28.日常その二、稔想
十日間滞在した北校から帰って三日。
アヤネの眼帯も無事に取れ、今は黎冥弟と行動することが多い。
兄の方は忙しいし引きこもりだし引っ張りだこなのでアヤネに四六時中、付いていたくてもいられない日が続いている。
弟の方は医学部を卒業し、医者になっていたが帰国時に辞めたらしいので今は暇人だ。
眼科医になれる無職というなんとも珍しい人。
アヤネの視力も回復してきたが、完全に見えない左目と重度の乱視に術後のぼやけが加わって距離感も輪郭も分からない状態なので付き人は必須。
弟君がずっと付いているので、今のところ大きな怪我はしていない。
「……で、兄さんはどうしたん」
「何が」
腫れた目に黒い隈を浮かべた圜鑒を見下ろし、元々悪い目付きがさらに悪くなった圜鑒は稔想を見上げる。
「全体的に。特に目元」
「……あぁ、目立つから瞼腫れさせて隈描いてる。目立つから」
「二回言わんくてええよ。兄さん顔も頭も性格もええもんな」
「お前の顔が欲しい」
「おん馬鹿にしてんのか」
目立たない顔、つまり普通の顔。
黎冥だが次男の突出した才能もないただの名前だけだった稔想に対して、常に注目の的だった兄からの物欲は大抵馬鹿にされたものだ。
それか金がない時。
「あ、そうや兄さん。なんかいい職ない? 俺無職のままやったら餓死するわ」
「医者でいいだろ」
「嫌や。自由に生きたい」
「……看護師?」
「病院関係に就かせんとって!」
圜鑒が首を傾げ、稔想も悩んでいると職員室の椅子に座っていたアヤネが口を開いた。
「教師は〜? 案外自由そうだよ」
「給料低い割に激務だけど」
「別にここじゃなくてもその頭なら教員免許ぐらいすぐ取れるでしょ。てか眼科医免許あるならだいたいの会社で通用するよ?」
アヤネの言葉に圜鑒が頷き、二人で稔想を見上げると稔想はキョトンとした顔で圜鑒を見下ろした。
「会社では免許なんかいらんやろ?」
「駄目だこいつ馬鹿だった」
「医者の資格あるくせに」
「言い回しが聞かないノンバーバルコミュニケーションの出来ない男は無理。社会に潰される」
「人は潰されて育つ」
「子供が何言ってんだ」
二人のトントン拍子の会話に稔想は目を瞬き、ふはっと笑い出した。
「兄さんが女子と話してる〜!」
「人間が嫌いなだけであって普通に話せるし話すからな?」
「アヤネちゃん、兄さんは優良物件やで!」
「え、いや遠慮します……」
「フラれたな」
「俺彼女いるって言ってなかったっけ」
隣から見下ろす稔想に顔を向けず、頬杖を突いたまま向かいの壁だけを眺めてそう言うと、本当に初耳だった稔想は今までで一番大きな反応を示した。
「う、うぇぇ!? 兄さんが!? また二股されてんちゃうの!? 金蔓!?」
「黙れ」
脛を蹴り、机に置かれた手を殴ると稔想は絶句したまま頷く。
圜鑒は目の据わった顔で稔想を見上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「俺は二股されたことは無いし金蔓になる前に取り返して別れてる。どっかの誰かみたいに依存してフラれてないから」
「慧せんせーい! 教師以外でも師匠って出来るー!?」
「できるよ」
「よし」
「待て待て待て」
圜鑒は立ち上がったアヤネを制し、稔想は小さく笑った。
「俺は弟子は取らんよ。兄さんに恨み殺されたくないもん」
「そんな怨念強くないと思うけど」
「おとなしい顔ほど侮るなかれ。この人凄いで? ほん……」
「稔想、元カノに執着して襲ったお前にだけは言われたくない」
薄く笑って稔想を見上げれば、稔想は笑顔を歪めて圜鑒を見下ろした。
「彼女毒殺しようとしたやつが何言うてんの」
「してねーよ! 妄想話すなアホ!」
「キャー怒った〜!」
圜鑒が勢いよく立ち上がると、圜鑒より身長の高い、百八十近くある稔想は割と本気で逃げてアヤネの後ろに隠れた。
咄嗟に嘘を吐いた黎冥は呆れたまま椅子に座り直す。
「……何の話だっけ」
「稔想さんの就職の話でしょ。飛びすぎ」
「あーそうそれだ」
と言うか職員室でこんな騒いで、迷惑だ。
ようやく勤務時間も終わったので圜鑒は書類をまとめると立ち上がった。
「え、黎冥兄、仕事は?」
「終わった」
「……早くないかい」
「早く終わらせたからな。お先でーす」
圜鑒は稔想を掴むとアヤネの背を押してとりあえず自室に連れて行った。
稔想は寝泊まりする場所がないので圜鑒の部屋に泊まり、圜鑒のベッドを奪って寝ている。
圜鑒は椅子で座り寝だ。
「あ、部屋片付いてる」
「この間断捨離しといた」
「兄さん、ヴァイオリンある? 聞きたい!」
「捨てた。……違う売った。六万で」
「ろっ……!? あれ二億するやつやで!?」
「そうだっけ。通りでいい収入になったわけだ」
全く興味がなかったのでたいして思い出しもせず売っぱらった。
ちなみに持っていたチェロもビオラもヴァイオリンも、本家に置いてあるグランドピアノもエレクトーンもギターも売った。
ここにある楽器は全て売ったし、本家にある圜鑒の楽器と言ったらコントラバスとハープぐらいな気がする。
「音楽家庭すぎ……」
「一気にやらされたせいで全部下手くそなまま終わってる」
「金賞取ってるくせに何言うてんの」
「あんなん子供の遊びだろ」
「本気でオーケストラ入団目指してる全子供達に頭擦り付けて土下座してこいアホ兄貴!」
稔想の怒声に圜鑒は耳を塞いだ。
アヤネを椅子に座らせ、神服を取り出すと刺繍の準備をする。
ちなみにベッドは稔想が占領済みだ。
「何するん」
「刺繍」
「三着目?」
「そう。原案どうしようかと悩み中」
ここ最近はバタついていたので全然進んでいない。
何気に研究のやる気が起きない日は刺繍に没頭することが多い。
アヤネのマントしかやらないが、マントが終わったらベストとスカートにも入れる気満々だ。
「兄さんってそんな趣味あったんや」
「一つのことに集中しないと全部やらされるし」
「まぁそやけど。こんな天才や神童やって言われてんのに研究に理解はないんやろ?」
「馬鹿だから何やってるか分かってないんだろ」
床にマントを広げ、アヤネが気に入ったらしい図案を見ながら下描きをする。
アヤネお墨付きの器用さで特にズレも歪みもなく下書き出来たので、図案にはないところに軽く描き足す。
縮小図案を拡大した時、どうしても大きくなってしまう隙間がダサいのが許せないのだ。
基本直感だが、単調にならないようには意識している。
「……アヤネ、これでいい?」
「なんにも見えない」
「じゃあこれでいいか」
「うん」
一着目でセンスと腕は信用出来たのでおとなしく頷き、その間にベッドで向かい合って稔想に術後経過を診せる。
「……うん、だいぶん良さそう。光とかぼやっとは分かるやろ?」
「うん。近付けばちょっとは」
「じゃあ大丈夫。じき見えるようになるわ」
少し安心し、無意識に入っていた肩の力を抜く。
「そや。兄さん、今度の科学研究会に俺も出ることなったから」
「ふーん」
「助けてや。俺小難しいこと分からんから」
「フィーリングで誤魔化しとけ」
「それが通用する科学者は科学者やないやろ!」
と言っても圜鑒も医学系はそんなのめり込んでいるわけではないので、医者の専門用語系は分からない。
圜鑒の本番は新しい発見や研究の類なのでそこは専門外だ。
出来るが。
「来週末……アヤネの目は見えるようになった頃か」
「ん? まぁ大体は見えるぐらいやけど」
「場所ってここの実験室だろ。よし、手伝え」
「はぁ? 迷惑なだけですけど」
「精密計算機係な」
いや人を機械扱いするな。
そしてそんな精密的確な計算は出来ない。
「まぁおかしいところがあったら日本人の御三方が助けてくれるから」
「……あ、前来てた人達? 好々爺と女々しい人と女好きの」
「うん間違ってないけど本人達に言うなよ? 鳴嬪さんはともかく墓千さんに言ったら泣くから」
「そこの区別は付いてますから」
ならいいのだが。
「信徒って科学者多いの」
「今の世代は特に、か。嫁陣さんが信徒兼科学者として有名になってから科学者になる人が増えた。元々、研究者になりたいけど教師とか家に入る人が多かったから」
嫁陣さんの前の世代は、信徒でありながら全く別の職に就くという事があまり一般ではなかったので嫁陣さんは変に目立っていたそうだ。
それを切り開いたのが嫁陣さんなので、今の若者科学者の巨匠と呼ばれている。
「あの人が唯一信頼出来る」
「三人の中で? ほ……」
「四人の中で」
圜鑒が首を傾げると、アヤネは開いた手を圜鑒に見せる。
「嫁陣さん、墓千さん、鳴嬪さん、零点」
「……俺より……?」
「信用は微塵もない」
「こんだけやってきて!? 警戒心高すぎだろ。いやそれ以前に嫁陣さんと会ったの一回だけじゃん!」
「一回会って軽く話しただけでお前より信用出来た」
「うわぁ凹む〜」
今回のリンチの件で守れなかったからか。
正直、本人よりも怒っていたのを抑えていたが無意味、逆効果だったのかもしれない。
どれだけ心配しても匿っても信用されないのか。
「……萎える」
「そんな凹む?」
「めっちゃ凹む。……稔想寝たし」
いつの間にかアヤネの後ろ側に寝転がって寝始めた稔想にブランケットを掛け、また椅子に座る。
と、同時に稔想の腕がアヤネを掴み、抱き寄せた。
状況が分からず混乱するまま倒れ、顔に熱が集まる。
「……助けて」
「信用されてないらしいし」
「ごめんて! 頼もしいよ! 助けて!」
「五月蝿い稔想が起きる」
そう言う対応が信用出来ないのだ。
アヤネが手を伸ばすと圜鑒は手を振り、稔想はアヤネの腰に腕を回して抱き着いた。
アヤネの初心な反応に圜鑒が笑っていると、アヤネは固まって身動きを取らなくなる。
「元カレと散々やってそうだけど」
「……帰ります」
「うん」
「しばらくは羽鄽と過ごすので」
アヤネは稔想の腕を退けて抜け出すと、スカートとローブを整えて去って行った。
扉が閉まると同時に稔想は起き上がり、圜鑒に笑ってみせる。
「やりすぎたかな」
「手出すなよ」
「兄さん彼女いるんやろ?」
「俺の問題じゃなくて」
「まぁ嫌がることはせんから心配しんといてや」
稔想はそう得意そうに笑うと、掛け布団の中に潜って今度は本当に眠り始めた。




