第2話-1
「困ったな……」
壁に背をつきながらメレディは頭を抱えた。
分厚くて長い布をグルグル巻き付けた頭はただでさえ重いのに、悩み事でさらに重たい。
「まさか買った地図よりも壁が広がってるなんて」
メレディが背中をついているのは都市をグルリと囲う壁である。
ここは厳密には城でなく軍の基地があるらしいが、いわゆる城郭都市というやつだ。
この都市は門番とのやり取りをして不審なところなしと認められて壁の中にひとたび足を踏み入れると賑やかな市場が広がる大きな街だ。
街は道の行き止まりではなく途中にある。都市の向こうには道が伸び、この国の首都へとつながっていた。
つまりに関所も兼ねており、旅人たちの徴税と検問の場なのである。
「迂回できるはずだったんだけどなぁ……」
フードの上から分厚いターバン。巨大な雪玉のような鹿。売り物の薬。
そのまま通してはもらえないだろう。
まず頭に何かを隠していないかとフードとターバンを取らされるに違いなかった。
そうすると、メレディの隠したいものはあらわになってしまう。
相棒で雪国原産の鹿ニポラスのフォスも心配だ。
新雪をやさしく丸めた雪玉を思わせる毛の中に何かを仕込んでいると疑われて毛を刈られたら。
門番によっては薬を没収してくるかもしれない。
だからこの都市を壁伝いに迂回して険しい山道を行くつもりだったのが、計算が狂ってしまった。
さっきもメレディが頭を抱えていたように、買った地図が古かった。
地図は当たり前ながら書かれた当時を基にしている。
迂回できるほどの距離だったはずが、実際に来てみたら壁はもっと長い範囲で積み上げられていた。
戦火の影響がここまで来ているということをメレディも肌で感じ取った。
この世界はもう何年も戦火に焼かれている。
いや、時代の中でいつだってどこかで争いは起きていたが、この十年二十年は尋常でないのだ。
極東の国がすさまじい速度で侵攻し、他の国々は防戦を強いられている。それに伴ってどこも用心していた。この国でも例外ではないのに違いない。防備を強化したわかりやすい例として壁が積み上げられている。
メレディのいる側は西だが、都市全体が巨大な円を描いているようなのでこちら側も壁を伸ばしていくしかなかったのだろう。
「これじゃあますます入れない」
別のルートを探るのもあるにはある。
しかし、そのためにはかなりの距離を戻らなくてはならない。
「もうフォスを休ませてやらないとならないし……」
相棒のフォスは長距離移動してきた疲労からか、真っ白な体が土で汚れるのも構わず地面に胴体をつけて休んでいた。
メレディもいい加減体に疲れが来ている。
森の中で人目を気にせず休む予定が、ここはさすがに兵士たちの警備の目があって休息も取れない。
正直、今も壁の上で警護に当たる兵士に睨まれている気がしないでないのだ。
「なぁ、そこのアンタ」
急に声がした。
驚いて素っ頓狂な声を上げそうになったが、なんとか飲み込む。
「一体何をそんなに悩んでるんだよ。日が暮れちまうぜ」
フォスの後ろからピョンと飛び出してきたのは少年だった。
ここらであまり見かけない顔の造りをしている、とメレディはすぐに思った。まっすぐな髪質と切れ長な瞳が印象的だ。
「悩みによっては解決できるかもしれない。なぁ、オレに話してみろよ」
そう言うと少年は顔のあたりで両方の人差し指を交差させるしぐさを取った。
「……なるほど。ありがとう。話だけならお代はかからないのかな?」
この辺りでそのしぐさは会計の合図だ。
少年は金次第で問題解決に一役買うと立候補してきたわけである。
それは少年の身なりからなんとなく察せるところだった。
継ぎのある服。脂で少し黒ずんだ肌とベタついた髪。孤児か、貧乏な家の子だ。
見た目で人を判断するのをメレディはあまり好まないが、旅の中では少しばかりそれをしなければ面倒事や痛い目を見る。
「ああ、もちろん。オレが手を貸せる時だけでいい」
「その頭のヘンなやつを取らずに中に入りたいって、そりゃ無理だ」
壁から少し離れ、事の詳細を伝えたメレディを指さして少年は腹を抱えて笑いさえした。
「門番だって仕事せずに給料もらっちゃいないぜ。鹿はともかくアンタは怪しすぎる」
頭を指さされるとメレディも何も言えない。
ターバンを巻いた頭は、頭もう一つ分くらいは高くなっているのだ。
何か隠しているようにしか見えないだろう。
そもそも、メレディは実際にターバンの下に秘密を隠しているのだから、疑われていることは真実であった。
「女じゃあるまいに、人前で髪を見せちゃならないわけでもないだろ?」
確かに地方によってはそういう風習もある。しかしメレディは男だ。
戒律が、風習が、というより個人的な理由があると踏んだのか少年は深く切り込んでくる。
「アンタ、何をそんなに頭を隠したがるんだ? まさかその下は薄毛とか?」
いたずらっぽくそう言うと、少年はパッとメレディにとびかかった。
とっさのことで避けられず、少年に馬乗りにされる形でメレディの縦に大きな体は地面に転がった。
「痛っ」
「もうまどろっこしいからオレには見せてくれよ」
言うが早いか、少年の手がターバンをグイッと上へ持ち上げ、帽子のように脱がせてしまった。
「ほ~、こりゃご立派なツノだ」
メレディは半分体を起こした体勢のまま身を硬くした。
少年の眼前には、メレディの額から生える立派な二本のツノがあった。
「アンタはコレを隠したかったってわけか」
なるほど、と少年は一人うなずく。
「……そ、その通りだよ」
自分でも少し声が震えているのがメレディにはわかった。
つい最近、同じように自分を呼び止めた少年がいた。その少年とは、自分のこのツノが露見したとたんに別れなければならなくなった。
それを思い出せば、まだビクついてしまうのだった。
少年が次にどう出てくるか、メレディはゴクリと唾を飲み込んだ。
「アンタ、ケラスの人だったんだな。じゃあ、なおのことそんな風に隠さない方がいい」
ケラスの人。
ツノを持つ者は他と区別してそう呼ばれる。古い伝承の時代から現代まで、時に崇拝の対象にも恐怖の対象にもなりながら多くが隠れ暮らしてきた種族だ。
貧民の少年でも知っているのか、とメレディは少しばかり瞠目したが、それよりも少年の提案である。
「隠さない方がいい? このツノを?」
メレディは後頭部に向かって伸びる立派なそれを自分で撫でながら少年の顔をまじまじ見た。
自分の上に乗っかったままの少年は小柄で、重みを感じないくらいだ。その少年を見上げるようになっていることは、そのまま今の話の主導権がどちらにあるかを表しているかのようだった。
「オレぁアンタが今までそれのせいでどんな目に遭ったかは知らないが、今この場においちゃ隠さないのが得策だと思うぜ」
少年はツノをしきりに触るメレディの手を指先ではじいた。
「なんでかって言うと、疑われて怖がられるのは隠すからだからさ。最初から後ろめたいことなんてないって見せびらかしておいた方がいい」
それに、と少年は付け足した。
「アンタらケラスの人たちが一種族じゃないように、オレたちだってみんながそれを怖がってるわけじゃないぜ」
フンと鼻を鳴らして少年は少し胸を張る。
「現にこのキビル様はアンタのそれが少しだって怖かない」
キビルと名乗ったこの少年が大きく見えたのは、決して見上げていたからばかりではないだろう。
「ありがとう、キビル」
「……今の、別に呼ばれたくて名乗ったわけじゃないぜ」
ホッと安心したように微笑むメレディにキビルはむくれた声を出した。
「そうだった? 嫌、だったかな」
表情を少し暗くしたのを察したのかすぐに「嫌ってわけじゃないけど」と返ってくる。
「代わりにアンタの名前も教えてくれよ」
「僕はメレディだよ。メレディ・パルコマ」
「じゃあこっちも改めて名乗るが、オレはキビル。ただのキビルだ。アンタみたいにご立派なのは後ろにつかないぜ」
その言葉から、彼はやはり孤児らしいとメレディは推察する。
親を知らないほどの時期に捨てられたか、過去を捨てたのだろう。
「そう、じゃあキビルって呼んでもいいのかな」
「呼んでもいいか……って、もうさっき助言はして解決してやったじゃないか」
キビルは腕を組んで「もうアンタとはお代もらってハイさよならだぜ」と言う。
「あれ? てっきり門番に口利きもしてくれるんだと思っていたよ」
「……アンタ、すっとろそうだと思ってたが案外ちゃっかりしてんな」
「しばらく旅をしてると図々しくなってしまうのさ」
メレディは彼にしては珍しく、いたずらっぽく笑った。
傍らのフォスがそんな主人を物珍しげに見ている。
「お代ははずんでもらうからな」
むくれてそう言いながらもキビルも頼られてまんざらでもないのか断らなかった。
「で、この男はここよりもっと西から薬を売りに来たんだ。すごいぜ、カバンの中を見てみろよ。オレたちの知らない草やら実やらからできた粉末と丸薬でいっぱいだ。材料もあるから、コイツ自分でも薬を調合できるらしいな。風邪ひとつ取っても咳、のど、頭痛、鼻水に効くのもある。酒飲みに効くやつもある。アンタ、酒は飲むのかい。どうだ一粒買ってみたら。知らない土地の薬ってんで怪しく思うかもしれないけどよ、効き目のほどはいいかもしれないぜ。それに」
キビルがベラベラと門番にまくしたてるのを、メレディはもう何も口をはさめずに見ているしかできなかった。
関所に通されるなりこれなのだ。
けだるげな門番が「街に住んでる浮浪児と、旅の薬売り……とそのお供の鹿ね」とメレディたちに言った瞬間からこの豪雨のようなおしゃべりは始まった。
門番もあんまりに彼が声高く興奮してしゃべるものだから煙たげだ。
「あー、もうわかったわかった。お前、この男と商売して小銭稼いで身ぎれいになりたいんだろ」
根負けしてぐったりした門番が手でシッシッとハエを追い払うように二人と一頭を街の中へ続く方へ追いやった。
「貧乏孤児と旅のケラスの二人組で事件起こすのだけは勘弁してくれよ。俺の担当の時に通した奴が何かしでかしたら大目玉だ」
門番はメレディをチラリと見やった。視線がジロリとツノを追っている。
メレディは今、マントのフードも分厚いターバンもしていない。無防備な状態だ。
ドキドキした。心臓が早鐘を打っている。
「ま、いいだろ。俺ぁケラスだろうが盗人だろうが、この街の中でもめ事を起こさなけりゃ構わんさ」
「安心してくれよ、旦那。ま、よろしく頼むよ」
キビルが門番とのすれ違いざまに、その手に何かを握らせるのをメレディは見た。
「キビル、君さっきの門番に……」
フォスの手綱を引いたメレディが体をかがめてキビルに耳打ちすると、彼はあっけらかんと「ああ、賄賂渡しといた」と返してきた。
「当たり前だろ。俺が気を逸らしてアンタと門番にほとんど話させなかったとはいえ、ケラスをよく思わない奴も門番の中にはいるからな。口止め料は必要経費。立て替えといたから代金に勘定しとくぜ」
「……僕一人じゃやっぱりそこまでできなかった。ありがたいよ」
「アンタ、あれくらいできないで今までどうやって旅してきたんだ?」
えっと、と街を時間と労力をかけて迂回し続けてきたメレディが口ごもると、キビルが前を指さした。
「まぁ、そんなこといいや。この門の先はもう街の中だぜ」
また心臓がドキドキするのをメレディは感じた。
華やかな街など初めてで、まして見知らぬ大勢の人たちにツノをさらして往来を歩くのなど今までもってのほかだった。
ちゃんと歩けるだろうか、また怖がられないだろうか。
先日出会った親子の、母親の目を思い出す。
ブンブンと頭を振って暗い考えを振り払おうとすると、頭が軽いのにようやっと気が付いた。
頭を隠すための布たちがないのは久しぶりのことだった。
こんなに軽かっただろうか。
「安心しろよ。オレがついてる」
キビルがメレディの肩を少し背伸びしてたたいた。
それがとても頼もしかった。
「ありがとう、キビル。でも、君だってもう行ってしまうだろう」
「バカ。代金もらうまではついてくに決まってんだろ」
「でも、ここで払えるし……」
「はずんでもらうって言ったじゃないか。今晩は屋根のある場所で身ぎれいにして眠りたいんでね」
「えっ。君、まさか僕に宿代ももたせ、」
「いいから行くぞ! 日が暮れたら宿も埋まっちまう!」
二人と一頭はようやっと城郭都市ロタスの門をくぐった。