44.離れた力
黎冥に完全うつ症状が出たこの旅で、部屋に遊びに来て帰らないリリスはずっと心配で黎冥の傍にいる。
最後アヤネに見送ってもらえずに、挙句アヤネはアレイと話していたのでこの船旅でずっと引き篭っているのだ。
食事はリリスが持ってくるが窓もカーテンも扉も締め切ったまま、部屋には負のオーラが充満している。
この旅の初日でルルべリア家に帰ったリリスは当主証明書に自分の名前が書いてあることを確認するとラムスを追い出し、ラムス派の拠点はメルス家へ移った。
リリスが何故か当主に戻れたので黎冥家は不動の二位のままでいいらしいが、次期当主がこんなんだと先が思いやられる。
死の大岩付近では既に腐蝕が広がっており、その力はアヤネ以外誰も感じ取っていないが付近の箱庭がゆっくりとだが侵蝕されているらしい。
ある分の網縄や組編を駆使してなんとか留めているが、完全に消すには現地で生の神を下ろすしかない。
そのための黎冥だ。
ちなみに中心校で自身の力の腐蝕と大岩の腐蝕を感じ取ったアヤネは絶世の体調不良、倒れたことを黎冥にしこたま怒られたアレイとアレイに頼まれたスヒェナが付きっきりで心配している。
本人は普段は大丈夫と言っているらしいが、唐突に吐き気に襲われるので常に心配状態。
こっちもこっちで心配だし向こうも向こうで心配だし、なんでこんなに似たかなこの師弟は。
「圜鑒、飯だ」
「お前ずっといるじゃん……」
「服毒自殺しないか心配で」
「帰ったらアヤネに謝るから死なん」
「案外前向きで安心した」
アヤネと一緒に行動するようになってから、本当に明るく前向きになったよなぁと一人で頷きながら机に突っ伏す黎冥に食事を渡した。
黎冥はそれを押し返し、リリスと押し合いを繰り広げる。
「食べないと死ぬぞ」
「お前が出てってから食べる」
「私一応お前の上司に当たるんだが」
「名付け親に文句言うなよ」
「本当の親じゃない」
「本当の親の代わりに育ててやったろ」
「やめろ、トラウマで時々夢に出てくる」
「俺が虐待してたみたいに言うなよ……」
リリスは眉間を押さえると子供に似合わない小難しい顔をして、黎冥は顔を逸らしながらため息をつく。
こいつがこんな男勝りで子供っぽく育ったのは黎冥のせいなんだろうなと思いながら机に突っ伏していた上体を起こした。
「いい加減お嬢様らしくなれよ。使用人が泣くぞ」
「今の私を貶す使用人を雇う気はない」
「暴君じゃねぇか」
「私こそ絶対的権力者なのだ。ふはは」
「顔が死んでるぞ」
両手を上げて笑いながらも目が据わってとてもじゃないが生気を感じられないリリスはすっと真顔に戻り、手を下ろした。
「今さらなんやらですわとか言えん」
「そこまでしろとは言ってないけどせめてお淑やかになれ。動きに品を付けろ」
「品とは!」
「優雅さ、美しさ、静かさ、端正さ。静かで美しい動き」
「そんな奴神守にいるか?」
「……スヒェナかチルにでも習え」
「まぁ覚えてたら頑張ってみる」
「俺から言っとくからな」
嫌そうに顔を逸らすお姫様の頬をつまみ、暴君姫は逃げるように部屋を出て行った。
黎冥は一度盛大なため息をつくとゆっくりと食事を食べ始める。
しかし船の料理は大概嫌いかつ食欲皆無なので二、三口食べたあとにすぐ箸を置き、ベッドで本を読み始めた。
大岩のある国に着いたのは十日ほどしてからで、既にリリスから連絡を受けた第六十五分校の人達が大岩付近を探しているところに到着初日から加わった。
大岩があるのは広葉樹林の広がる熱帯雨林の中。
河を上がり、人が行き来するためにできた獣道を進むと見えてくる。
直径約十三メートルの自然に出来たにしては不自然すぎるほど綺麗な丸い岩。
胴ほどの太い組編は参拝に来た信徒が力に中られないよう死の女神自らが巻いたもの。
その組編に五大神の四人が組編の札を貼り、今は赤か多い水色なら中られないほどにまで封じられた。
力が衰退化している今は水色の底辺ならすぐに中ってしまうだろう。
「圜鑒、顔色が悪いぞ」
「お前よく平気でいられるな……」
「腐蝕か」
「アヤネの気持ちがよく分かる」
重く吐きそうなほどの気持ち悪い圧がそこらじゅうに充満している。
離れているとはいえ、これを内と外から常に受けているアヤネが平然と動ける理由が分からないのだが。
本当に常人とはかけ離れた子だと分かる。
「探すか……」
「無理するなよ」
「今日中に見付ける」
「無理するなって!」
明らか顔色の悪い黎冥は顔をしかめながら大岩に近付き、心配しかないリリスはそれについて行く。
大岩は右後ろから腐蝕が進行しており、星の神の札も角が欠けている。
右後ろか。
既に何人かが歩いている右後ろ側に向かい、人がいなくなるほど奥に進む。
長袖長ズボンのジャージなので蒸し暑いし動きにくい。ジャージが動きにくいと感じたのは初めてだ。
「る、圜鑒、どこまで行く気だ……」
「怖いなら帰ってろ」
「一人で帰る方が怖い!」
「じゃあ黙ってついてこい」
「迷子になるなよ……」
「河下れば帰れんだから心配すんな。ちょっと黙ってろ」
どんどん圧が強くなってきて、その禍々しさを肌でも痛いほど感じる。
リリスも分かったようで、後ろから黎冥の腕を掴んだ。
この辺りは大岩の力を貰って育った植物が育つ場所で、促進薬に使う生薬のように植物自体に聖なる力が入っている。
その植物や木が枯れ、腐蝕し、異様な雰囲気を放っている。
その円の中心には一つの祠。
「あっ……た……」
「怖い……」
もう気持ち悪さや痛さよりも禍々しさとその圧でリリスは近付くのを嫌がり、それでも黎冥の腕は離さない。
餓鬼すぎるだろ。
神の祠よりも遥かに小さい祠。
削られた石の上に、たぶん幅は三十センチぐらいではなかろうか。
高さもほとんど変わらない祠の中から明らかにこの世のものではない力が放たれ、一定以上近付くと近付いた場所から焼けるような爛れるような激痛が走る。
ここで祈るしかないか。
「リリス、ちょっと離れてろ」
「い、のりか……」
「そう。お前失神するから」
見下ろせば祠から目が離せないまま半泣きのリリスはゆっくりと後ずさっており、それを見た黎冥は罪悪感よりも呆れが出てきた。
リリスの手を引いて、傍にしゃがませると自分もそこにしゃがむ。
我、生の神に思はれし信徒なり。
生の神ウィリアム。我が祈りにいらへよ。
我が生くる天下に生の加護もたらし給へ。
魔の女神に魅入られしこの地に生なる御加護を。
失神したリリスを支え、そのまま抱き上げながら立ち上がった。
『ようやく見付けたか。ほとんど腐蝕してるし……』
「移動手段的には最速ですよ」
『ノエル』
生の神が空を見上げそう呼ぶと、どこからともなく氣の神が現れた。
さすがに実体二人と腐蝕の力で体が限界に達し、失神しかけたがそれも防がれる。
「二人とも、実体のまま降りるなって言ったでしょぉ」
『私は不可抗力ですよ』
『俺は必要だから』
「ウィリアムが守ればいい話!」
『そんなことどうでもいい。開けるぞ』
「どうでもいいって……」
時の死者は黎冥とリリスを真っ白なマントで包み、黎冥は圧が軽くなったことを感じてリリスから脱げないようそれを掴んだ。
生の神が祠を開ければ、腐蝕の侵蝕は目で分かるほどに加速する。
大岩の力が徐々に強くなっているのが分かり、時の死者はそちらに走って行った。
『これは……酷い状態ですね』
『こんな状態じゃ俺も戻せない……!』
祠の中にはバスケットボールほどの大きさで渦巻いた力が組編か網縄か、編み方がどちらとも違う縄で四方八方縛られて浮いていた。
純黒の綺麗な部分と黒緑に変色した、腐蝕した部分が混ざりあって混沌を極めている。
『岩が危ないですよ』
『最悪だ……!』
生の神は力に手を伸ばし、それを両手で掴むとバチバチと火花のような音を立てながら縄を断ち切っていく。
『あーあーあー愛し子がいるというのに。アヤネを連れてきてヴァイオレット様を下ろせばいいでしょう』
『アヤネはこの場所には近付けない。腐蝕が強すぎる』
『時の守屋に連れていきますよ』
『好きにしろ』
氣の神が一歩引くと同時に三人は時の狭間に移動し、氣の神は二人に近付いてきた。
『大丈夫ですか』
「なんとか」
『相当強い力で縛られていたのでしばらくかかると思います。ここにいればすぐですよ。その子も直に目を覚まします』
そう言うと氣の神は姿を消し、二、三分してからリリスが目を覚ました。
それとほぼ同時に時の使者が戻ってきて、二人のマントを畳み始めた。
「ここにいる限り圧はないからねぇ。大丈夫だったかい?」
「はい。すぐにこっちに移動してもらえたので」
「やっぱりウィリアムとアーネストの暴走にはヴァイオレットかノエルだねぇ。ヴァイオレットは牽制してくれるしノエルは対処してくれるから助かる」
「本当に」
まだ少し眠たそうなリリスは黎冥の背に手を回すと寝落ち、黎冥はリリスの頬をつねった。
気絶はいいが寝るな。
「……子持ち?」
「いや一応上司に当たる人ではあります」
「なんか世界の難病にそう言うやつあったねぇ」
「普通に子供ですよ」
「十何歳ぐらい?」
『私の申し子ですよ。混乱されても面倒なので眠ってもらいました』
戻ってきた氣の神は疲れた様子のまま白いローブの裾を払い、黎冥に近付いてきた。
黎冥が無言でリリスを差し出すと神は意外にもそれを受け取る。
『やっぱり子供は子供らしくないと』
「まぁ君の周りの子供と呼べる年齢の子達は全員大人びてるからねぇ」
『大人びてるとかじゃなくて子供らしさがないじゃないですか。……まぁ眠そうなヴァイオレット様と上機嫌なウィリアムぐらい?』
「完全意識が消えてる時ね。まぁ本人たちもまだ精神年齢は子供だから」
『なんで可愛い子供がいないんだか』
そんな話をしているうちにウィリアムが戻ってきて、堂々と愚痴っている氣の神の頭に手刀を落とした。
皆がそちらを見ると皮が破れて血まみれになった右手の上に例の力の玉が浮いていて、真っ白なローブも既に赤く染まっている。
『戻るぞ』
『その血何とかしてくださいよ』
『無理』
『不機嫌……』
氣の神はそう呟くとリリスを黎冥に返し、黎冥の意識はそこで暗転した。