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短編集

うつろさん

作者: 白鳥加寿彦

 その人を、わたしはこっそり「うつろさん」と呼んでいる。

 出勤の途中、昼食を買うために立ち寄るコンビニで、いつも彼と出会う。出会うといってもお互い名前も知らない、相手はわたしのことなど気づいてもいないかもしれない、それでもわたしは、彼が気になって仕方がない。

 いつ見てもよれよれのスーツ。いつ見てもパツンパツンのビジネス鞄。猫のように丸めた背中に抜けた髪の毛をちらちらひっつけて、ふらふら、ゆらゆら、酔っ払ったような足取りで店内をぐるりと回る。

 名前の由来は、目。うつろだから。

 眠気をこらえ、ようやくうっすら開いている目。真下にまっ黒なクマをたたえた目。あーあ、相当お疲れちゃんだなあ、って一目でわかる。

 うつろさんは弁当とともに必ず、栄養ドリンクを買っていく。愛情一本、元気ハツラツ、ファイト一発、二十四時間戦えますか――まあ、ちょっと無理かなあ。最近じゃ三、四時間になったらしいけど、一時間でも無謀に思える。

 コンビニから出ると、わたしは駅へ、うつろさんは住宅街へ消えていく。夜勤の人なんだと思う。そうだと信じる。うつろさんはきっと、午後八時出社の午前五時終業なのだと。それでちょっと残業して、今帰宅なのだと、そうだといいなと思ってる。

 いやなに、システムエンジニアの兄は午前十時出勤の午前二時終わりが常だと嘆いていたものだから、ちょっと気になっただけ。

 お疲れちゃんです。無理しないでね。


   * * *


 「田原さん、これ、違います」

 午後一番。お腹がいっぱいになって、窓辺の暖かな日射しのなかでうだうだして、それでもまだ居座る睡魔を、田原さんは一瞬で追い払ってくれる。悪い意味で。

 チェックお願いします、と印刷された見積書に目を通したとたん、腹の奥底から、ぐわっと熱いなにかがこみ上げてくる。またかよ。またこれかよ。

 田原さんは四十絡みのおじさんで、二ヶ月前に入社したばかり。ばかりといっても前職も同業だったそうだし、事務の仕事内容なんてどこも似たようなものだと思う。しかも田原さんにお願いしているのは、営業が下書きした手書きの見積もりなり文書なりをパソコンで打ち直すだけの、本当に単純な仕事。

 でも間違う。

 たしかに、単に「サバ缶」と書いてある場合は「○○社 サバ水煮缶 100g/缶 24缶入」に直さなくてはいけない、「Bたこ」の「B」は「ボイル」だけど「かにフレークB」の「B」は「B品」のこと、とややこしい部分はある。でももともと同業で働いていたんだったらこの程度の商品知識はあって当然、さらに見積書に記載できる商品は冷凍食材か缶詰と限られているし、商品一覧と照らせば正式名称はすぐにわかる。よく使う商品は見積もりのテンプレートにはじめから入ってさえいる。いらないところを消せばいいだけ。

 なのに間違う。なんだよ、「冷凍生カニ棒 (ボイル)」って。生なのかボイルなのかはっきりしろ。商品知識どうこうの前に日本語としておかしいじゃないか。

 一人一人に割り振られた仕事は多くも少なくもない、とても居心地のいい職場だけど、なにぶん小さな会社だ。一人抜けたときの穴はでかい。

 そして穴を埋めようとしてさらに大きな穴が空いてしまったときは、もう目も当てられない。それが今。これ。一人退職したので求人をかけたら、とんでもない爆弾がやってきた。

 田原さんのもとへ歩み寄り、先ほど渡された見積もりを返し、ここが違う、と、努めて冷静に言う。

「前も言いましたよね、このBはB品のこと。だから『(B)』のままでいいんですよ。テンプレートにもともとあったでしょう、それをそのまま使えばいいんですよ」

「いやあ、その、間違って消しちゃって、わかんなくなっちゃって」

「じゃあ商品一覧を見ましょう。それかもう一度、テンプレートを開き直しましょう。そうしたら正しい名称で入ってるでしょう、開いて――あれ?」

 田原さんのパソコンを操作し、「見積もり(テンプレ)」ファイルを開く。と、モニターにはすでに宛先も日付も入った、そして上書きされた内容の見積もり価格表が映し出された。「冷凍生カニ棒(B)」は、ない。

 田原さんがもじもじとうつむく。

「そのう、‥‥上書きしてしまったみたいでぇ‥‥」

 ああ、そう。

 ハンパない脱力感。作業する前に別名で保存しろっつったろ。実演したろ。仮に間違って上書きしちゃったとしてもすぐに言えよ。

 同じことを思ったであろう小野さんが、冷ややかなまなざしで田原さんを見ている。田原さんは気づかない。

 無言で自分の席に行き、USBフラッシュメモリを持って田原さんのもとへ戻る。いやなに、たった五歩だ、準備運動にもならない距離だけど、なんかすごく疲れる。

 上書きされてしまったファイルは名前を変え、メモリからテンプレファイルを田原さんのパソコンにコピーする。田原さんはすみません、すみませんとしきりに謝罪の言葉を唱えるが、ミスがなんとかなって安心したんだろう、口元がニヤニヤしている。

 あのさ、終わってないかんな? 見てみろ、おまえが作った見積もり、わたしが入れた赤で真っ赤だぞ。順に指摘していく。

「‥‥ここ、担当者。このお客さんの担当は青田さんじゃなくて三和さんでしょう。それからアサリがキロ100円になってる、0が一個足りない。あと‥‥」

「で、でも、これ、100円にしか見えなくて」

「1と0のあいだにカンマがあるでしょう。だいたいそれじゃ100グラム10円になっちゃいますよ、ちょっと考えればわかるでしょう。見たことあります? 100グラム10円のアサリ」

「いえ‥‥でも卸売りならそれもあるのかなあって思って」

「ありません。仕入値知ってますよね? あと、」

「あとぉ、ぼくのほうが年上なのにその口調はないんじゃないですか」


 は?


   * * *


 田原さんになんとか見積もりを作り直させたあと、自分の仕事にかかって、五時に帰る田原さんを見送って、小野さんにねぎらわれ、愚痴を言い合って、さらにそのあと事件が発覚して、仕事が終わったのは八時を目前にしたときだった。

 ちなみにわたしたちも定時は五時だ。発覚した事件はご多分に漏れず田原さん絡みだ。一番悪いのはわたしを通さずに直接田原さんに仕事を依頼した営業なのだけど――見積書の作成を田原さんに依頼していたらしい。そしてそれを明日朝一番で出したかったらしい。でもできてなかった。田原さんのパソコンには、テンプレファイルと、一ヶ月以上前にわたしといっしょに作った見積もりファイル、今日作らせたあの見積もりファイルしかなかった。

 もう、居合わせた全員がため息をついた。わたしと、小野さんと、営業の青田くん、それから接待に行く前に立ち寄った社長。社長、あの人、もうダメです、と言うと、うーん、と考えこんでいた。

 青田くんの見積もりができてなかったから言ってるんじゃない。青田くんから依頼があったことを言わなかったから言ってるんじゃない。もちろんそれもあるんだけど、ファイルは三つしかなかった、これってつまり、今まで作らせた見積もりもほぼほぼないってこと。

 見積もりはチェックしたあと、社判を押してコピーしてからお客さまに渡している。チェックから先はわたしの仕事、コピーの管理ももちろんわたし。田原さんに任せなくてよかった、作り直そうと思えばいくらでもできる。でも、それ、しんどい。しんどいよ。

 あー、なんでさっき、気づかなかったかなあ、わたし。明日またお説教だ。お説教だってしんどいんだけどなあ。どうしたらちゃんと伝わるか、どう言えば反省してもらえるか、考えるだけで胃がキリキリする。

 くそー、それもこれも、渡辺さんが三和さんになったせいだ。完全に逆恨みだけど恨みたくもなる。旦那さんのほう、営業の三和さんの成績は右肩上がりだし、給料アップの話も出てるし、そういえば赤ちゃんができたそうだし? 幸せいっぱいじゃないか、羨ましいぞ!

 それに引き換えわたしときたら。三和さんの仕事を半分引き継いだけど、二週間くらいは慣れなくて毎日一時間くらい残業してた。田原さんが入ってからは残業がさらに増えた。仕事終わりはもちろん、休みの日だってぐったりしちゃって動けない。

 遊びたいよー。恋愛したいよー。寿退社したいよー。

 飲みたい。一杯引っかけたい。でも明日も仕事だし、今日は帰ってごはん食べてお風呂入って‥‥を済ませたらもう寝る時間。小野さんと、近く飲みに行こうね、と約束した。

 罪滅ぼしか、青田くんが送ってくれるというので甘えることにした。断っておくけど、ここから恋が始まる、なんて夢みたいなものはない。青田くんは気のいい優しいやつだけど、あんだけ言い聞かせたのに田原さんに直接仕事を依頼するスカポンタン。だいたい配送車、軽トラだ、ロマンスが入り込む隙はない。

 ついでにわたしは弁当を買いたい。普段はちゃんと自炊するけど、今日はもうくったくた。これから台所に立つなんてごめん。だから青田くんには、コンビニで降ろしてもらって、そこでさよならした。

 お夕飯をコンビニ弁当。学生時代以来だな。

 通い慣れたコンビニも、時間が違えば雰囲気が変わる。わたしは常連客のつもりだけど、今いる店員さんにとっては一見さんだろう。朝はいつもおばちゃん店員しかいないのに、この時間は若いお兄さんやお姉さんなのね。大学生かな、わたしも五年前までは大学生だったんだけどな、たぶん今あの子たちと並んだら、十歳は離れて見えるんだろうな。窓ガラスに写った自分を見て、ぼんやり思う。

 ああ、お疲れちゃんだ。お疲れちゃんの顔だ。そうだ、栄養ドリンクでも買おうかな。ふらふらと栄養ドリンクコーナーへ進む。

「あっ」

 ぼそっと、でもはっきりと、その声は聞こえた。ん、と振り返ると、知っているような知らないような、見慣れているけどいつもよりちょっと元気そうな顔があった。

 あ、うつろさん。

 うつろさんはいつもの倍くらい開いた目でわたしを眺めている。ああ、栄養ドリンクを取りたいのかな、邪魔だったかな。適当にサッと取ってよける。

 これから出勤かな。なんだ、意外と遅い時間なのね。あれ、でも、そういえば。

「それ、カフェイン入ってるから、眠れなくなっちゃいますよ」

「えっ」

「こっちのがいいです。コラーゲン1000ミリグラム配合だからお肌にもいいですよ」

 うつろさんが、ピンク色の小さなボトルを差し出して言う。

「あ、はあ、ありがとうございます」

「じゃあ、お疲れさまです。無理しないでね」

 そう言って、すたすたとレジへ向かううつろさんの目は、まったくうつろではなかった。まっすぐわたしを見ていたし、まっすぐレジを見ていた。それからまっすぐ外を向いて、颯爽と歩き去った。

 駅へ。

 彼の背中を、わたしはぼんやり見送った。いつものしわくちゃスーツじゃなかった。のりの利いたシャツ、しわ一つ抜け毛一本ないスーツ、きっちりと折り目のついたスラックス。清潔感溢れる出で立ちだった、いかにも好青年って雰囲気を醸し出していた。レジのあの子たちと並んでも、大学の先輩かな、くらいの、若々しいオーラを纏っていた。

 ちょっとときめいてしまった。

「ぜんぜん、うつろさん、じゃなかったなあ」

 むしろ今は、わたしのほうこそ。

 会計を済ませ、温めてもらった弁当を片手に、コラーゲン1000ミリグラム配合の栄養ドリンクを飲みながら、アパートまで五分の道のりを行く。ほのかに甘くて飲みやすい。駅前の喧噪は夜の暗がりに溶け消え、わたしのハイヒールがアスファルトを叩く音だけが小気味よく響く。

 風が冷たい。星がきれい。どこからともなくいい匂い――これはたぶん、入浴剤。お風呂で遊ぶ子どもの楽しそうな声と、うるさーいと叱る、でもやっぱり楽しげなお母さんの声。

 わたしの一日が終わる。うつろさんの一日は今から始まる。


 行ってらっしゃい、うつろさん。

 明日もまた会えるかな、うつろさん。

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