1.布教
髪が揺れるほどの風が頬を撫でた。
屋上の柵に座ってはみたが、このまま落ちても死ねない高さだよなぁと考える。
せめてあと一階は上がよかった。
貯水タンクは端に面していないし扉の屋根も端からは程遠いので困った。
生まれつきの綺麗すぎる顔と
幼い頃からの睡眠障害による濃い隈で気味悪がられ、
拒食症による痩せた体と
事故での視力喪失によるオッドアイ。
自分でも鏡を見るのが嫌なほど気持ち悪い。
そんな周囲の目に晒されてきた事に加え
親の離婚と
母の恋人による暴力と
母の躁鬱病による散財
他校の生徒にいじめられ入院。
治療費のせいで学費も払えなくなったため入学したばかりの難関高校は中退。
目のせいでバイトも出来ず、一昨日に親も夜逃げした。
こんな人生なら生きても死んでも変わらないだろう。
非常階段から屋上に上がったものの三階からでは落ちる高さが不十分だ。
前述の通り、周囲に端に面した高いものがないためどうにもならない。
今月末、と言っても明日だが、明日までは家にも帰ることは可能だ。
包丁かロープはあっただろうか。
そんなことを考えながら茫然と空を眺めていると、後ろから足音が聞こえた。
怒られるかなと呑気に考える。
「あ、あの子ですよ。鼓純音ちゃん」
名を呼ばれ、反射的に振り返ると男女が立っていた。
一人は三十路近い女性で、一人はまだ若そうだが隈で目の下が真っ黒になっているボストン眼鏡の男。
男と目が合い、男は重く下がった瞼を瞬く。
「……弟子にしよう」
「え…………えぇ!? えぇぇぇあの黎冥先生が……!?」
「誰あんたら」
「うわ口悪っ……!」
女性は顔を引きつらせる。
「ねぇ純音ちゃん、ご両親は……」
「借金取り? 家売るからそれで相殺して」
「え、ちが……」
「ん?」
黙っていた男は眉を寄せると慌てふためく女性を黙らせた。
「家売るって引越し?」
「まぁ……そんなもん」
「親に会いたいんだけど」
「どこにいるか知らないし。新聞社にでも頼んで」
「……今の身の回りを聞こう」
不審者だろうか。
誘拐されたとして、身代金が用意出来ずに殺されるならまぁいいか。
純音は十一歳の親の離婚から十六歳現在まで時系列バラバラで話した。
思い出した順から話したので混乱していたが相手に気を遣うだけ無駄なので適当だ。
「……なるほどね。じゃあどこに行ってもいいわけか」
「金ないけど」
「家売るんだろ。その金がある」
「黎冥先生!」
「じゃあその金でいいや」
「いいの!?」
女性のノリツッコミの後、男に手を伸ばされた純音は柵から降りた。
「右利き?」
「左」
「効き目は?」
「左しか見えない」
神は実在する。
黎冥、兎童は神に使える信徒を育てる機関で働いており、アヤネは選ばれし信徒らしい。
神の加護を受けた者のみが使える聖なる力は非常に貴重で、黎冥も兎童も使えるが他に使える教師は二人だけ。
今から向かうのは信徒を育てるための学校で、学校には二種類の人間がいる。あと人間じゃないのも。
一つ目は聖なる力が使える信徒、二つ目は聖なる力は使えない普通の信徒。
なるべく平等に扱われるようには表面上されているが、その実態は表裏の激しい女子グループ、カースト制度の強い運動部のような感じ。
アヤネは聖なる力があるので特に気にする必要はないらしい。
寮もあるし学費はいらないし生活に不自由はないだろう。
「信徒って何すんの」
「まぁ多くは祈り捧げるだけ」
聖なる力には属性がある。
その属性を司る神、女神に祈りを捧げ、その神達に属する物事が不十分にならないよう一般人を支える。
例えで言えば雨の神に加護のある信徒が祈りを捧げる。
すると降らなかった雨も降るしそれは信徒祈り続ける限り永遠に降り続ける。
神によって色々ややこしかったりするがそれは追々やっていけばいい。
「胡散臭……」
「本当よ? 黎冥先生は凄腕の信徒なんだから」
「祈るに凄腕って何?」
「……凄腕なのよ」
馬鹿っぽい。
どうせ聖なる力が多いとか頭がいいとかそんなんだろう。
それは凄腕ではなく正しく神に愛された子、神の愛し子だ。
たとえ努力で這い上がったのならそれは周りがおだてているだけ。努力なら誰にでも出来る。
アヤネが呆れて目付きの悪い視線を送ると兎童は少し顔を逸らした。
黎冥は面倒臭そうな、嫌そうな溜め息を吐く。
「褒めてもなんも出ねぇぞ」
「私そこまでがめつくないですよ?」
「へぇ意外」
「はぁ!?」
兎童が怒り、黎冥はそっぽ向く。
人を挟んで喧嘩しないでいただきたい。
三歩どころか六歩ほど後ろに下がり、赤の他人のフリをして歩く。実際数分前までは赤の他人だった。
道端の排水溝から顔を出す植物を眺めながら二人と一定の距離を保っていると、二人が立ち止まった。
「……遠」
「黎冥先生が意地悪するからですよきっと」
「いい大人が喧嘩しながら歩いてる事自体が恥ずかしい。なんで止まんの」
「ここだから」
黎冥の言葉に眉を寄せた。
辺りを見回しても空き地と他人の家とポストと電柱しかない。
細かいものを言えば排水溝や電線や電話線やブロック塀なども。
「やっぱ茶番か……」
「ここよここ。ほら」
そう言って兎童はポストと電柱の隙間、人一人通れるかどうか程の隙間が空いたブロック塀に腕を突っ込んだ。
肘少し手前ほどから電柱に隠れているが角度的にも曲がっている様子はない。
訝しんでそちらに近付き、間を覗くとブロック塀が水面のように歪んで腕がのめり込んでいた。
目を瞬き、恐る恐る兎童を見上げる。
「気持ち悪……」
「ちょっとこの餓鬼締めましょう」
「早く入れ」
黎冥は憤慨する兎童を押し込むとアヤネの肩を掴み、嫌がるアヤネを押して二人でそれに潜り込んだ。
目を瞑っていたアヤネは何かから抜けた感覚と同時にゆっくりと目を開いた。
その光景に息を飲む。
全体的に木造で、周囲には大きな箱や小さな物が雑多に置かれている。
それにより出来た道はどこからか差すオレンジ色の温かい光で照らされて、そんな道が複雑に入り組んでいた。
道を作る木箱や物は所々天井部分まで積み上がっており、それ以外は腰か胸辺りまでしか積まれていない。
見える限り、左手には職員室らしき大人が集まっている一室が、右の奥側には本棚か普通の棚かに不自然についた扉が見える。
扉があるが部屋ではなさそう。
右の奥はその棚の右側を通ってさらに奥まで行けそうだ。
真正面の道からも左右に何本か道が伸びて入り組んでいる。
この世のものとは思えないほど幻想的で見惚れるほど美しい世界。
「秘学神話第八校分校。アヤネが今日から住んで学ぶ学校だ」
秘学神話学校。
神を信仰する神話と秘学を学び、神に祈りを捧げる信徒達が住まう寮。
寮と教室はぐちゃぐちゃに入り交じっているので少し頑張って覚えてもらわなければ。
「ここで自分の師範を見付けて秘学を極め、各地に飛んで神に尽くす。その第一歩の学校」
「師範……」
「アヤネの師範は俺。職員室行くぞ」
「……ん……!?」
一層目付きの悪くなった黎冥に引っ張られ、左側に見える職員室まで進む。
直進、一つ目の角を左に曲がり、突き当たりを右に、また進んで一つ目を左。
頑張れば道筋が見える高さの荷物なので迷うことは多分なさそうだ。
荷物にぶつからないよう必死に体の向きを変え、黎冥について行く。
職員室に着き、黎冥は扉を開けると止まることなく中に入った。
「黎冥、兎童戻りました。鼓アヤネも……」
「黎冥先生! おかえりなさい!」
「鼓アヤネの編入決定と共に師範も決まりました。匡火先生書類作成お願いします」
黎冥が入ると同時にアヤネを掴む腕とは反対の腕に誰かが掴まり、黎冥は少し固まった後にまた歩き出した。
アヤネはやっとの思いで体勢を整え、職員室をキョロキョロと見回す。
見たところ入口は一つしかなさそうだ。
入口から入って右側に教職員の机と椅子が、左には中心に四角い穴の空いた長方形の机が置かれ、周りには等間隔でパイプ椅子が置かれている。
その机の奥の壁には本やファイルがびっしりと並び、壁の右下の棚には何十のパイプ椅子が折り畳まれて入っている。
「アヤネ、そこ座れ」
「黎冥先生〜、これ誰?」
「お前離れろ」
未だ黎冥にくっ付き、あからさまに胸を押し付けている少女はアヤネを睨むと頭から足の先まで観察し、にやりと笑った。
「顔は中の下、チビでガリガリ、目も変な色だし頭も器量も悪そう。乾燥して荒れた手にひび割れた爪、ボロボロの靴。髪もまともにオイルも塗ってないでしょ? バサバサで枝毛だらけなんじゃない? 白髪も多いし。女捨ててる」
「気にすんなよ」
「ここの学校って偏差値ある?」
「基礎五教科とそれ関連はある。一応偏差値は五十三」
「ひっく。馬鹿っぽいわけだ。事実馬鹿か」
アヤネは鼻で笑うと黎冥に言われた通り本棚側のパイプ椅子に座った。
「書類は出来るところだけ書け。印鑑と保護者名はいらない」
「生年月日知らないけど」
「空白でいい。お前どんな人生してんだ」
「人並みに生きてきた」
六枚ほど書類を渡され、名前と記入日やその他諸々を書いていく。
黎冥が右斜めに座り、先ほどの女子が黎冥に抱き着いたままアヤネに対して毒を吐く。
正直鬱陶しい。
馬鹿の一つ覚えだ。
兎童もいつの間にかいなくなっているし黎冥も負のオーラを放っている。
「……学生番号って何」
「分からないところは空白でいい」
「ふーん……」
大人顔負けの綺麗な字で分かるところは記入し、全ての書類を書き終えた。
「はい」
「……次は制服」
「それ?」
「いやもっとマシなの」
二人で女子を見下ろし、顔を顰めた。
ワイシャツを第二ボタンまで開け、胸を強調した上に大きな青いチェック柄のリボンを緩く吊り下げている。
その上から生徒の証拠のローブを羽織り、どうやってか肩で止めている。
こんなものなら絶対に着たくなかったが違うならいい。
黎冥が立ち上がって書類をまとめたのでアヤネも女子も立ち上がり、匡火に書類を渡してから職員室を出た黎冥について行く。
「あ、黎冥先生! 書類は終わりましたか」
「制服頼んだ」
「はい。……輝莉さん、身嗜みを整えなさい」
「おばさんうるさーい」
小さく笑いながら兎童を馬鹿にする輝莉に対し、アヤネは小さく兎童の手を引いた。
「馬鹿は一つの事しか覚えられないから。この人はダサい制服を着るので精一杯みたい」
「あ、そうなの? ごめんなさいね、今度正しい着方を教えてあげるわね」
「良かったな奪。その歳になって教えてもらえるのは貴重だ」
三人から総攻撃を食らった輝莉は盛大に顔を引きつらせ、黎冥から離れると得意の柔道でアヤネの胸ぐらを掴んだ。
しかし次の瞬間には輝莉が尻もちを突いており、一瞬視界が点滅した。
「小内刈りをするなら軸足を踏み締めた方がいい。膝裏蹴られたら終わるから」
冷たく鋭い目で見下ろされ、腹の中で何かが切れた。
まだ何が起きたか理解しきらない保おけた目のまま口はニコリと笑う。
「……分かった」
またやった。
だからいじめられるのだ。
いつも原因を作るのはアヤネの方だ。
昔から有名人に気にいられやすいせいで嫉妬と軽蔑でいじめられた。
おとなしく受けておけばいいものを幼い頃からの生存本能で反射的に動いてしまう。
その反射を抑えることも出来ず、結局こちらが悪者になって終わるのだ。
どうせここもすぐにこうなるだろう。
元々死ぬ予定だったし流れるままに生きておこう。
「そ、それじゃアヤネちゃん、行こうか」
「はい」
兎童に案内され、入ってきた壁から真っ直ぐに進んでから何本目かの角を左に曲がった。
それからしばらく進み、三本目を右に曲がるとすぐに行き止まりになった。
道を塞ぐのはよく洋服屋にあるような、でも洋服屋とは違う異様に高い試着室。
アヤネの胸下腰上の高さから木の板で長い箱が作られ、一面にはワインレッドのカーテンが突っ張り棒から吊るされている。
道の右側には正方形の棚が並んでおり、ローブや各色のリボン、サイズ違いのワイシャツやリボンと同じ色柄のスカートや靴、靴下も髪飾りも置いてある。
全て各サイズと色が揃っている。
「身長聞いてもいい?」
「……百……四十九ぐらい……?」
「百五十前後よね。SかMぐらいかしら。細身だからSでも大丈夫そう」
白いワイシャツと黒基調の赤と白が入ったリボン、同色柄のスカート、内側が青く胸元に校章らしきものが刺繍されたローブ、黒か紺か聞かれたので黒と答えた靴下、白いローファー。
ローブは着物のように袖が広がっている形で、鎖骨の高さで細いチェーンによって前が止められるようになっている。
「着方は分かるわよね?」
「流石に……」
「それじゃあ行ってらっしゃい」
そう言われ、ボロいハシゴを上って試着室の中に押し込まれたので私服を脱いでそれに着替えた。
第一ボタンは開けてリボンは程々に緩くしておく。
内側に金属部品が付いていた。
何故か知らないがネックレスでかぶれるので予防だ。
「……着替えたけど……」
「あら、いいんじゃない?」
「スカート短くない……!?」
膝上どころか太もも半ばより短い。股下数センチ。
本当に、どこのコスプレだと言うほど短い。
「普通よ。さ、次々」
「見えるんだけど!?」
「ローブ着てるでしょ」
「前!」
「大丈夫! 黎冥先生は護身術も使えるから教えてもらってね」
襲われる前提か。
せめてもうワンサイズ大きいのが良かった。
こんな短いものは履いたことがないし違和感しかない。
二人が言い合っていると、同じくローブに着替えた黎冥がやってきた。
「騒がしい」
「来んな変態!」
「黙れ餓鬼。寮選ぶぞ」
そう言って差し出されたのは二種類のドアノブだった。