17.家族
月初と月央の間。八月の五日頃。
アヤネがいつもの報告会から帰り、校内に入るといきなり誰かに抱き着かれた。
ハッとして見下ろせば歳下の男女が二人、アヤネに抱き着いている。
「アヤネ先生ー!」
「アヤネ先生、こんにちは」
「あ、え…………?」
家庭教師を務めている二人はよく似た顔で笑い、奥から黎冥が出てきた。
「ソラ、ハル、挨拶」
「私やったもん」
「アヤネ先生こんにちは!」
「こ、こんにちは……。……なんでここに……」
「ルイ兄に会いに来たの。父さんと母さんもいるよ」
「アヤネ先生宿題出来た!」
黎冥昦瓈八歳。
黎冥長男の弟。
黎冥春纚八歳。
黎冥長男の妹、双子の姉。
二人はアヤネの手を引き、ルイ兄も掴むと職員室に入った。
「父さん母さん連れてきた!」
「あ、こんにちは」
「こんにちはアヤネ先生〜。息子達がお世話になってます」
「いえ……」
黎冥は弟妹に振り回され、アヤネはご両親に挨拶をする。
現黎冥社社長の遥飆さんと奥さんで大物女優、スーパーモデルの慕和さん。
「風の噂で息子に弟子が出来たと聞いて、同姓同名でしたからもしかしたらと思って。息子は近状報告を一切しないものですから……」
「たまたま家庭教師をお願いしたのがアヤネ先生だったなんて! 運命みたいですね」
「縁の女神のイタズラかもしれませんね」
「あらお上手!」
黎冥はアヤネと慧と兎童に助けを求め、見兼ねた慧と兎童が手を差し伸べた。
二人を抱き上げて学校探検に連れて行く。
「はぁ……」
「圜鑒、もうちょっと子供に慣れなさいな。教師でしょう」
「そんなんじゃ社長はなれないぞ」
「ならない! 俺は教師だし社長なんか絶対無理」
「長男だろ」
「第二子だし」
なんだろうか。何故師匠の親子喧嘩を見せられているのだろう。
驚きから急に冷めたアヤネは静かに職員室を出て制服に着替えた。
「だからぁ! 姉さんにやらせとけばいいだろ! 俺より高学歴だしお似合い!」
「女だと社会の並で劣るんだ! それこそ母さん並に美人じゃないと!」
「親の惚気に興味はない! そうやって男尊女卑が生まれんだよ! てか会社の中で後継させろよ! 優秀な人材だっていっつも自慢してんだろ!」
「大人数から選んだら僻みと嫉妬で秩序が崩れる!」
「知るか! それを正すのが社長だろうが! ソラにでも継がせとけ!」
「まだ八歳だぞ!?」
「社長になるぐらいなら死んだ方がマシ! 俺は社長にはならない!」
アヤネが寮を出るとそんな喧嘩が響き渡っており、周囲の生徒は怯えたり心配そうな顔で注目していた。
これは研究室に篭もるパターンだと悟ったアヤネが寮に逃げようとした時、黎冥に大きく呼ばれた。
「アヤネー、手伝え」
「……親孝行してろ」
「んな事より仕事だ仕事。収入が少ない」
「教師やってんのに」
「教師は副業感覚」
この金銭狂いが。
アヤネは黎冥のローブを受け取ると白衣に袖を通す黎冥を見上げた。
「弟妹はいいの、ルイ兄」
「苛性ソーダ飲ませんぞ」
「人殺し」
「人の心欠けてるらしいからな」
「開き直んなや」
アヤネも白衣に変え、角を曲がると階段を降りて研究室の鍵を開けた。
「地下からリン酸とクロロホルムとテトロドトキシンとアコニチン取ってきて」
「毒薬!」
「さー実験実験」
アヤネは上機嫌にラットを取り出す黎冥をジト目で見ながら体を返す。
階段の裏の下側にある回転取っ手を開け、梯子を降りる。
この学校は案外上下が広いようで、いやそれ以上に前後左右が広いのだが、結構階段や梯子が多い。
ここの地下は三畳ほどの小さな部屋だが全面に薬品の予備が置かれており、多くが黎冥の字で開封日が書かれている。
開封から半年以上のものは使わないらしいので、ちゃんと確認してから全て期限切れのものはダンボールに入れておく。
大きな瓶が四種類、しかも劇薬なので一本ずつ梯子の上に置いて行った。
梯子を上がり、扉を閉めてから瓶を持っていく。
「アコニチンの予備がこれと未開封一本だけだった。後は三本以上あったけど」
「また買い足しとく」
棚に入っていた空の瓶に移し、空になったクロロホルムの瓶だけ処理してダンボールに入れる。
「また解剖すんの」
「内臓一個取り除いてどこまで生きられるか実験」
「テトロドトキシンは?」
「アコニチンと混ぜたら相殺して効果が消えるらしい。結局分解の遅いアコニチンで死ぬけど。試してみようと思って」
メスと鉗子、鑷子、剪刀、持針器を用意し、ラットに計量済みのクロロホルムを入れると実験を始めた。
これが命の神に祈りを捧げていたのだから、世の中皮肉なものだ。
「そう言えば土地の祈りってどうなったの?」
「六日目で終わってたらしい。俺の力根こそぎ取られたし」
「祈り始めたぐらいから記憶ないんだよね」
「……不眠不休で七日間祈り続けてたからな。変に気に入られてたぞ」
「……私何してた?」
「命の神に遊ばれてた」
「どういう……?」
そのままの意味だ。
黎冥も二日目の途中ぐらいから記憶がないが、それまでは命の神がアヤネの髪を梳いて編んだり死の女神に愛を謳っていた。
それだけ。
黎冥は七日間眠らず祈っていたしアヤネは気絶して命の神のなるがままになっていた。
黎冥も三日目以降のその後の記憶はない。
気が付けば強制入院だった。
「圧で固まって死ぬ気で祈ってたから。今思えば入院中は精神病んでたかも」
「常に病んでるようなもんでしょ」
「それはお前だろ……」
黎冥は立ったままラットを改造し、アヤネは座ってそれを見学する。
人間の無惨な姿を見慣れたのでラットの姿も問題なく見れる。
「親と仲悪いの?」
「そんなことはないと思う。ほとんど話さないだけ。あとは仕事に口出ししてきたらお互いキレるけど」
「普段は普通?」
「なんで」
「弟子の前で親子喧嘩しないでほしい。こっちが恥ずかしくなる」
「……言うなや」
こうなりたくなかったから連絡していなかったのだが、何故こんなことになってしまうのだろうか。
誰が弟妹どころか夫婦で来ると。
姉のように神出鬼没になれば楽なのだが、なんせ定職に就いているため無理だ。
「お姉さん何してる人?」
「知らん」
「あそ。四人兄弟?」
「五。姉、俺、弟、妹、弟」
「多いなぁ……」
「姉は神出鬼没で次男は絶縁して海外に飛んだ」
「お前の過去もまぁ気になる」
ラットの腹を縫うと掃除をして、アコニチンとテトロドトキシンの計量をする。
小数点第二まで表示される測り器だ。
「そう言えば羽鄽とはどうなった」
「変わらずストーカーされてるけど特に変化なし」
「いつか覗きでもやりそう」
「覗かれるような所で着替えませんから」
それもそうか。
実験で精神を落ち着けた黎冥は結果が出るまでしばし放置する。
「社長の子供って英才教育なの?」
「まぁ……普通よりはいいと思うけど」
「おぼっちゃま?」
「ただの餓鬼」
アヤネに高二の勉強を教えながらラットの様子を見る。
「なんか特技あんの。楽器とか」
「特技……ん〜……好きじゃなくてもやらされてたから。ヴァイオリンのコンクールとかピアノ、フルートのコンクールで金は取ったけど」
「楽器だけ?」
「……あ、特技じゃないけど十四の時に難解文書の解読に成功したとか……?」
「何それ」
「五百か六百年前に書かれた言語の本。三百年間数文字しか分からなかったけど解読できた」
自分から聞いておいてなんだが、ここまで来ると自慢に聞こえてくる。
「急に何」
「なんで社長にならないのかなって」
「忙しいのが嫌いだから」
「理科の教師も忙しいじゃん」
「実験は好きだし寝る時間あるし」
「社長も寝るだろ」
「短くなりそうじゃん」
黎冥は破っても問題ない制限以外は受け付けない。
薬品の混ぜるな危険を混ぜないように制限するので精一杯だ。
アヤネに極端すぎると呆れられ、仕方がないと顔を逸らす。
昔からの性格だ。
「社長なんかより教師やってる方が面白いし。研究が出来なくても教師は続ける気」
「教師やってたら実験出来るから」
「正解」
両親と弟妹を追い払うように学校から追い出した夜、自室に帰った黎冥は久しぶりにクローゼットを開けた。
扉を背にして右にベッドと棚、正面右に机、左に一面のクローゼットがある。
クローゼットと言っても服はほぼなく、多くは小道具や楽器、有名人の子供だからと押し付けられていた物が多い。
そんな楽器を見る度に子供の頃の時間を無駄にしたと思っているが、いい加減処分したい。
処分して絶縁して社長強制から逃れよう。
しばらく家にも帰らなくていいや。
どうせ使用人に近状をしつこく聞かれて流石だの血が違うだのおべっかを使われるだけ。
姉からの手紙も来たし次期社長が決まるまで会わず、手紙も放置でいい。
アヤネの家庭教師も辞めさせて手伝いの給料を渡そう。
黎冥はジャージの袖を手のひらまで伸ばすとクローゼットの中を断捨離し始めた。