加護が強い方と神石を持っている方、と思って時と星は黎冥で結んだが、アヤネがあの神石を持っていたならアヤネの名で結んだ方が強力だったのかもしれない。
契約を結ぶ名の加護が弱いと簡単に破れるし他者の上書きや他の契約書からの条項いじりが簡単になる。
まぁ黎冥より強い力を持つのはアヤネともう一人だけなので問題ないか。
「ベッド借りるー」
「は?」
黎冥は下のベッドに寝転がると、腕で目を覆ってそのまま眠り始めた。
アヤネは真顔になり、普通ここで寝るかと何度も疑っては確認する。
部屋帰れよ。
瞬間脱力して寝息を立て始めた黎冥に溜め息を吐き、下の布団は敷いて動かないのでアヤネが使っていた布団をかけた。
もう十月末、少しずつ冷えてきた頃だ。
ここで体調を崩されたらアヤネも困るので一応。
もう無理やり食わされるのは嫌だ。
「食パンは?」
「最近は八枚切り一枚なら食べ切れるようになった。前は……十を半分くらい?」
夕食時、まだ食欲が戻らないので丸パンの半分を黎冥に渡したところからパンの話が始まった。
黎冥は少食だが普通に六枚切り一枚は食べ切れる。が、拒食症が酷い時のアヤネは十枚切りを半分で吐く寸前だったらしい。
「あれって食べすぎたから吐くの?」
「いや胃になんかが入ったら反射的に吐く。たまに飲み込む途中で吐いて窒息しかける時もあるけど」
それも中学一、二年の一番酷い時だ。
ここに来て量が調節出来るようになり、徐々に慣らした結果食べる抵抗が減った。
そもそもダイエットどうちゃらで食事制限を始め拒食症になったわけではなく、家庭環境の変化によるストレスで食べれなくなったのだ。
最初は気持ち悪い母親の料理を受け付けない潔癖的な何かと思っていたが次第に自分の料理すら食べれなくなり、気付けば市販のものでも食べるのに抵抗が湧いていた。
それが拒食症の始まりだが、そこから平均体重から十五キロほど減り、二十キロ前後になった。
母に病院に連れていかれ、拒食症と言われたがその後の通院もカウンセリングも全てサボって着々と体重を減らし、貧血低血糖常備の体を手に入れた。
「で、親の恋人に食わされて吐いてを繰り返して……」
「待て、それ以上は食事中の会話じゃない」
「食べ終わったじゃん」
「俺が食ってるだろうが」
肩を竦め、皿を重ねてから空いた机に腕を置く。
窓辺の二人席で外は星空と真っ黒な海が、丸いテーブルを挟んで向かい合って食べている。
ちなみに生徒の外出時間をすぎているため誰もいない。
わざわざ弟子を連れ出す師はこれを除いていないし師も仕事中だろう。
黎冥は先に仕事を終わらせたので遅れたと言っていた。
まぁ師弟セットなら罰則もないし特に気にする事はないだろう。
「そういや羽鄽に弁当作った?」
「うん」
「何弁当?」
「普通の。なんの代わり映えもしないただの弁当」
「あそ」
最後のパンを頬張り、二人でコーヒー片手に雑談をする。
「そういや委って南校飛んでんでしょ。なんで?」
「この前の罰則。問題児抑えて来いって送り出した」
「本音は?」
「校長が三校の中で一番厳しい。消しゴム一個盗んだだけで即停学だし」
あそこでしっかり教養を入れて願えば帰ってこなくていいのだが、慧の弟子の手前そうもいかないので帰ってきたら適当にあしらって突っぱねよう。
あれと関わる価値はない。
「こっわ」
「ちなみに本校の校長も南校の校長に停学くらってる」
「それはどうでもいいわ」
夜が明けた翌日、アヤネは割り当てられた部屋で目を覚ました。
二等室のダブル部屋なので隣の部屋は教師たちだ。物凄く五月蝿い。
朝まで酒盛りか、夜中中ずっと騒いでいたのだ。
黎冥はもう一つ上の一等室のシングル部屋らしい。
黒の教師の黎冥なので校長よりもいい部屋だが、本人はほぼ部屋にいないので手に余る、と。
アヤネは黒で黎冥の弟子だが、弟子と高校生なので二等室。
三等室でも相部屋でもいいので静かな部屋がよかった。
大きな溜め息を吐き、睡眠妨害のストレスで左手首を引っ掻く。
睡眠障害完治以来、四六時中眠りを妨げられるのは無理やり食べさせられる以上のストレスがかかる。
まともに眠れなかった眠気と騒音の迷惑で無意識に続けて手を引っ掻いており、着替えようと意識が手にいった時には既に血まみれになっていた。
痛みがないから大丈夫と、溢れる血を布団に付けないように起き上がった。
あくびをしているとノックが鳴り、黎冥の声がする。
「アヤネー」
「着替えるから待て」
「おそ」
放置しておけば血の凝固力でなんとかなると止血もほどほどに制服に着替え、ローブを肩だけ羽織って扉を開けた。
「……袖血まみれですけど」
「今から洗いに行く」
「なんでそうなる」
「引っかいちった」
「お前なぁ……」
トイレの水道で傷口をすすぎ、血が止まらないと察すると早々に服の汚れを落とす方に専念する。
タンパク質を分解するしょうがかパイナップルがあればよかったのだがそんなものは無いので無理やりこすって落とす。
「なんか苛立ってない」
「一睡も出来なかった」
「船酔い?」
「隣の部屋がうるせぇんだよ……」
黎冥が勝手に蛇口を止め、黎冥の部屋に連れて行かれた。
「はいタンパク質分解酵素」
「なんで持ってんだ」
「腕怪我してるから血抜き用に」
そう言って右の前腕だけワイシャツをめくり、内側を見せた。
何をどうしたらそんなことになるのか、十センチ前後の大きな傷にガーゼが当てられ包帯で止められていた。
少し血が滲んでいる。
「なにやってんの……」
「まさか歩いてる途中に切られると思わんだろ」
「刺されなくてよかったね」
袖を染み抜きしてもらい、色が白に近くなった数分後、食堂から甲高い悲鳴が聞こえてきた。




