46.おかえり
風呂上がりで髪が濡れたままの黎冥がソファに寝転がって考え事をしていると、上から先程まで寝ていたはずのアヤネが覗き込んできた。
月明かりに照らされた青白い顔にはまた酷くなってしまったクマと少しやつれた頬、赤く腫れたまぶた。
「大丈夫か」
手を上に伸ばし、そこで気付いた。
自分の手、特に爪や指先がかなり荒れている。
伸びっぱなしの爪は割れたり二枚爪になったり、指先も腹の皮が剥けたり逆剥けが出来たりして酷いことになっている。
「帰ってきて一番に声掛けられなくて驚いたんですけど」
「楽しそうだったから」
「全然。女子の内側ってドロドロなんよ」
「知ってる」
アヤネに手を引っ張られ体を起こし、光の色で少し顔色の戻ったアヤネの頬を挟んだ。
「ハルから胃潰瘍が出来たって聞いた。クマも酷いしまともに食べれてないだろ」
「全然寝れてない。食欲もないし」
「ちょっとここ座って。……触るぞ」
アヤネの背に手を回すとみぞおち辺りを軽く押し、痛む場所を確認した。
案の定、二年前に出来た場所に再発に近い形で出来ている。
あの時も血管が切れて大変なことになったし、今も同じような状態か。
「保健室には?」
「行ってない」
「全然食べれない?」
「食べた後にちょっと痛いから……父さんに点滴打ってもらってた」
「栄養失調は大丈夫そうか。貧血は?」
「水とフルーツは食べるようにしてた。ふらつきもあんまないし」
「よし」
自分で栄養管理するようになっただけでもよかった。
たぶん今までだと面倒臭いの一言で貧血や低血糖、栄養失調で倒れて終わりだっただろう。
顔色は良いとは言えないが、気持ち悪さもその他体調不良も今のところないようなのでたぶん低血糖。
「どれくらい食べたら痛くなる?」
「えーと……りんご食べることが多かったけど半分ぐらいをちょっと急ぎめで食べてたら痛くなる。ゆっくりなら大丈夫だけど」
「常に慌てず食え」
「色々あったんよ」
とりあえず水分を取らせ、食事管理の表を脳内で作っているとアヤネが黎冥の手を取った。
赤く剥けた皮やボロボロの爪をいじる。
「とりあえず朝夕に食物繊維少なめのフルーツ何種類か食べて、昼には赤身の肉か魚。食べれたら他も食べた方がいいけど、拒食が出ても嫌だろうし無理そうなら点滴で補う。塩分は経口補水液か昼の料理な。……三食食べれそう?」
「朝そんなに食べなかったら大丈夫だと思う」
「拒食が悪化してなくてよかった」
アヤネの手から逃げて頬を挟むと、アヤネは笑ったまま黎冥の手を問答無用で剥がす。
「タンパク質、亜鉛、鉄分、ビタミン、水分不足。まともに食べてないせいで爪が割れるし二枚爪になる。乾燥は水分不足で普段保湿してる零が忘れてんのはやる気が出なかったから。睡眠不足と食生活の乱れで自律神経が乱れて逆剥けも爪も所々変色してる。クマも酷いし顔色悪いのはどっち? 私の事こんだけ分かってんなら自分のことも考えろよ、お師匠サマ」
弟子が怖い。
全て当てられた黎冥が図星で黙るとアヤネはムスッとして眉を寄せ、黎冥のアタッシュケースを開けると黎冥の普段から使っている保湿剤と薬を取り出した。
爪切りとヤスリも。
「先に夜食食べに行こう? お腹空いた」
「じゃあ切っといて。なんか作ってきてあげよう」
「アヤネが? やった」
「いつもの手に戻しとけよ」
「細胞再生速度を超えた要求すんな?」
どういう風の吹き回しだろうか。
黎冥は上機嫌のまま爪を切り始め、部屋を出たアヤネは自分の頬をつねりながら食堂の調理場に向かった。
この調理場は結構いろんな生徒や教師、用事でやってきた普通の信徒や事務の人も使ったりする。
衛生管理さえ守れば出入り自由なので結構使いやすい。
棚の中は一人一つの箱に仕切られていて、その箱も大きさや形は自由なのでそれぞれ違う。
その中に買った材料や隠しおやつが入っていたり。
奥の氷室にも同じような集合収納スペースがある。
二人とも夕食を食べていないので手軽に食べられて腹にも溜まるサンドイッチにしよう。
黎冥は野菜が嫌いだが味が嫌いなだけで調味料で隠したら食べるのでそれを駆使したサンドイッチ。
ちなみにトマトときゅうり、あとヤングコーンは食べられる。
甘みの強いミニトマトと普通のとうもろこしは無理。
バターにマスタードマヨのハムレタストマトサンド。
友人に教えてもらった照り焼きベーコンエッグサンド。
あとアヤネが好きなハムレタス。
あと昼に作っておいた甘さ控えめの桃のムースも。
甘くない生クリームで桃の甘さを緩和したスイーツ。
アヤネは甘すぎなかったらフルーツは食べられる。
でも品種改良で甘味を強くしたのは無理。
だいたい酸味が強いか風味が強いのが好き。
ほぼ一人分の夜食を持って部屋に戻ると爪を切り終えた黎冥が瞑想しており、アヤネに気付くと顔を上げた。
「お待たせ」
「……アヤネのサンドイッチって四角よな」
「三角の方がいい?」
「違いが分からんけど四角の方が具の偏りがない気がする」
「それは三角を作る人が下手くそなだけだろ」
黎冥はすぐに手を伸ばし、アヤネも向かいに座ってから水を入れて食べ始める。
アヤネのサンドイッチの形は耳を切り落として二等分した形。
一番皿に並べやくす、具が分かりやすい形だと思った昔からこの形だ。
「たぶん具置く時に丸く置くんだろうな」
「零の家は?」
「三角ですけど?」
「さいですか。美味しい?」
「そりゃ当然」
「野菜嫌いも困りものだよねー」
「苦いじゃん。渋いしえぐいし食べる必要とはってなる」
「料理環境に恵まれなかったんだ? 本校の料理美味しいのに」
「うーん……たぶん物事ついた時には食べてなかったと思う。皿の端に避けてた気がする」
「……そっか」
どうやらアヤネが食べていた料理は黎冥が高校生になってから入った料理人が新しく作ったレシピで、それ以前は本校より不味い料理人が料理をしていたらしい。
それでもほとんど家にいなかった両親はそんなことも露知らず、ただ金だけ払っていたと言う。
「ちょっと意外。そんな料理なら雪羽さんが食べやすいように加工してそうなのに」
「ほら、食べなかったら無理やり口に突っ込む方針だったから」
「あぁ……」
結果、野菜嫌いをこじらせたこいつが出来上がったと。
本人の頭が良かったり周囲の普通と自分の異常を比べられる子供たちだったからよかったものの、これ普通の子供なら確実に毒親に毒されていたんだろうなと言う家庭環境。
下手したらアヤネの放置看病より酷いぞ。
「だから当主になったら屋敷の料理人全員入れ替える」
「奥さんに作ってもらえよ」
「アヤネ作ってくれるん」
「誰も私が妻とは言っとらん」
「妻はアヤネ以外いらない……」
「頑固者め」
「捻くれ者って言って?」
「なんで自分から奨めんのさ」
桃のムースを食べながら、途中で一口黎冥にあげてサンドイッチもムースも完食した。
アヤネは机を片付けると黎冥は方に寄ってきて、ちゃんと爪を確認する。
炎症を起こしていたところには薬を塗って絆創膏、肌もきちんと保湿されて指の腹にも浮いた皮はついていない。
爪も綺麗に整えられて細く美しく。
いつもの黎冥の手だ。ちょっと絆創膏が多いぐらい。
「やっぱり手は綺麗な方がいいよ」
「気を付けます」
布団に移動し、眠たくないが寝転がるとアヤネが黎冥の背に手を回した。
「どうしたん」
「おかえり」