プロローグ 9
『………!』
「どうしたの?」
気が付けば赤ずきんは今や、自身の喉元を狼の口先に突きつけるようにして至近距離に立っている。狼は目を見開いた。獣と人の視線が交じり合う。
少女は狼と至近距離で見つめ合ったまま手を伸ばし、狼の血濡れた髭を掴んだ。
捨て身以外の何物でもない行為。狼はそうしようと思えば口を開いて閉じるだけで少女を殺せるだろう。
けれど…目に苛立ちを滾らせ唸り声を上げながらも、狼は赤ずきんに危害を加えることができない。
残虐なイメージを持たれやすい猛獣たちには仲間を攻撃しない特性がある。
彼らの爪や牙はあまりに殺傷力が高すぎるからだ。
同族どうしの戦いの際、もしも両者が闘争心の赴くまま戦い続ければどちらか片方、あるいは両方が重傷を負って死に至る。
そうした事態を防ぐために、武器を備えた獣には先天的に攻撃抑止の本能が備わっている。
相手が自分から喉元を差し出してきた場合はとどめを刺すことができない。
とはいえこの抑止機構は無論、捕食対象の小動物には適用されない。
しかしこの赤ずきんという少女は自分よりもはるかに強大な狼と対等に会話し、全く怖じることがない――実際にはそうではなかったのだが、類まれな演技力でそう装っていた。
だから、狼は彼女が人間であると理性では分かっていても、無意識のレベルで同族だと誤認したのだ。
結果、赤ずきんは狼の本能を利用してまんまと狼の懐に潜り込むことができた。
そう、彼女の挺身は自己犠牲のためではない。…急所を盾にして狼神に肉薄するための手段だった。
先ほど赤ずきんは狼に対し、敵意がないことを表明した。狼の警戒を解き、距離を詰め、その後は。
赤ずきんは狼に悟られぬよう、ローブの下からそっと細い棒を抜き出す。
それは質素ながらよく磨き込まれた、小ぶりの杖だった。オークに寄生したヤドリギを素材とした逸品だ。
そして――
赤ずきんは突如、狼の喉元に杖を突き付け、素早く呪文を叫んだ。