12.看病
いつの間にか寝落ちしていたようで、次に目が覚めたのは咳で酸欠になった時だった。
咳き込み、痰が絡んで窒息しかけたので喉を締めて咳払いをする。
「水いる?」
突然聞こえてきた声に顔を跳ね上げると制服姿のアヤネがコップの水を差し出してきた。
取り敢えず水を飲み、息を整える。
「……なんでいんの?」
「慧先生に看病は傍にいるものって言われたから」
「騙されてるぞ」
アヤネは眉を上げ、黎冥は取り敢えず正座からあぐらに姿勢を変えた。
「看病してもらったことないの。病弱そうなくせに」
「お粥作って放置じゃないの?」
「家庭環境が現れるなぁ」
親の離婚が十一歳と言っただろうか。
まだ小学生の子供が熱を出したのに飯だけ作って放置は可哀想すぎる。
親が忙しく昼間、家にいることが滅多になかった黎冥でさえ家にいる時は使用人が傍に、学校の時は兎童や慧、羽鄽が傍にいた。
これの歪んだ人間性は家庭環境と親の影響かもしれない。
「え、違うの……?」
「違うから慧に騙されたんだろ」
「…………看病って何」
病人の介護をすること。世話役。
「何すんの?」
「俺の場合は何もしなくていい」
「ふーん?」
よく分からなさそうなアヤネを見上げ、また水を飲むと寝転がった。
「何時?」
「十一時前。お粥作ってもらってるけど」
「食欲無い」
「慧先生が無理やり食わせろって」
「大袈裟すぎだろ……」
まぁ二、三日食べていないし食べた方がいいか。
人の構造的に水ばかり飲むと塩分不足で熱と似た症状が出るのでその影響もあるのかもしれない。
昏睡はしたくない。
「……食べる」
「持ってくる」
「行ってらー」
アヤネは扉を閉めると意外にも鍵を閉めて去って行った。
ふとアヤネが座っていた黎冥の席に目を向ける。
右のベットが壁沿いにあり、そこにくっ付くように机があるのだが、アヤネはその椅子に座っていた。
膝立ちになって机に広げられたノートに手を伸ばすと計算の問題式がびっしり書かれていた。
これはまさに馬鹿が見ても分かるノート。
しかも小三の筆算。
ちゃんと筆算スペースまである。
これは見てはいけないものだった気がすると悟った黎冥がノートを戻そうと膝立ちになるとちょうどアヤネが戻ってきた。
「勝手に見んな」
「お前って意外と馬鹿?」
「家庭教師のノートですー。算数出来ない奴が七十五の高校行けるか」
「家庭教師……?」
父親の仕送りが止まり、手紙を出しても返ってこなくなったので自分で稼ぐことになったらしい。
歳下の家庭教師なら儲かるし簡単なので家庭教師になった、と。
「お前の親の顔が見てみたい」
「絶対会わせん」
「……あっそ」
アヤネからお椀に入ったお粥とスプーンを受け取り、久しぶりの食事をする。
なんだろうか。
自室にいるのに食事をしていてなおかつ人に見られているという違和感。
「味ない」
「嘘」
「本当」
少し掬ってスプーンを差し出せばなんの躊躇いもなくスプーンの先を咥えお粥を食べた。
「……普通にある」
「薄味?」
「普通だと思うけど」
「うーん……?」
「味蕾が舌苔で覆われてんじゃないの」
「あぁ……」
味蕾は味を感じるための舌の蕾のようなものだ。
舌苔は舌にある白いもの。
発熱時は増えやすいため味蕾が覆われ、味が感じにくくなることがある。
多分それ。
「変な感じ」
「文句言うな」
「文句じゃないけどさ」
「じゃあ黙って食え」
「はい」
黎冥が食べている間、アヤネはノートに色々書き込む。
相手が小二でこれは予習ノートなので細かく書かなければならないのだ。
正直、小三の参考書を一冊渡したら普通に理解する子達だがそれだと本人がつまらないと言ってやらないので頑張って書いている。
ちなみに教えているのは男女の一卵性双生児。
「…………そう言えば」
「なに」
足側の壁を見つめながら黎冥が聞くと、アヤネはとても奇妙なことを言い出した。
「家庭教師で教えてる子も同じ苗字だった気がする。名前知らないけど。そんなある苗字?」
「いや結構珍しい気がするけど」
「ふーん」
「……小三?」
「小二」
「男?」
「男と女。一卵性の双子って言ってた」
背中に冷や汗が流れる。
まさかいやそんな偶然あるわけ。だってそんなピンポイントで行くか。いや行ってほしくない。いくら神女神に愛されたからと言ってそんな。
家も離れているはずだしそもそも出会うわけが。
「どうしたの」
「…………気分悪い……」
「えぇ……?」
食べ過ぎだろうか。
一応少食で普通の人の半分ほどしか食べないと伝えていたのだが、体調を崩したら胃が縮むとか。
それなら普通に残せばいいのに。
黎冥からお粥を受け取り、あぐらをかいたまま前に丸まった黎冥の背をさする。
「物凄く嫌な予感がする」
「ただの悪寒じゃないの」
「そうであることを願う」
本当に、奇跡などいらない。
これは奇跡ではなくただの不運だ。
「……ねぇ胃圧迫してたら消化されないんじゃ」
「胃じゃなくて気分の問題」
「あぁそう」
それから数分すると気分が落ち着いたのでお粥の続きを食べ始めた。
「……あそうだ」
お粥を食べ終わり、アヤネがノート作り、黎冥が読書に没頭していると、黎冥が小さく呟いた。
アヤネは答えを計算しながら答える。
「何」
「来週の日曜日から一ヶ月間遠征行くから」
「行ってら」
「いや、弟子だろ」
「書類上の」
「同伴だから」
どこをどうすれば整数になるか考えていたアヤネの思考が止まり、今黎冥が言った言葉が脳内で反響される。
弟子だろ、一ヶ月間遠征行くから、来週の日曜日、同伴だから。
同伴だから。同伴だから?だから何。
いや違うそうじゃない。
同伴。
いっしょに連れて(連れ立って)行くこと。
国語辞典引用。
「……来週……?」
「忘れてた」
「私も……?」
「弟子だから」
「ど、どこまで?」
「えーと、海外!」
「はぁ!?」
「嘘、国内だけど最西端の島。名前は知らん」
「は?」
最西端の島と言ったら代納国島しかない。
そこで、一ヶ月間?
「忘れてたじゃ済まない」
「俺も同じ状態」
「はぁ?」
「どうしよ……」
今月末に海外の研究者がやってきて有名大学で論文発表会をする予定なのだ。
どうしよと言っても断るしかないので羽鄽に頼もう。
副業も全て休まなければ。
収入源が減る。
黎冥の目から光が消え、勢いよくベッドに寝転がるとアヤネが盛大な溜め息を吐いた。
「島行って何すんの」
「命の神の祠と想いの神の祠があるから祈りを捧げて土地に力を流す」
「一週間ぐらいで済みそうですけど」
「いくつあると思う」
「え……えーと……八個ぐらい……?」
「二十四個」
往復で一日半かかる。
祈りを捧げる環境の整備と神を祠に呼ぶのに丸二日間徹夜でやらなければならない。
その後、二人で交代しながら耐えることなく祈りを捧げ続ける。
命の神は非常に気分屋のため常に祈りを捧げなければ、一瞬やめればその間にまたどこかに行ってしまう。
想いの神は二人で同時に祈ったら問題ないのだが、一番は命の神。
五大神の中のトラブルメーカー、死の女神に惚れ込んでいるが死の女神に迷惑をかける暴走神様だ。
「交代しながらって何?」
「一日目は俺が二十五時間。二日目はアヤネが二十五時間。三日目俺、四日目お前、繰り返し」
「……倒れる」
「だから最低二人以上になった。ちなみに紺色以下は二ヶ月掛かるらしい」
一ヶ月と言うのは黎冥がアヤネの力量を見て決めた期間だ。
もしかしたら二週間で終わるかもしれないし二ヶ月かかるかもしれない。
黎冥も土地を守る祠に行くのは初めてなのでよく分かっていない。
同じ黒がいなかったため短期祈祷しか任されなかった。
「不安なんですが」
「……秘学の教科書に載ってたはず」
ベッドから身を乗り出し、机の一番下の引き出しを開けて詰まりに詰まった教科書を引っ張り出す。
「うっわボロボロ」
「古の教科書」
「そんな古くないでしょ」
「慧の伯父の奥さんの祖父の奴」
「つまり曽祖父と同じぐらいってことじゃないの」
いや、慧の伯父が慧が生まれた頃にはもう五十近かったので、それより歳上の奥さんのお祖父さんだ。
「古だなぁ……」
「一世代古いから言葉が小難しいけど。だいたいは読める」
「ちょっと諦めてるし」
「古文は分からん」
完全理数系の黎冥は早々に諦め、アヤネに託した。
アヤネは目次のない教科書から土地の祠の説明を見つけ出す。
土地の祠がある土地はそこに神が来たことがある証で、来た神の祠が作られ祀られているらしい。
御神体は各祠によって違うが、有名なもので言うと死の女神の大岩。
死の女神がやってきた時に座り人々にお告げを出した岩。
生の神の苗木。
石の壺に入った苗木で、三千年経っても姿変わらず壺にヒビも入っていない。
命の神のかんざし。
死の女神に惚れた命の神が死の女神の髪を梳いていたかんざし。
落とした後は神が荒れて多くの命が失われたが死の女神の説教によって落ち着いた。
時の女神の青い花弁。
時の女神が歩いた道の葉は枯れ、花は青く変化した。
その花弁を集め一つの土器に入れたもの。
星の神の赤い枝。
星の神が土地の祠を作るために作った枝。
死の女神の大岩に座り、桜の枝を折って空高く掲げるとそれは瞬く間に燃えるような赤色に変わった。
土地の祠に祈りを捧げるにはまず周囲の人を払い、穢れなき者のみを集める。
そして信徒が祠に神を卸し、絶えず力を渡していく。
力切れが危惧されるため必ず十人以上で行うように、と。
「十人以上でって書かれてるけど」
「俺とアヤネ合わせて赤二百人ぐらいだから問題ない」
祈りの言葉を探している黎冥は顔を上げずそう言った。
それなら大丈夫そうだ。
赤は最も平均の信徒なので平均二百人なら問題ない、はず。
「……言葉が載ってない」
「こっちも探してるから待て」
現代語で書かれた教科書を閉じた黎冥は片付けるのが面倒くさいので、背表紙を上向けて並んだ教科書の上に置いて棚を閉めた。
「……こっちにもない」
「なんで」
「知ってたら苦労しない」
熱が下がったら図書館行きか。
慧や兎童が知っているかもしれない。
羽鄽は力無しなので候補外だ。
「そんなやる人少ないの? 秘伝とかそんなん?」
「特に聞いたことないけど……。教科書落として流出とかたまにあるらしいからそれの予防かもしれない」
だいたいは「ただの御伽噺集」で済むのだが、まだ発見されていない力持ち信徒が声に出して読むと力の強さによってはその場で神が反応する事がある。
そうなれば周囲への力無しへの被害は計り知れない。
それを防ぐため、本当に危険なもの。
例えば自身に神を降ろす祈りやその場に神を呼び出す祈り、物に神の魂を宿らせる祈り等。
赤がやっても一般人に被害が及ぶし黒がやると弱い力持ちにも被害が及ぶ。一般人は失神で軽度、昏睡になってもおかしくない程強力だ。
「じゃあ聞いて調べとく」
「意欲的」
「お前は先に体調治せ」
「はい」
アヤネの鋭い視線に黎冥は小さく返事をすると、また布団に潜り込んだ。