03-01:シドニー到着
「エレンはカラテが出来るんだそうだよ、知ってたかいツギオ」
ハインツがツギオに話しかけた。
バスは果てしなく広がる起伏に富んだ牧草地の真ん中を走っていた。時々、二、三十頭の肉牛がのんびり日陰にかたまっている。柳の木が並んで列を作っているのは小川の岸なのだろう。柳の緑が夏の陽を受けてきらきら輝いて見えた。
「へえ、全然知らなかったです。それ言いました誰ですか」
「みんな知っているよ。昨日の晩、パティとジュリアが見たんだってさ。エレンが集会所の裏で、瓦をカラテチョップで割る練習をしてたって」
「それで本当に割れたですか」
「うん、そうだって言ってたよ。カラテ使いの女性なんて、かっこいいよね」
「そうそう、凄いですね」
ツギオはややオーバーに驚いてみせた。
「ここはヤッスの町、右に見える道を行くとキャンベラです」
ラークが車内放送した。旅程は二日目(十二月二十六日)に入り、バスはまっすぐシドニーに向かって疾走していた。
彼らがシドニーへのフリーウエイに入ったのは三時を少し回った頃だった。三十分も走ったろうか、フリーウエイの彼方にシドニーのビル群が見え始めた。乗客はほとんどが居眠りをしていた。バスがとある陸橋の下をくぐった時、ラークが激しくブレーキを踏んだ。見ると、バスのフロントガラスがヒビ割れで真っ白くなっている。
「どうした、ラーク」
アンディが最後尾の座席から怒鳴った。ドンがおどけた調子で怒鳴り返した。
「インベーダーだ!」
乗客はみんな目を覚ましてざわめき始めた。ラークは超低速で車を発進させ、五分も走るとドライブインの前に駐車した。そして乗客を車内に残したまま中に入っていき、三、四分でまた出てきて車内放送した。
「この車はトラブルでこれ以上使えません。今、社に連絡して別の車を回して貰うようにしました。我々はここで待たなければなりませんが、その間自由時間とします。一時間後にここに戻って下さい。今、三時五十分ですから四時五十分です」
ラークはそれだけ言うと紙ばさみに挟んだ書類に何か書き入れ始めた。ほとんどの乗客はバスを降り、ドライブインの方に歩いて行った。エレンがのんびりと車を降りようとした時、車内にはまだジョルジュがいたが、彼は再び舟を漕いでいた。
それから暫くして、昼寝から覚めたジョルジュはドライブインの電話の傍の棚で絵葉書を選んでいた。
ツギオがスタンドに行くと、エレンがコーヒーを注文しているところだった。コーヒーにたっぷりのミルクと砂糖を入れているエレンの向かいの席で、ツギオはブラックコーヒーを飲んだ。やがて二、三枚の絵葉書と紅茶を持ってジョルジュがやって来た。
「こ~こ、座っていいで~すか」
「どうぞ」
エレンが答えた。ジョルジュは向かい合って座る二人の間に入ると、買ったばかりの絵葉書を広げて見ながら、
「ま~だお互い自己紹介をしていませ~んでしたね。ワタッシはジョルジュ・ローラン、フランスのブルターニュから来て二年目で~す。メルボルンで自動車工場の機械工をしてお~りますのです」
と言った。エレンは
「私、エレン・オースティンと申します。メルボルンの法律事務所で秘書をしています。こちらは、日本から来た学生のツギオ・コンノ」
「あな~た日本人で~すか。ほんっとう~に」
ジョルジュは大声をあげた。それから彼はカメラ、フィルム、自動車、エレクトロニクスから時計まで、ありとあらゆる日本製品の名をあげて賛嘆した。ツギオは最初のカメラとフィルムのところで、ドイツやアメリカの製品名を挙げて反論したが、ジョルジュは言下にそれを否定したものである。ツギオはそのあまりの賛美ぶりに辟易し、急いでコーヒーを飲み終えて、そそくさとバスに戻ってしまった。
バスの運転席にはナースのリンダが座っていた。奥の方にハインツがシートをリクライニングにして、椅子の肘あてに腰かけたジェーンと何か話し込んでいた。
午後四時三十分、一台の白いクーペがバスのすぐ横に止まり、中から縮れ毛に艶のある黒い肌の青年が現れた。身長百八十センチ弱、厚い胸板をぴったりのTシャツが強調している。
「ごめん下さい。ミスター・コンノはおいでになりますか」
男は入り口から声をかけた。
「あっワイプルダンヤじゃないか」
「やあ、ツギオ。来ちゃったよ。どこかで会うかも知れないって言ってたろ。出られるようだったら一緒に夕飯でもどう? こっちの知り合いにこの車借りて来たんだ」
ワイプルダンヤはにこやかに答えた。
「いいね。……リンダ、構わないですか」とツギオ。
「ええ、いいですとも。ただ、今日からテントで寝ることになるんですが、二人用のテントなんです。ですから、パートナーを決めてから行ったらどうですか」
リンダがアドバイスした。その声が聞こえたらしく、ハインツが上半身を起こして言った。
「ツギオ、俺と組まないか。俺は昨日からそう決めてたんだ」
「ありがとです。よろしくです」
ツギオは愛想よく答えた。
彼はバスを降り、クーペに乗り込んだ。ワイプルダンヤは車をスタートさせようとしたが、その時、バスの陰から走り出てきたラークがドアのガラスを叩き、手真似でドアを開けるように合図した。ワイプルダンヤは怪訝な顔をしてドアを開けた。
「ツギ、どこへ行くんだ」
ラークはワイプルダンヤを無視してツギオに、やや強い調子で訊いた。
「リンダに話してありますです」
ツギオはそっけなく答えた。
「ツアーの責任者は私だ。私の指示に従わない以上、何が起ころうとも責任は取れない。それでいいのか」
「結構。僕、責任をどうこう言ってません」
ワイプルダンヤは押し殺したような声でツギオに言った。
「車を出してもいいかな」
「ああ」
彼は猛烈な勢いで車を発進させ、フリーウエイに飛び出した。