第29柿 選ばれるのは1人(1匹)
5月の終わり頃、
ジメジメとした梅雨に入り始めて
天気はたいてい雨模様。
仙台育米野球部はすでに1週間近く
グラウンドで練習できないでいた。
練習試合に連戦連勝で浮かれムードだった
メンバーにも不穏な空気が流れはじめていた。
一度でも負ければ学校の未来は閉ざされる。
負けは許されないのに、練習の機会が
減ってしまっているのだ。
屋内練習として学校のジムを使っていた
カニもなかなか外練ができないことに
不安を感じつつも今できる精一杯のことを
やろうと、学校併設のジムで反復横跳びを
4時間近くしていた。
カニの子どもである子ガニは来年から
カニ小学校に通うことが決まっていた。
カニは自分が学がなくて苦労した分、
子どもに同じ苦労はさせたくないと
貯蓄を削って私立の小学校に行かせる
予定である。
子ガニが大きくなれば学費から
食費、交際費と、どんどん物入りになる
ことは想像に容易いのでなんとしても
お金を稼がなくてはならない。
もし今の野球部で活躍して
甲子園に出ることができれば
プロとやらからスカウトなるものが
くるかも知れない。
そうすれば子ガニに良い教育を受けさせて
美味しい物だって食べさせてあげられる。
これまで貧乏でたくさん我慢させた分、
贅沢なことだって経験させてあげたい
カニだったのだ。
きっと、今回の甲子園は仙台育米にとっても
カニにとっても最初で最後のチャンスだ。
(みんなのためにも頑張らないと…)
カニはさらに2時間、反復横跳びをし続けた。
そろそろ終わろうかと思っているところに
野球部キャプテンの臼田がジムへ入ってきた。
「あ、カニじゃん。だいぶ長いこと
トレーニングしてるね。」
「私は足が遅いからねー、筋肉の
瞬発力を今のうちから上げとかないと。」
(モールス信号)
モールス信号が解読できる臼田だったが
いい加減この会話の仕方もめんどいなと
つくづく感じてはいた。
「なるほどなー、そういえば猿も
最近は珍しく投球フォームの勉強してるな。」
「へー!珍しいね!栗原監督に
教えてもらってるのかなー。」
(モールス)
「いや、YouTubeで調べて
動画見てるらしい。」
「なにもしないよりはいいね。」
(モールス)
カニは帰る支度をして子ガニの託児所に
向かおうとしていると臼田がやたらと
話しかけてきて、なかなか帰るタイミング
を見つけれないでいた。
「そういえばさ、プロの野球球団も
今回は仙台育米にけっこう注目してるらしい。」
「え!プロ!いいところ見せたいなあ。」
(モールス)
「ただ、栗原監督が言うにはスカウトされた
としても1人だろうってさ。」
選ばれるのは1人、カニは突如
シビアな現実を突きつけられた。
そもそもスカウトされるかも
分からないのに選ばれたとしても1人。
仙台育米には行儀こそ悪いものの
怪物投手である猿と、コミュニケーション
をとるのは難しいがホームランバッターの
ウシノ・ウンチッチがいる。
自分が選ばれるのは、かなり望み薄だろうと
カニは少し悲しくなった。
しかし、選ばれなかった時は
選ばれなかった時である。
まずはチームのみんなや学校のためにも
全力でプレイすることが先決。
カニは臼田が、ほどけた靴紐を
結び直している隙に黙って帰った。
校門を出ると近所のゴミ捨て場に
猿とウンチッチが何やら座り込んでいる
のを発見した。
「あ!おーい、猿〜。何してるのー?」
(モールス)
猿は慌てて振り返ると、自分を呼んだのが
カニだとわかって少しホッとした顔をした。
「なんだ、カニかよ。急に話しかけて
くんじゃねーよ。」
「ごめんごめん。見かけたから
何してるか気になって。」
ウンチッチは右手に何かを持って
カニの方をずっと見ていた。
「俺はいまウンチッチに凄くいいエロ本が
捨てられてる宝の山の場所を教えてやってた
んだよ。」
「オンナのヒトのオッパイがたくさん
ありますデスネ!」
右手に持っていたのは捨てられていた
青年雑誌らしい。
最近の雨にやられて、しわっしわに
なっていて汚らしいことこの上なかった。
「そうだったんだ。また雨降りそうだから
そろそろ帰りなよね。」
「ういうーい。よし、ウンチッチ。
次は河川敷の宝の山を教えてやる。」
「ハイ!センパイ!」
男の子が考えることは、よく分からないなと
思いながらカニは帰り道を歩き始めた。
やっぱりプロになるのは、さっきの2人
なのだろうか。
(猿もプロになりたいって最近はずっと
言ってるもんなぁ…)
猿は恋焦がれている猿美ちゃんと交尾したい
一心でプロを目指しているわけだが、カニは
そんなこと知るよしもなかった。
それに猿は一度言い出したら聞かない性格
なので、プロになりたいと言うからには
本気で目指しているんだろう。
今日のカニはナーバスになりやすかった。
実は5日後には女の子の日がひかえていることも
要因の1つなのだった。
長い帰り道を歩いて、日も暮れたころ
やっと子ガニのいる託児所についた。
しかし、今日はやけに子ガニが
出てくるのが遅い。
いつもなら保母さんに連れられて
すぐに出てくるのに。
どうしたんだろうと気を揉んでいると
遠くの方で救急車のサイレンが聞こえた。
カニの心中に、嫌な予感が走る。
しばらくすると、いつも子ガニを預かって
くれている保母さんがなぜか託児所の外から
こちらに向かって走ってきていた。
そしてカニを見つけると一目散に駆け寄り
涙目になりながら息を切らして、カニに
途切れ途切れ話を伝えた。
「今……、子ガニちゃんが40度の高熱を
出したまま熱が下がらなくて………、
倒れちゃって………、病院に
緊急搬送されました………!」




