岩の世界 5
「あなたはどうするのですか?」
「どうもしないよ。俺はこのまま、世界とともに消える。逃げられるはずがない」
男の声がした方向から、小さく、長く、息がぬけた。
世界の終わりを受け入れようとしているのだろう。しかしイドは、男に違和感を持った。
「なにかを待っているのですか?」
イドが言うと、男の吐息が聞こえなくなった。
しんみりとした雰囲気が消えていき、二人をつつむ空気がわずかに硬直した。
ああ余計なことを言ったかなと、イドは後悔した。もちろん表情には出さない。
「……そう、だな。そうかもしれない」
硬直した空気の隙間を縫うように、男の声がぬけた。
哀しい声だった。
「待っていたのだろう。本当に愚かなことだが、なにも変えようとしないこの世界でずっと、俺は待っていたんだ」
「誰を、です?」
「妻だ。もう死んだのだがね」
衝撃的なことだったが、男の言葉をイドは予想していた。
現実世界のレナーから聞いていたことだったからだ。
病に伏せて悪化しているのは、彼の妻が亡くなったことが一因ではないかと言われていた。
「きっと来ますよ」
「聞いてなかったのかい? 死んだのだ。もう、ここに訪れることはない」
男の声にかすかな苛立ちがふくまれた。しかしすぐに哀しみをふくんだ息を、長くぬいた。
矛盾した想いと行動が、男の哀しさをさらに際立たせていた。それはイドが指摘しなくとも分かっていることだろう。分かっているからこそ、すり減らしているに違いない。
ふと、周囲が暗くなった。
空を見ると、四つあった太陽が三つに減っていた。
気温も下がり、風が冷たくなっていく。
雪でも降るのではないかと、イドは両手のひらをこすり合わせた。こすり合わせても、温かさが生まれることはないのだが。
「励ますつもりはありません。そんな資格、私にはありませんから。でも……」
「でも?」
「私は、来ると思いますよ」
イドは眼下に広がる石と岩だけの世界を見て、静かに言った。
いくつかの岩を目で追い、片眉をあげる。
「そうかい? お嬢さんはやさしいのだね」
長く長く息をぬいたあと、男は諦めたような声をこぼした。
男にお嬢さんと言われ、ああと、イドは自身の身体のことを思い出した。
現実世界でイドをよく知る者は、少女のようなイドの姿を見ても少年の姿をしたイドだと認識する。しかし初対面の者だとみな必ず、少女と認識するのだ。
なぜ認識が変わるのか分からない。
そんなことよりもイドは、虚しさを感じた。
このような男でも女でもない姿でも、性別を意識されるからだ。
嫌悪感はない。ただ、虚脱感がイドをつつんだ。隣にいる男よりも虚しいわけではないだろうが。
「どうかしたかい?」
「いいえ。少し考え事を。それよりも、あそこを見てください」
イドはあわてて気を取り直し、眼下の岩場を指差した。
隣で、短い息が聞こえる。
布の擦れる音がして、男が身を乗り出したのだと分かった。
「どこだい?」
「あそこです。大きな石が並んでいるでしょう?」
「本当だ。今まで気付かなかったな」
「きっと気付きません。太陽の光が影を奪って、すべて白く染めあげていたのですから」
空を指差し、イドは笑顔を見せた。
すると、男が短く息を吐きだした。見えないが、うなずいたのだろうと想像する。
「たしかにそうだ」
男の声が、弾むように鳴った。
「気を付けてお帰り」
男の声が後ろで鳴って、イドはふり返った。
男は、初老の姿をしていた。わずかに透けているが、もう透明になってしまうことはないだろう。
「ありがとうございます」
イドは頭を下げると、男もまた頭を下げた。
「お礼を言うのは俺の方だ」
初老の男はにこやかに笑った。
しんみりとした雰囲気は、もうどこにもなかった。
「たしかに、妻は来たよ」
「でしょう? 私には言葉の意味が分かりませんでしたが」
イドが笑顔を見せると、初老の男は口の端を持ちあげてみせた。
わずかに寂しさをふくんだ笑顔だった。
岩山の頂上から見えたものは、大きな石を並べて作った言葉だった。
いびつながらも花の名前がつづられていて、その最後に一言だけ、男に向けた想いが添えられていた。
イドにはそれらの意味を汲み取ることができなかった。しかし言葉を見た直後に姿を現した男を見るかぎり、石を並べて作った言葉がどれほど力強いものなのか分かった。
「それは俺と妻だけの秘密だ」
「そうですね。それだけは、私も分かりました」
好意以外の愛というのもあるのだ。
初老の男を見て、イドはうなずいた。
空を見上げると、太陽が四つに増えていた。
まだ肌寒いが、先ほどまでの凍えるような寒さは、もうない。
「それでは。お元気で」
「ああ。お嬢さんも」
初老の言葉に、イドは両肩をすくませてみせた。
虚しさがよぎったが、表情には出さない。
イドは大きく手を振って、岩山から下りていった。
後日、イドは現実の世界でレナーと会った。
他愛もない話をしたあと、イドはそれとなくレナーの叔父の話を聞いてみた。
「元気になったんだ。まだ休んでいるけど、時々空を見て笑っているよ。なにが面白いのか分からないけど」
レナーは首をかしげながら言った。
イドは初老の男の姿を思い出し、空を見て笑っている姿を想像してみた。
太陽の数は、あれから増えただろうか。
それとも、石と岩ばかりの世界に、花が咲いたりしただろうか。
最後まで読んでくださり、感謝いたします。
「夢の少女の、イド」は、夢の世界のものがたりシリーズです。
同じ世界観で「傀儡といしの蜃気楼」も書いています。合わせて読んでいただけたら嬉しいです。
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