第2話-3
メレディはハァハァという荒い息を抑えることができなかった。
それは二人と荷物を載せて走り抜けたフォスも同じことで、ねぎらってくれとばかりにメレディの肩を鼻先で小突く。
「まぁ、ここまでくればさすがに追ってこないだろ」
肩で息をしていないのはキビル一人だけだ。
大した汗もかいていない額を、安堵を示すポーズとして拭いながら言う。
「なんでわざわざ追われるようなこと……。話せばわかってもらえたよ」
息継ぎの合間に非難の声を上げるメレディにキビルは「バカ」と腕組みをした。
「連中の不信感はオレたちへの比重の方がデカかったぜ」
先ほどフォスを盗んだ男二人とメレディたちを見た視線の色の違いをキビルは機敏に感じ取っていた。
「オレたちのことをハナから疑ってた」
しかしその声に怒りの色はない。
「浮浪児とよそ者のケラス、信用ならないんだろうさ」
自分たちが色眼鏡で見られることはよくよくわかっていたのだろう。
「旅人の通り道とはいえあんな壁に守られてる街だ。排他的でかなわねぇ」
「でも、だからって……」
「多少強引になっちまったけどな。でも、あそこで捕まってたら街の外に出るのは厳しくなってたぜ」
ハハとキビルは笑うが、メレディは逆にため息をつく。
キビルの方が街の性質に詳しいのは確かなので、彼が東行きが難航すると判断するのなら、そうなのだろうが。メレディとしては穏便に済ませたかったのも確かだった。
「でもどうするの? キビルだって困るだろ」
二人は一緒にフォスに乗って関所を破ってきた。
キビルもチラリとではあるが姿を確認されている。
しばらくはあの街の検問も厳しくなるだろうし、戻ることはできないだろう。
「あんな街、未練なんかありゃしねぇよ」
キビルは壁にグルリと囲まれていた街ロタスのある方角を振り返った。ずいぶんと離れてしまったので、もう街は少しも見えない。
「オレぁもともとあそこの生まれでもないんだ。家族もいない。はぐれ者さ」
それに、とキビルは続ける。
「アンタってやっぱりトロいし、人を疑うことを知らないみたいだ」
「いや、そんな……」
「だがもうオレのことだって信用してるよな?」
メレディはぐぅ、と押し黙った。
確かにもう彼はすっかりキビルのことを頼りにしてしまっていたし、だからこそ彼が無理やりに関所を突破したことを怒れないでいた。
「よしよし、なら決まりだ」
キビルは切れ長の目を細めてメレディを指さした。
「アンタについてってやるよ。こっからはオレとアンタ、二人で旅するんだ」
驚いてしまって思わず「えっ?」と聞き返したメレディは背のちいさなキビルを覗き込む形になったので、勢いで眼鏡がズルリと落ちてしまった。
間抜けだったのだろう、キビルは笑った。
「オレ、アンタの足りないところを補う自信あるぜ。連れてって損がないって約束する」
「で、でも、危険な旅になるかもしれない。東に行くんだよ?」
この世界は今、東に向かえば向かうほど危険だ。
極東の国の侵攻は深刻で戦闘はいつもどこかで起きていると聞く。すでにいくつかの国は彼らの国に取り込まれているとも。
先ほどまで二人がいた城郭都市ロタスのあるこの国は比較的西方であり、まだ戦火に巻き込まれてはいないがそれでも実際用心のために国の要所は防備を堅くしている様子だった。
関所を突破できたのは、あくまで西方からやってきて東へ出て行ったからだろう。
「どうせあの街にいたってロクな人生送れやしねぇ」
キビルは山中の地面をつま先でかき混ぜながら「あそこじゃきれいな水を飲むのにも苦労してたんだ」と言った。
「そんならアンタと一緒に行った方が人生の再起が狙えるってもんだ」
少年の痩せたちいさな手がメレディのおおきな手を握る。
「なぁ、いいだろ」
切れ長の瞳が月明りに光っている。よくよく見ると、黒ではなく深い深い青色をしていた。
メレディはうなずいてしまっていた。
その目があんまりにも必死さを帯びていたから。
「キビルに東方に向かう覚悟があるなら」
「……なら決まりだな!」
つらい状況で生き抜いてきたゆえか厳しい表情に感じることが多かったキビルの顔がパッと華やいだ。少年らしい屈託ない笑みをやっと見られた気がする。
旅への同行がキビルへの良い影響になればいいとメレディは願わずにいられない。
「ロタスへ入った時の代金は据え置いといてやるから」
「ええっ、あの話ってまだ生きてたの!」
「バカ、当たり前だろ。それはそれ、これはこれ」
キビルは顔の前で指を交差させて「ま、そのうちでいいけどな」と笑った。
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装飾の凝らされた一室、整えられた庭園を望む窓辺。
「西方の城郭都市ロタスで東側へ向かう関所が内側から破られたという報せが入りました」
ゆったりとしたローブに身を包んだ男が豪奢な椅子を前にひざまずいて報告する。
「関所破りは二本の大角のケラスの仕業とも」
首を垂れる男の長くやわらかい髪は黄金色に光り輝きまぶしいくらいだが、報告を受ける相手はそれに目を細めることなく「そうか」とうなずいただけだった。
椅子に埋もれるように腰かけているのは幼い少年だ。
黒く色のついた眼鏡をかけ、少年の年齢に見合わない厳しい表情を浮かべている。
「アガナ様、ついに我々の光が動き出したということです」
黄金色の髪をした男はそう言って涙ぐむ様子さえ見せた。
しかしアガナと呼ばれた少年は「わかっている」と極めて平坦な声で返す。
「光の動きは読めない。まだ我々にとっての雌伏の時は続くだろう」
アガナは椅子の傍らに立てかけてあった杖を手に取った。
杖の底面がカンッと音を立てて希石造りの床を叩く。
「立ち上がるその日まで、お前だけが頼りだ。メルキオール」
黄金の青年メルキオールは立ち上がってアガナの手に自分の手を添えると「もちろんでございます」とやさしく、黄金のまつげで縁取られた目を伏せた。
「このメルキオールは、どんな時もアガナ様の味方です」
「ああ。信頼している」
窓の外には美しい庭園が広がっている。
だが、アガナの目はそのさらに遠くを見つめていた。
この平穏そのものの庭園の向こうに、戦火に焼かれた国が、街が、村が、人がある。
「ぼくはここから出られない。あの光を、共に見守ってくれ」
極東の軍事国家タルパの王宮は、今日も静かだった。