03-04:シドニー到着
翌日(二十七日)朝、ツアーは七時にマンリーのキャンプヤードを出発し、シドニーの町に戻った。ツギオはハインツの枕を借り、シートをリクライニングにしてうとうとしていた。
バスは中央駅前に止まると、ドイツ人のゲルタを拾った。彼女は重そうなカメラバッグを肩に、とんがった鼻にかけたサングラスを縮れ毛の上にひょいと上げながら乗って来て、ジェーンの隣の空席に座った。バスはそこから二回左折してアンセットビルの前に来た。ここでは、顔も手足も何から何まで丸々とした体を黄色いワンピースに包んだニュージーランド人のポリーと、同じくニュージーランド人のひょろっとした老農夫トムとサム、それにイギリス人の赤毛のケイトが乗って来た。
トムとサムはバスの通路を「グッダイマイト」を繰り返して通りながらバジルとアンディのところまで行くと、その二つ前の席に並んで座った。ケイトは一番最後に乗って来て一番右の窓際の席に着いた。身長百七十センチ程の豊満で顔立ちも悪くないのに、一向に華やかな感じを与えない、二十歳と言っても三十歳と言っても、あるいは四十歳と言っても通用するような女性だった。
バスは最後にハイドパークの横に止まった。真っ先にカミーユが飛び込んできた。五歳の女の子で、後から乗って来た姉のシモーヌを急かすようにして最後尾から二番目左側の窓際に座った。続いて九歳のフランソワが、年に似ず落ち着き払った足取りで一番後ろの左端に座った。そしてこの三人の父母であるオランダ人のクリスチャン・ライケン夫妻が、ツギオの方をちらと見てから後ろへ歩いて行った。それから陽気なテレビタレントのローズとレッドの二人組。ロンドン生まれのすらりとした金髪美人のアリスとツアーの三人目のブルースが何か話しながら乗り込んできた。この3人目のブルースは、菜食主義者だったところから、昼食の後にはもう「カボチャのブルース」という通称で呼ばれていた。最後に、腕に孔雀の刺青をした痩せて小柄なガスがフランソワの隣に座ると、車内のシートはあと四人分の空席を残すだけになった。
ラークはアクセルを踏みこんでパシフィックハイウエイをその日の目的地コフスハーバーに向かって走り出した。シドニーから新たに十五人の乗客を増やしたバスは急に賑やかになった。
カミーユは通路を前に後ろに歩きまわり、たちまちバス中の人気者になった。ローズは玩具の蜘蛛で、窓外の景色に気を取られている乗客に不意打ちを食わせたり、コップの水をかけて回ったり、ついには例によって居眠りを決め込んでいるハインツに、自分の化粧道具できれいにメイクアップしてその記念写真を撮ったりした。
悪戯はしかし、ローズだけのものではなかった。ついに誰だか分からずじまいだったが、砂埃で汚れたトレーラーに指で「我々はダーウィンへ行くって? いや地獄に向かっているのさ」と大書した者もいた。ラークはケアンズでこれに気付き慌てて消したが、それまでにこの落書きはオーストラリアの国道一号線、パシフィックブルースハイウエイ二千八百キロをひた走っていた。
賑やかな悪戯合戦の間に、バスはタリーの町に入って来た。ラークはとある公園に駐車して、昼食にすると告げた。乗客のうち男性の何人かがテーブルをしつらえ、スツールを並べた。毎度のことながら赤帽のデニスが真っ先に飛び出し、一番熱心に、嬉しそうにこの仕事に励んでいた。女性の何人かは玉葱をスライスしたりハムを切ったり、缶詰を開けたりして食事の支度をした。
気温は三十五度を超えていた。食事の後、ハインツは交通標識がプリントされた枕を持ち出して、公園の芝生の上で気持ちよさそうに手足を伸ばしていた。小さめのサマーセーターから、彼のビール腹がのぞいていた。
ハリーが五十メートルほど離れた公衆トイレの横の水道から、カップに水を汲んで帰って来た。彼は水を口に含んではうがいをして、それを霧に吹き、虹を作りながら歩いてきたのだが、ハインツのビール腹を見て、ついふらふらと悪戯っけを起こした。それが、この日の彼の不運の始まりとなったのだ。
彼はカップに少し残っていた水をハインツの腹に垂らした。ハインツは「あうっ!」と叫びバネ仕掛けの人形のように跳ね起きて、ハリーを追いかけた。ハリーはそれより早くカップを放り出すと、公衆便所の先の方まで逃げてしまった。
ハインツは執拗にあとを追いかけたのだがついに諦め、ゆっくり歩いて戻りかけて、公衆便所の横に立ち止った。彼の眼が輝き、身をかがめて片方だけのゴム草履を拾い上げた。やがて戻って来たハリーは草履を片足にしか履いていなかった。
「ありがとうハインツ、返してくれや、そいつは俺のだ」
ハリーは草履を受け取ろうと右手を差し出した。
「いや礼には及ばないよ。どうしてかって言うと、こうだからさ」
ハインツは、ハリーの鼻先をかすめて草履を便所の反対側まで高々と投げてしまった。裏側にはやや背の高い雑草が茂っており、草履はその中に落ちた。ハリーは大慌てでそちらに回って探し始めたがなかなか見つからない。キッチンエリアの方から」「もっと右だ、いや左だ」と無責任なアドバイスが盛んに飛んだが、それがますます彼を混乱させていた。もともと大して腹を立てていた訳でもないハインツも、とうとう心配して一緒に探し始めた。
一、二分後、一向にらちが明かないのを見てキッチンエリアからバジルが走って来た。彼はことの一部始終を見ており、遠くからではあっても草履がどこに落ちたかはっきり分かっていた。かれはそこで、まっすぐ草履のある場所まで走ってそれを拾い上げた。
「ハリー、これだろ」
「ありがとうバジル、助かったよ」
ハリーがほっとした声を出したがバジルはそっけなく
「どういたしまして」
と、草履をまた高々と反対側に放り投げてしまった。
「バジル、お前はやっぱりいい友達だ」
ハインツは手を叩いて大喜びし、ハリーは大慌てでまたそちら側に行ったが、その時はもうアンディがそこに来ていてまたまたハリーは裏側に走らなければならなくなった。この頃には便所の両側にガス、ひげのブルース、パティ、ジュリアなどがずらりと並んでいて、ハリーはその周りをぐるぐる走り回らされる羽目に追いやられた。ところが、そのうちにひげのブルースが投げた草履が、裏にも表にもなくなってしまった。
「おいブルース、お前屋根の上に投げあげちまったらしいぜ、これだけ探しても見つからないとなると」
と、アンディ。バジルはちょっと伸び上って屋根の上を覗くような姿勢になった。ハリーはもう情けなさそうな顔をしていたが、便所の目隠しのブロック塀を足がかりに、よたよたと屋根に登り始めた。
「見えないよ、屋根の上じゃないのかなあ」
「急がないと、バスが出ちゃうわよ」
ジュリアがハリーをからかった。
「瓦が、物凄く熱いんだよ」
ハリーは及び腰で、つま先立って屋根の上を歩いていた。
「もう降りてきたらどうだい。お前の草履は下にあるんだよ」
ガスは便所のヒューズボックスに隠しておいた草履を取り出して来て、それを振り回しながら言った。
「もういい加減勘弁してくれよ、……足の裏が焼けそうだぜ」
バスが発車して少し経った頃、ハインツが小声でツギオに話しかけた。
「俺の枕を見なかったかい。例の大騒ぎの時なくなったらしいんだ」
「気、つかなかった。ハリーに気を取られていて」
ツギオはハインツの方に身をよじった。
「最初ハリーが仇討したかと思ったんだが、そんな時間はなかったよな」
「誰か、ハリーに肩入れして悪戯に隠したかもね。もしそうなら夜までには出てくる違う?」
「そうかもな。夜までに出て来なかったら毛布を代わりに使うとするか」
ハインツは座席の背もたれに頭を預けうつらうつらし始めた。バスは快調なスピードでコフスハーバーに向かっていた。




