Chapter:01-01
Chapter:01-01
『クリストファ・アレン』
雨が降っているようです
一粒、二粒と零れ落ちていくささやかな水滴
そのリズムに合わせて、ピアノを弾きました
涙雨、と言う言葉があるらしい。上手く言ったものだと思います
譜面はありません
ただただ、揺れ落ちる水玉のリズム、涙のリズムに合わせて付き合いの長いピアノ、その鍵盤を撫で続けました
でもね、泣くのはこれっきり
私は、もう泣かない
……そうね。私にとって、これが生まれて初めての『作曲』と呼べる行為だったのかもしれません
◆ ◆ ◆
「――ファ――ストファ――クリストファ! クリストファ・アレンッ!!!!」
いけない、授業中に眠ってしまっていたのか……。
「はい!!」
とにかく速やかな直立を実行して、質問を待った。
「良い返事は返事だったなぁクリス…………で、答えは???」
清潔感のあるワンピースに身を包んだ女性担任教師が笑顔含みながらも、その口の端を邪悪に持ち上げた。ええいくそっ、そりゃ授業中に眠っていた僕がいけないのだけれど。そもそも、何の授業だったっけとか思い出せない辺りが大概、僕も終わっているな。ええと、担任だから、古文か、或いは歴史か。丁か半か。
「答えは――『ありおりはべり――いまそがり』です!!」
物凄い博打はやはり、大外れだったようで、その教室がどっと派手に沸いた。手元のスクリーンパネルが『歴史近代』で点滅している事に今更ながら気付く。いやーやっちまったなぁ。
「ああ――なんか地味にアカデミックというか文学的だし、許したくなる類のボケだがまあ、それはそれだ。廊下に立っていろ、十六歳にして大物となったミスター・クリス???」
担任教師はそれでも必死に笑いを堪えているのだろう。気持ちは分からないでもない。ので。
「ハイ。スンマセンシタ!!!!」
深々と一礼し、未だ爆笑冷めやらぬ教室から僕は、廊下に出て行った。座布団一枚! とクラスメイト男子から背中に掛けられた声に対しては背中を向けたまま、無言で親指を立てる事で返事とした。
「さっさと廊下にいかんか!! 座布団は持っていくなよ!!」
笑いを堪えるのを放棄した担任教師が遂に噴き出してしまったので、教室の笑い声は更に加速度的に膨れあがっていった。
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放課後、担任教師からテンプレート的な注意と、教育指導を受ける事になった。
「いやぶっちゃけ副級長やっていて成績も安定、素行も良好な君に何か言う事あるかっつったらないんだけどさぁ」
「すみません、別に夜更かしを決め込んだ訳でもなくて、ただいつの間にか眠ってしまって……」
それは全くの事実であり、恥じ入るところでも無かったのでクリストファは静かに頭を下げた。なんだかここ数日、眠りが浅い自覚は確実にあったのだけれど。
「……ああ、まあなぁ、君のデリケートな『事情』も知ってはいるつもりだし、でもあの場合、私は君に叱責を加えねばならなかった、その理由は分かるよね??」
言及し難い、そして通常の公務員教師であれば面倒臭がって触れもしないだろう部分に、しっかりと踏み込んでくるこの担任教師をクリストファは嫌いではない。
「正しい選択だったと思います。贔屓はするのもされるのも嫌いですし、実際に自分が擁護される要素は全く、ありませんでした。本当に申し訳ありません」
まぁ、わかったんならそれで、と担任はクリストファ主観では濃すぎるコーヒーを手に取った。話は終わり、そんな空気なのだろうか。しかしなんだか色々とこの人には面倒掛けて、申し訳ない事が多いんだよな。
「……あの、誤解されると困るんですが僕はノリコ先生のこと本当に好きですし、尊敬していますよ?」
ブー、と担任ノリコが含んだばかりのコーヒーを見苦し汚く噴くのは流石に想定外だった。
「ゴホ、ゲヘ――突然何を言うんだい、クリストファ!」
鼻から茶色い水が出ているようだけれど、クリストファ・アレンは紳士なので脳内記憶を抹消する事にした。ただ、慌てて袖口で拭って頬に広がった口紅はこれはちょっと如何なものだろうか婚姻適齢期、妙齢の独身女性的に考えて。噂の彼氏とは、果たして上手く行っているのだろうか。
「うへっ――きったねぇ――もとい、本当に嘘偽り無い本心であります!」
「つうか今、汚いって言ったか、言ったのはこの口か!!」
担任教師ノリコに両の頬を思い切り左右に伸ばし抓られる中、クリストファは余計な口を聞いた事を心から後悔した。
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「大変ねー、美形の教え子持つと」
ビシィ、とクリストファの担任教師は同僚である保健女医――表現に正確を期すれば養護教諭――の額にチョップを容赦なく放った。
「そんなんじゃねーよ、ただ、あの子は色々と面倒臭いんだ、状況が……同情しちゃいけないとは思っているけれど、でもさぁ」
その一パーセントでも良いから同僚にも愛を配って、保健医が額を抑えながら立ち上がる。
「勉強も出来て、コミュニケーションも問題ない、大丈夫なんじゃないかなぁ痛たたた」
実際、この保健医アニタ・フレイヤは担任教師である自分の次に、クリストファという一生徒に関しては労苦、責任を背負ってはいる一人だった、そう思い返す事の出来た担任教師はそれ以上の追撃を控えてやる事とした。淹れ直したコーヒーを一口。
「しかし子供だとばかり思っていたらなあ――」
ノリコの呑み込んだ途中の言葉は、アニタに強引に続けられる事になった。
「――急に大人の男になったみたいで正直困る、でしょ」
ぐ、と皮肉も返せない位に言葉にいよいよ詰まったノリコだった。
「保健医として、気になっている部分でもあるわよ」
眼鏡の奥のアニタの目は、笑っていなかった。
「何か原因が?」
んんー、とアニタはそれだけ答えてノリコよりは薄めのコーヒーを含んだ。改めて周囲を見渡し、自分達以外に一切の人間が存在しない事を確認して。
「彼は太陽系で、特殊な幼少期を過ごしているのかもしれない。アレン夫妻は医療系の児童福祉施設から彼を引き取ったそうだしね。無自覚に眠ってしまうのも、そんな揺り戻し、反動、或いは防衛本能なのかもしれないよ」
アニタのその言葉に、返せるものがノリコの中には無かった。詳細までは知らないが、太陽系、地球の孤児施設に類するものが、このエテルナのそれより優れているとは到底、想像出来なかった事もある。
何しろ、『あっち』では同じ人間同士が『国益』だとか『宗教』だとか『既得権益』だとか『領土』、どれもこれも、こっちエテルナでは死語になっていて久しい単語、言葉、概念価値観を根底とした組織的な殺し合いが未だに行い続けられていると聞く。自分ノリコ含め、目の前のアニタもそんな野蛮な「太陽系」で生活した事も無い。多くの同世代と等しく、このエテルナで生まれ、このエテルナで育った。
そりゃエテルナだって『天国』、『楽園』では無いから犯罪だって存在するし、目を覆いたくなるような事故、事件だってあるのだが、例えば重火器他での大量殺人等の事案が発生する事はちょっとどころでなく、まず考えられない。
「あたしな、初めてクリストファに会った時、一年前か――お母さんに似ているね、ってとんでもない事を言ってしまった」
それは仕方ないでしょ、とアニタは言ってくれたが。頷き、そうですか、と答えたあの時のクリストファの表現しようも無い表情は多分、自分の脳裏から一生消える事は無いと思う。
「クリストファはこれまでは子供である事を、演じて続けていたのかもしれないな、って気もする。とても本人には聞けないけれどね」
ここでアニタは自分の分のコーヒーを注ぎ足した。
「良い意味で『素』になってきている、だったらこっちは嬉しいぐらいのものだけれど」
学校という仮初め、一時的な環境、その演出装置の一部に過ぎない教師としては、それは歓迎するべき事だった。いや、しかし装置の一部って表現は自虐に過ぎるかな、等とノリコは考えたが。どうも、思考がネガティブ面に向いてしまうとこれだから良くない。
「定期健診でも問題無いし、大丈夫。あまり、気にしすぎるのも逆効果だと思う。もうちょっと、気楽に構えて良いのよノリコ」
砂糖を控え目にしているノリコに見せ付けるように角砂糖をボンボンとコーヒーに放り込むアニタ。
「……そうかな?」
「そう言う意味では、平等にピシャリと叱責、罰を与えた行動は正しかったと思うわよ」
なんだかんだと気にしていた部分であったので、このアニタの言葉には非常に救われた。
「大体、あの子、読書に色気付いてか、やたらと難解なものばっか読んでるし、その辺の影響もあるかもしんないし」
「あー、すげえな、それは確かに」
学校図書室の書籍を、電子のそれも含めて半分ぐらい、読み明かした存在としてもクリストファは有名人だった。自分が同い年だった頃は図書室では流行の音楽、アニメ雑誌しか見ていなかったものだが、等とノリコは想起してしまうが。
「図書室の王子様、とか呼ばれてるし」
「ぷっ――言い得て妙だな!」
思わず噴き出してしまった。まあ、確かに絵になる事はなるだろう。つい先日も、晴れた日の校庭芝生でハードカバーを山積みにして読書に埋没しているクリストファを見た事があったが、確かに、あれはいっそ神々しくすら見える光景ではあった。尊い――そんな表現の具現、象徴だった、と言うべきか。まあ、あれだ。読書好き、活字好きな生徒を嫌いな教育者はいません! 的な。本当にその時のクリストファはそのまま銅像にして、校庭のど真ん中を飾るに相応しい存在だったと思う。
「生徒会長から求愛も受けたみたい」
「まじか」
それは本当に初耳だった。生徒会長というとアレか。三年のナターシャ・タルブリエシュか。ああ、あの同じ女性としてなんかこう心穏やかでいられん部分もあるぐらいの美人のアレだ。美人ですがアレです。自分は教師ですが、アレはアカンです。本能的に女を演じているというか、なんかこうアレ。同性から嫌われるタイプの女のアレです。アレ。自分は教師ですが、アレはアカンです(本日振り、二度目)。
「なおサーセン、と無慈悲にクリストファは応じたそうなー」
「――だろうなあ」
ほっ、となってしまった自分自身を否定は出来ないノリコ。あんな毒婦に取られて堪るか、と言う発想が自分の中に存在した事はちょっとした発見で、洒落にならない驚きでもあった。忘れろ、忘れるのよノリコ!!
「いやー、しっかし、あれは良い男になるよぉおーー!!」
責任ある大人の女同士、アンニュイ的なアレコレ全てを情け容赦なく無慈悲に吹き飛ばしたそんなアニタの発言に、ノリコは本日二杯目のコーヒーをまたまた勢い、噴き出す事になった。
「言うに事欠いて何を言い出すんだよ!?」
「いや、オーラすげえ――あんな男、今まで私は見た事無い!! 断言しても良いね!! ウホッ、良い男!!」
駄目だ、この保健医どうにかしないと――異動手続きの申請ってどうやるんだっけ、内部告発は――と半ばその手段を真剣に洗い始めていたノリコだったが。パトカーとか呼びたくない。勘弁して。
「教師である前に女でしょう!? ああ、早く卒業してくれないかしら。かしらかしら合法かしらー!!」
ヌッハーン、とウィンクをしたり。きめえ。まあ、この女の事だから半分は過剰演技、なんだろう。そうなんだろう。そうだよね。そうであれ! あってくれ!!
「社会的に終わり掛けてるよ、頼むから人間界に戻ってきてくれ……」
地味に落ち込んでいた自分を、色々な意味で励ましてくれていたのでは無いかとも思っていたが、段々と自信が無くなってきた。
「誕生日目前、アンタが先日振った、その実、振られたベンジャミンより百倍は良い男になるわねえ!!!」
女性担任教師、ノリコ・マキシスの殺人技が炸裂した。
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「――ん?」
何処かで誰かが伝説の奥義『シャイニング・ウィザード』でも派手に食らった、そんな断末魔が聞こえた気がしたが。ともあれ、クリストファは『アドヴァンス市立マッケイ高等学校』敷地、その外れにポツンと存在している弓道場へと訪れた。図書室に寄って電子書籍のダウンロードと、予約していたハードカバー本の数冊と、気になっていた貸し出し可能の雑誌を確保。担任からの呼び出し、軽めの説教を受けたら、丁度良い時間にはなった。
「よー、旦那!! 今日もお迎えご苦労!」
この挨拶も毎度も毎度。ポニテ眩しい麗しの女子、しかしその身長はこの齢で170センチを垂んとする女巨人。クラスメイトであり、級長であり、そして生徒会書記でもあり、そして何よりも近所馴染みであるジャニス・アスプルンドだった。癖のある赤毛を無造作にまとめたポニーテール、伸び切った手足に弓道袴が良く映えている。雑巾片手、と言う事は最後の掃除の最中のようで、本当に時間的には丁度良かった。
「……毎回毎回飽きないかな、いい加減に」
ワッハッハ、と腹から笑うジャニス。弓道と言う日本武道は腹式が鍛えられるとは聞くが、この笑い方はそれこそ胴に入っていて嫌いではない。
「マキは?」
「現在、皆で鋭意清掃中でおじゃる。安土の方じゃないかな当番的に。呼ぶかい?」
安土という専門用語が、弓道という古武道の『的』を固定させる為の盛り土であり、また激しい速度で打ち込まれる矢を受け止める緩衝構造物でもある事は部外者のクリストファも知っている。と言うか、基本的に土砂を固めて作られる『それ』が崩壊した時の手伝い、労作に駆り出された苦すぎる実体験があった。水を吸った重い土砂をひたすら、盛り上げ固めていくという終わりの見えない作業であり、二度とやりたくない仕事の一つだった……。
「いや、呼ばなくて良いよ。いつもの場所で待っているからさ。本を読んでいるから気にしないでくれ」
「『あたし』はお邪魔じゃないのかい?」
ったく、なんでこの小娘もとい巨娘は毎回毎回それこそ同じ事を言うんだか。
「――学校側からも暗に『集団下校』を期待されているしな?」
クリストファが、毎回そう答える、これもルーチンの一つ。
「『集団』っつってもたった三人なのナー!!」
ジャニスがケタケタと笑った。
エテルナ共和自由国、その政府が音頭を取った『都市圏外居住生活実験』、そのモデルケースの一つとして首都アドヴァンスから50キロ離れた森林地帯、その拓かれた一角に彼等の『家』、特別居住区『グリーンヒル』は存在していた。およそ二千世帯に分譲され、それまでの都市部一極集中型多層構造建築とは一線を引いた牧歌的、いわゆる『庭付き一戸建て家屋』のみで構成された住宅街であり、それはそれは厳しかった抽選を潜り抜ける事に成功した幸運の持ち主とその家族のみが居住を許されている、正に『特別区』であった。そんなグリーンヒルから、都心部アドヴァンスの学習施設に通う生徒達の数は決して少なくはなかったのだが、何しろ新興の住宅街と言う事もあり、高等学校に通う人間となるとそれは両の指で数える程しか存在がなく、その結果としてのささやかな特権が『彼等』には与えられていた。
「あー、くっそ、羨ましいなぁ俺も乗りたいなあ」
クリストファが自分のエア・バイクに認証を入力した、そんなタイミングで背後から愚痴ってきたのは級友である櫻井サトルだった。やはり部活上がりなのか、柔道着の肩には汗に湿ったタオルが掛けられていた。
「通学以外だったら許可されているじゃんよ」
メットを取り出しながら、クリストファは当たり前のように答えた。実際、このアドヴァンス市ではエア・バイクのライセンスは15歳から取得が可能となっている。航宙機全般に近いその操縦方法、並びに空間認識能力が鍛えられるという側面もあり、寧ろその免許取得は国から推奨されている程だった。もっとも、学校側から通学用途での使用許可が降ろされているのは『グリーンヒル』居住者だけ、と言う現実――言い様によっては先の特権――があったのだが。数える程の学生に対し、スクールバスを手配するよりも自力で通わせる方が賢明、税金的に。有事の際にはオート・クルージング(自動操縦)で動かせば良いのだし、と。このエテルナは惑星開発の初期から人間の生活行動圏は全てGPS網でムッチリミッチリとカバーされているし、情報ネットワークに管理された高度な自律コンピュータを積載しているエア・バイクが不調を起こす可能性はまず存在しない、そんな背景もあった。集団による下校の推奨は、あくまでも、万に一つ、億に一つの危険性に備えてのものだ。
「……いや、実は先日、出前中に高度違反でポリにしょっ引かれて免停くらっちゃってさ」
トホホ、とサトルは頬を些か強めに掻くのだった。
「そりゃ身から出たワサビってもんでしょ」
ご愁傷様、と続けたクリストファにサトルは大きく項垂れた。
「お客さんに、握り立てを早く持っていきたかったんだよー……罰金はともかく、再受講と再試験……その間、家の手伝いできねぇってのがなあ。オヤジにも引っぱたかれたしよー」
「三枚に下ろされなくて良かったネ」
誰が上手いこと言えと言った、と老舗の寿司屋『寿司飛』の五代目はクリストファの背中を大きく叩いた。アドヴァンスの旧市街に居住まいを定める『寿司飛』は味が良い事で有名だった。なお、クリスとしては先の『身から出たワサビ』が通じていなくて、地味に凹んでいたりしたのだが。
「――あ、そうだ。そんなハゲオヤジがまたアレンさん夫妻に食いに来て欲しいって言っていたぞ。サービスするってさ」
またぞろ『試食会』の名を借りた『中年共が大いに酒を呑みまくる会 ~泥酔しているから恥ずかしくないもん!』が開催されるのか――クリストファは溜息を一つ。間違いなく、参加者は隣家近隣の夫妻もカウントされる事となるのだろうが。
「……オーケー、伝えておくさ。また連絡させる」
「頼むよ、地球育ちの『味覚』と『知識』は貴重なんだ」
「……僕を含め、あの人達にそんなデリケートな味覚があるとも思えないけど……」
実の所、『地球育ち』とか『地球産まれ』と言われるのは愉快な事ではなかったけれど、まあ実際に珍しい事もあるのだから仕方ない、と諦観できる程度に大人にはなれているつもりだった。ここ十年、実質的な移民制限が掛けられた結果、太陽系とアポロン星系を往復している船舶のほとんどが輸送船となってしまっているのは事実である。少なくとも、自分の年齢で『地球産まれ』なんて圧倒的少数派にも程があるレベルだったりした。更に半ばの自虐気味に付け加えてしまうとそもそもが、寿司と言う繊細和食に関する味覚感覚で期待をするとなると、生粋の日本国出身者とかでないと望み薄だろうと思ってしまうものだが。
じゃーな、と部室棟に寿司屋の五代目が向かったタイミングで、遠目にも判別の容易なジャニスと、恐らくはマキであろう人影、その組み合わせが視認出来た。
◆ ◆ ◆
自分、クリストファ・アレンは十六歳。血液型はB、身長は166センチ、体重55キロ。太陽系は地球、北米連合自治国の出身である。義父、アルフレッド・アレンと義母、バーバラ・アレンに連れられ、一年前にエテルナへ渡ってきた。どうもエテルナ到達時、『人工冬眠』からの覚醒工程の際に身体――この場合は脳関連だろう――に何らかの問題が生じたのか、ふとしたタイミングで意識を失い、昏倒、また或いは事前予測が困難な睡眠状態に陥る事が増えてしまった。また、恐らくはそれに関連して、と医師にも指摘されたのが軽からぬ記憶障害の存在であり、太陽系時代の生活記憶がほとんど残っていないという現実。全く、では無いのだが、果てしなく薄靄掛かった、あやふやなものであり、さながら白昼夢のような、朧気、なものでしかなかった。かつて、今よりも遥かに人工冬眠の期間が長かった過去にあっては、自分と同年齢の少年少女達に同様の症状が見られた事もあったようだが、自分のそれはちょっとどころではなく、深刻な状態な気がしてならない。もっとも、精密検査を受けても何処にも異常は見当たらず、健康そのものと言う結論にしかならず、両親を含め医師を悩ませてしまっている事が非常に心苦しくはあった。様子を見ていくしかありませんな、と力無く呟くしか無かったそんな医師には、逆に心から同情してしまう始末だったり。
幸いにも学業的な部分での妨げとはこれはならず、通常学級への入学を果たす事は出来た。その成績にも問題は全く無く――寧ろ努力を怠ってすらいたのだが――常に学年一位をキープ。
今は、もう細かな定期診察も必要ない、けれど、学校を始めとした各種機関からは注意深く見守られている存在、それが自分。
好きでこうなった訳ではないものの、どういう事か外見から女性と間違われる事が多い。中途半端な長髪が問題なのかと思い切って短髪にしてみたが、あまり効果は見られなかったので、今はもう好きにやっている。また、世代に関係無く、折りに触れ言われるのが、何歳にも見えるし、何歳にも見えない、らしい事。この年齢であるので、「大人びている」と言われるのは気恥ずかしい一方で、嬉しくもあったのだけれど。
そんな自分は、まあどうにか、それでも平穏な日々をこの『エテルナ』の大地で過ごしている……のだと思う。
そして、これからも。
◆ ◆ ◆
手を振ってきているクリストファに絆創膏にまみれた左手を振り返す。和弓を握る左手――弓手と言う――のマメが今日も潰れてしまって、かなり痛かった。幼少の頃より半ば強制されてきた――今は、必ずしもそうは思わないのだけれど――ピアノの演奏に支障が出るんじゃないか、と父親はうるさかったものだけれど、そちらの手も抜かないと宣誓し、弓道を続けさせて貰っている。まあ晩酌時、ワインで気を良くした父親の即興オペラ、その伴奏をしてやれば大抵、機嫌が良くなる、ある意味では操縦の易い父親ではあったが。何時からか、自分のピアノ演奏の方が技術水準は上だな、と感じるようになっていたが、これはそんな父親には内緒の話。
「もうちょっとの辛抱。皮が堅くなってくるから、大丈夫っさ」
肩を並べ歩いている――身長170オーバーの彼女と160にも満たない自分でこの表現は間違っているかもしれないけど――ジャニスがそんな事を言ってきた。私は、何も口にしていないのに。豪放磊落だけではない彼女のそんな優しい側面、細かな機微を、クラスのみんなはどれだけ知っているのだろうか。いや、感じられているからこそ、級長として、生徒会副会長として選ばれているんだろうけれど。
「二人とも、おっ疲れ。天気予定では大丈夫らしいが、寒くなってきたし早く帰ろう」
自慢の愛機、純白のバイクに跨りながらクリストファが促してきた。自分達が来るまで、ナビシステムの情報各種、その確認をしてくれていたのだろう。
「さて、帰りますか、愛しのマーリンちゃん」
よっこらせ、と教員と共用のパーキングゾーンからジャニスが、ドの付く紫色のバイクを引き出した。『マーリン』というのはそんな私物バイクの愛称だ。ちなみに、深い意味はないらしい。やはりこの辺は適当というか、大雑把な部分がある彼女なのかも。私物でもあるバイクに関して、クリストファや私は単純にブランド名でもある『カタナ』と呼んでいたけれど。栄光と実績、何よりも歴史あるスズキ株式会社の製品だ。
「――つっ」
自分のバイク、そのハンドルを握り込んで引き出したはいいものの、やはり左手のマメが激しく痛んだ。
「ああそうだクリスぅ、あっちらちょっと弓握りすぎて左手痛いんだ。先導してくんね??」
既にヘルメットも装着していたクリストファが大きく頷きながら、器用に首を振る。
「……すまん、気付かなかった――オーケー、二人とも『SLAVE』設定を。今、こちらの『MASTER』を設定する」
クリスが謝らなくたっていいよお、ジャニスは苦笑混じりに私の方を見てきた。
「ありがと、ジャニス」
「いや、あっちのも微妙に痛くてね。せっかくだから名ドライバーに引っ張ってってもらっちゃおうよ」
ケタケタ笑いながら、左手のグローブをさすって見せるジャニスだったけれど、これはどこまでが本当なのだろうか。いずれにせよ、クリストファの運転技術が最高峰に近いのは確かだったのだけれど。
「ID送るよ。承認よろー」
ヘルメットのバイザー面、そのタッチパネルの操作を滑らかに行いながらクリストファが言ってくる。私とジャニスは差し当たって無駄口を叩かず、認証コードとこの短時間だけ発効された特殊IDを入力した。いつもの事だけれど、クリストファの先回りの速さは尋常ではないのだ、これが。
「追従信号、確認。メットとベルト着けろー」
ぶりゅん、とクリストファの『カタナ』が大きくエアーを吐き出した。こちらは、あたふたとフルフェイスのヘルメット、シートベルトを揃って装着。
「――さて、帰りまっしょう」
生来の生真面目さか、ミラーだけでなく直接振り向いて、肉視でこちらの状態を確認してくるクリストファ。念の入れ方が大昔の映画で観た軍人さんみたいやなぁ、とメット内蔵のマイクでジャニスが限定通信を用いて言ってきたのには大きく笑ってしまった。が、自分は限定でなく、周囲数十メートルのオールレンジで音声発信する設定を施していたため、?マークを露骨に頭上へ浮かべたクリストファを再度、振り向かせる事となってしまう。
「ごめんなさい、なんでもないのよ」
「ならいいけど――大方、秘匿でジャニスが何かを口にして、ウッカリなマキが共用周波数帯で爆笑した、ってところなんだろう?」
クリストファさん、まじパねぇっす! 洞察力とか半端ねぇっす! なので。
「「なにそれキモイ――」」
バイク座乗ながらも、器用にジャニスと二人でキャーと抱き合った。
「…………そろそろアクセルをベタ噴かせて貰っても宜しいでしょうか、このクソアマ――もとい、お嬢様方」
「フッ……君にその『権利』をやろう!」
腕を組んだ偉そうなジャニスの物言いに、いよいよクリストファも声を立てて笑った。
「かなわないな、全く――さ、Flow」
リーダーによるアクセルのベタ噴かせ宣言、とは程遠く、これはふわっと軽快に三人、それぞれを乗せたバイクが浮き上がる。道路、その側面、地下へ埋め込まれたエネルギーラインの恩恵だそうだけれど、詳しい事は知らないし興味もない。自分達の保有しているライセンスは小型浮揚分類一種であり、高度制限は地上より15メートル、速度制限が時速80キロメートル。現実的にはそれだけを知っていれば良いんだと思う。実際に、教習所でもそれ以上の事は教わらない。親機であるクリストファのパネル操作によって、そのヘルメット前面にナビゲーション画像が展開される。交通情報、気象情報共に異常、無し。
「気を付けて帰れよー、ガキ共――――っ」
クリストファによる離校シグナルの発信に気付いたのか、職員室窓から身を乗り出している担任教師にみんなで片手を振った。口は悪いが、なんだかんだと生徒思い、面倒見の良い先生なのだ、彼女は。それは疑う余地、無く。
地上5メートル、時速60キロ。浮遊感と、ささやかな密着感の伴うそんな一時間にも満たない時間が、マキーナ・ローゼンベルクは好きだった。ヘルメットに内蔵されているマイクによる他愛のないお喋り、時には雨、稀に雪の中。いつも、いつも三人だった。時折、輸送のトラックと無人の警察ドローン、本数の少ない路線バスが更なる上空を飛んでいるだけ、そう、本当に三人。フラットなエテルナの大地、地平線に向けてただただ、ふわりと飛び続ける時間。
ぬるま湯のようだけれど、こんな時間がずっと続くのならば、これでも良い。そう、思っていた。
私、マキーナ・ローゼンベルクは、そう思っていました。
私、マキーナ・ローゼンベルクは、そう願っていました。
これは推測だけれど、多分ジャニス・アスプルンドもそう思っていたし、願っていたのではなかろうか。
自分が、事の真相を知る事になるのはもう少しだけ、後の事だったのだけれど。