冷たい赤に黒い角
(一)
『むかし、むかし』で始まるお話を一つ上げるとしたら、わたしはある鬼のお話をあげるだろう。
『あるところに』と続いてまず登場するのは、人間とお友達になりたい赤い鬼だ。仲良くなりたいと告げる赤い鬼を人間達は疑って、近づこうとはしなかった。そこで赤い鬼の大親友であった青い鬼が一芝居うって、赤い鬼を人間と友達にさせようと企てる、そんなお話だ。
初めてこのお話を知った時、思ったものだ。なんて優しい鬼なのだろう、と。特に青い鬼は大親友の赤い鬼の願いを叶えるために自分など顧みず、赤い鬼に尽くした。こんな優しい鬼にわたしもなりたい、と素直に青鬼の生き様に惚れてしまった。
その鬼のお話の題名を『泣いた赤鬼』と言った。
今現在、鏡の前に立つわたしと同じだ。赤く充血する目。目の下は真っ黒な隈。全体的に顔が腫れぼったい。くらりと頭が酔っていているかのよう。どことなくじんわりと頭に鈍痛がする。口から零れだすアルコールの匂いは、女子力だなんだと言われればすぐに笑われてしまうだろう。体が気怠く、関節の節々が痛む。そして瞼が開き閉めし、睡眠を訴えてくる。しかし、閉じても頭が冴えてしまって眠れないに違いない。実際、昨夜は浴びるようにお酒を飲んだのに、全く眠れなかったのだ。
そして今、この状態。
この体たらく。
この悲惨な現状。
はぁと、ため息を零して少しでも気分が晴れたらいいが、やはり晴れないものは晴れない。逆に記憶に残る彼の香りを思い出してしまって、わたしはまた目にしょっぱい涙を浮かべてしまう。何度も浮かべて唇を濡らしたのにも関わらず、まだ浮かぶ。
こんな時でも一人暮らしだから、これから朝ご飯を作って、ご飯を体に食べさせ、ゴミ捨てをしに行かなければならないし、上手に愛想笑いをして、ご近所と良いお付き合いをしなければならない。こういった負の感情は風邪みたいにうつるものなので、気をしっかりはって人に感染させないようにしなければならない。わたしのせいで気を落とされるのは、青鬼志望のわたしにとってあってはならないことだ。
だが、この感情を押し込めるとなると気が滅入る。どちらかと言えば、今は静かに自分と向き合いたかった。朝の日差しなど知らずに暗い寝室で一人、彼の温もりを感じていたい。そこに彼が戻って来ないのだろうが、悲しくなるのだろうが、どうしようもなく感じてしまう悲しみを閉じ込めたかった。
思えば思うほど、だんだん鉛のように体が重くなる。まるでわたしの体が人形になったように言うことをきかない。力が入らないから、だらんと肩を落としてしまう。人間に戻るには一気に力を籠めるしかない。筋肉を動かし、痛む関節をくるりと回転させる。
汗と涙とアルコールが絡んだ髪を手櫛で梳いた。梳いているはずなのに、髪は逆にこんがらがっているようだった。めげずに指を髪と髪の間に通し、下へと流す。何度もそれを繰り返すうちに、上手く流れない部分に行き当たる。川の中央にたまに見かける大きな岩のように、髪の流れを妨げる絡まりがあった。どこが引っかかっているのか、を確認するために鏡を見た。その時だ。
額の上の方にちょこん角が生えているのが見えた。ちょうど前髪の生え際あたりに、指先ほどの小さな黒い角の切っ先が左右両方の額に一つずつ。計二本。
わたしは指を髪から離して、真正面から鏡に自分の顔を映した。
その姿はまさしく鬼だった。
ごくり、と唾をのむと、口の中にも何か違和感があった。おそるおそる口を開けてみた。ちらりとそれはのぞく。わたしはそれをよく見るために、口を大きく、りんごがまるまる一個食べられるぐらいに開けた。そこには白く尖った牙が冴え渡っていた。
こちらは犬歯が吸血鬼みたいに伸びている。これで誰かしらの首元を噛めば、血を簡単に啜れそうだ。上の歯と下の歯をかちかちと音を鳴らしつつ、噛み合わせてみる。鋭い牙は口内のどこも傷つけなかった。
改めて、わたしは今の自分の姿を見た。額に黒い角が生えて、犬歯は鋭く尖った牙に様変わりしている。
腫れている目を数度瞬きさせる。くらくらに酔っていた頭をフル回転させて、無理やり起こさせる。バケツ一杯の冷えた水がわたしの頭上に落とされたように一瞬にしてぼんやりとした頭が鮮やかによみがえる。
今日は昼から大学の授業があったはずだ。それなのに、こんな姿で学校に行くだなんて。
体がこわばる。火照っていたはずの脳内も体も、冷凍庫に入れたように冷たくなっていく。
牙はいい。口を大きく開けなければ、牙はさほど見えない。問題は角の方だった。額の角をどうにかしなければ、これを見た周囲は大騒ぎするに違いない。
こればっかりは前髪を下ろして隠そうとしても、今の角の大きさだと髪をはねのけて角が周囲にさらけだされてしまう。
指先で角の先をつっつく。えい、えい、と、押すが、当たった指先が痛くなるだけでいっこうに額へと埋まる気配がなかった。しまいに抜いてしまえと思い、親指と人差し指と中指で三角につまんで引くが、こちらもまったく抜ける気配がなかった。とりわけ痛みもない。
鏡の前で逡巡して、また鏡を見て、やはり鬼のようなわたしの姿に涙を浮かべてしまった。こんな姿、誰にも見られたくはない。
だが、そうもいかない。一人暮らしをするには、外に出ないわけにもいかなかったし、大学にも行かなければ、単位を取れなくなる。サボり癖がついてしまうと、それまでだ。一度サボってしまえば大学に行かなくなるだろう。一人ならなおさらそうなるに決まっている。
どうしよう、どうしよう、とそれでもその場で回るしかなかった。ここほれワンワンとでもいうように回る回る。目も回る回る。
その時、鏡の前に置いていたiPhoneに友人からのLINEがくる。コメントを見て、ほっとして鏡をそっと見ると、額にはもうあの黒い角の姿はなかった。
何かの見間違いだろう。そう思うことにした。
(二)
大学の授業が終わった後、わたしは友人の七草とおちあった。朝のLINEを見るに、七草はわたしのことを心配していたらしい。会うとすぐに化粧で隠していた腫れぼったい頬や目の下の隈を指摘して柔らかく微笑んだ。わたしは彼女のその反応に照れくさくなる一方で胸をなでおろした。この子だけはいつも通りなんだと、感じられた気がした。
それからわたし達は大学を出て、ゆっくりと歩きだした。
七草とのデートコースは決まって大学から駅へと続く公園だった。彼女は自宅から通っていて、わたしは大学近辺に下宿していたから駅で別れる。これは友人同士の暗黙のルールとして決めていた。
秋晴れの涼しくも清清しい青空の元、わたし達はどんよりと湿った空気をはらんだ。
「秋津と別れたんだって?」
一言。
彼女の一言でわたしの頬はぴりぴりと痛んだ。昨夜呑んだ酒はもう残っていないはずなのに、頭が痛む。額に汗が浮かぶ。
衝撃的な事実を未だにわたしの脳内は否定し続けていた。別れを切り出されてから、過去のわたしはどこがいけなかったのか、と綿密に悪い点をあげつらっていった。その悪い点にどのようにしていれば良かったのか、答えをだしていく。そうして何度も反省し、悲しむ。わたしがいけなかったのだ、と何度も何度も昨夜は狂うように繰り返した。
それにしても、わたしは誰にも一言も彼と別れたことなんて言わなかったはずだが、どこでそれを知ったのだろうか。
「ね、どこでわたしと秋津くんが別れたの知ったの?」
「秋津がねTwitterで呟いてたの」
「えっ……」
「もぅ、あらいざらい。秋津のやつ楽しそうに言ってたよ」
彼の面影が過り、深くえぐられた傷から血が滴り落ちる。真っ赤に熟れて、ぶくぶくに腫れあがり、隠せそうにない。
こういった誰かが傷つく話は、大学生の間柄では、よく笑い話になっている。誰々と別れた、とか、教授に単位を売ってもらうために寝た、とか冗談でよく聞く類の内容だ。そうしてみんな笑うのだ。本人達の傷など露知らず。
化粧で上っ面だけ取り繕っても、裏では野次馬のようにわたしのことをはやしたてていたというわけだ。きっと今日の顔の火照りもみんな気づいて見て見ぬふりをして、裏で痛む傷を笑ってみていたのだろう。
知るほど寒気がする。
ぶるりと体が震えた。もうじき来るであろう冬の風が吹いたわけでもないのに、肩をさすってしまう。歩く歩幅も狭くなっていく。
七草といるのは楽しかったが、裏を思わせる内容は好きではなかった。わたしの知らない世界でわたしのことを話され、笑われ、悲しまれるのはひどく他人事のように思えるのだ。わたしであるものにわたしが傷つきもせず、他人が介入するのが気持ちが悪い。七草の階級が同級ではなく、わたしを見下げる位置にいるような感覚になる。友人であるはずなのに、この距離は遠すぎだ。
早く七草から離れたい気分になってしまった。こんな七草を卑しい目で見るわたしの気持ちを知られたくはなかった。それに未だ整理がつかない気持ちを素直に「別れた」の一言ですませてほしくなかった。彼女とは友人としていさせてほしい。
視線が自然と先へとゆく。大学から公園へ。公園から駅の構内に。駅の外観から掲げられた駅名の看板に。
赤茶色の錆が目立つ看板はなんだかじゅくじゅくに化膿したわたしの心の傷に似ていた。そこからこぼれだす、錆は誰にも見向きもされず朽ちていく。
これで終わりなのだろうか。
どくん、と心臓が跳ねた。
彼は良い人だった。
わたしの大好きな良い人だった。
七草はわたしの親友だった。
友人として大好きだった。
うっすらと目を細めて、彼女を直視せずにいたが、心に浮かぶ濁った血液を無視することはできなかった。
唇がかさつき、次の瞬間切れる。そこからどくどくと赤が流れ出す。筋肉がゆるくなり、動けなくなる。視線を下に。
目の前に背筋良くぴんと生え伸びた赤い花があった。凛と咲く数輪の花に既視感を覚えた。
「この花は、『彼岸花』」
得意げに、歌うように、高らかに彼は語っていた。その全ての知識がわたしの中に染み込んでしまっている。今は染み込んだ何もかもがどろりと粘り気があるヘドロのよう。鬱陶しい気分も全てこの花の赤のように、燃えてしまえばいいのに。
「寒くなってきたね」七草の寂しげな声色が耳に届いた。
気づけば、足を止めてしまったわたしに合わせて七草も歩みを止めてくれていた。七草が目を細めて、上を見ていたので、わたしも同じ方向をむく。
赤い日差しが視界を遮った。思わず目を細める。橙に近い赤の日が注がれ、夕焼け小焼けが鳴り響きそうな夕日が落ちていくところだった。頭上に烏が二羽去っていく。あれはツガイだろうか。
「そうだ。別れた時はさ、ぱーっとやっちゃうのが一番だし、この後呑みに行こっ!」
手をひかれる。温かかった。さっきの不安を感じるわたしの心を吹き飛ばすぐらいに、彼女と一緒にいたいと思ってしまった。
今は一人は嫌だ。
誰か一緒にいてほしかった。
彼を思い出さないために。
わたしは小さく、うん、と頷いた。
彼とはわたしは、小学校からの幼馴染とか、ましてや中学からの同期なんて大それたものじゃない。ただ大学で出会った仲だ。出会ったきっかけはある授業で、二人一組になりグループワークをしたことだった。そうして早いうちに自分たちの名前にある共通点があることに気づいた。それは小さな共通点だったかもしれないが、まだ二十歳にもなっていない、大人になりきれない子どもなわたし達にとって、運命を感じるには十分な事柄だった。それからは、月日が経つのが早かった。運命のような胡散臭いものを信じたわたし達は距離を詰めることが簡単だったし、何よりいろんなことに対しても同じように感動したり、互いの共通点を見つけ出すのが楽しかった。だから、そういう深い関係になるのも想像するのは容易だった。
春のうららかな日に手をかざせば手が温まること。
夏の大海原を前にすると叫ばずにはいられなくなること。
秋になると紅葉よりも道端の赤い花を愛でて、
冬はこたつに入り本を読むことを二人ともこよなく愛した。
何よりも彼はわたしに対して誠実だった。
そうして同じ部屋で互いの肌を温めあうことを知った。
「ありえないよね。他に女を作ってたんだよ?」七草が頼んだ赤色のチューハイが入ったジョッキを机に叩くかのように置いた。怒っているみたいだ。
「何かの手違いだったんじゃないかな?」わたしは、後悔の色を会話の中に垂らした。
「あまーい。あまいよ。ほんっっっとあんたって純粋」
「そうかな?」
わたしは昨日のアルコールがまだ体内に残っているような気がしたので、アルコールは呑まず黒い炭酸飲料をちびちびと飲んだ。
気は晴れないままだ。
「だって、今までもそういうことあったじゃん」
「でも、秋津くん、そのたびにわたしのもとへ帰ってきてたし」
「あまい、あまい、あますぎぃ」
彼女がジョッキを手にするたびにわたしも自身のジョッキの大きな取っ手に手を伸ばす。そのたびに手に冷たさが残る。温もりが上塗りされていく。あれだけ手をつないだのに、温かさは幻のように手をすり抜けていく。
「それにあっちから切り出したんでしょ? 別れるって」
彼女はぷはぁ、と気持ちのいい効果音を発する。見事ジョッキの中のチューハイを飲み干した。手元にあった酒のつまみが次から次へと、掃除機で吸い込まれているかのように彼女の口の中へ消えていった。
「でも……」
「『でも』も。『だって』も。通用しないよ。今回ばっかりはあいつがクズだってわかったんだから、手を切るべきだって。だってさ、前々から女をとっかえひっかえしてんだよ?」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「秋津がインスタで言ってた」
「でも……」
「『でも』禁止。わたし、知ってんだから。秋津が離れていくごとにあんたが傷ついて今日みたいに目を腫らしてること」
どことなく、彼女とわたしの間にズレあった。それは谷のような大きなズレだった。谷をはさんだこっち側のわたしは深く傷つき耳をふさいでいるのに対し、彼女はあっち側で叫んでいるのだ。わたしの気など知らずにやまびこを待っている。わたしが彼女の意見に賛同して声を返すのを待ち望んでいる。返ってきたやまびこが彼女自身のやまびこだとしても、彼女はそれをわたしだとするのだろう。
今のわたしには、簡単に言葉を返すことができなかった。
彼は良い人だったのだ。誰に対しても誠実で、軽口をたたいて笑わせてくれて、そして何より誰にでも優しかった。自分のことなんて二の次で、人のことを見てくれた。わたしが悲しむとすぐさま駆けつけて励ましてくれたこともあった。
だからこそ彼が他の女の子を助けるのは当たり前なことだと理解できた。それを『彼がわたしと付き合っていたにも関わらず他の女性と付き合っていた』と安易に断定するのはまた違うのではないか、と思ってしまうのだ。反対に、それだけたくさんの女性がいながら彼の一番にわたしを選んでくれたことを大事にする方が先決だ。これこそ彼が誠実だという所以なのだから。
今度もそうだ。彼は戻ってくるはずだ。それまでわたしは辛抱して、寂しさを募らせながらもまた待たなければならない。彼が帰ってくるなんて当然なのに、怖くはないはずなのに、いつだって怖い。これはわたしの弱さだ。彼が弱いわけでもない。優しさと言う強さが足りないわたしの弱さなのだ。
「ほんっとーにひどい男」
友達の罵りがわたしにとってはまだ毒だった。
「ひどくない」
思わず言い返してしまう。
「ひどくないよ。彼は良い人だよ。冬になればコートをかけてもらったし、暗くって怖い夜道も一緒に帰ってくれた。一人が寂しい夜だって、一緒にいてくれた。これまでだって、わたしのことを励ましてくれたんだよ? 本当にひどければ、そんなことしない」
声を荒げてしまう。
「本当にひどければ、あんなふりかたしない」
思い出すたびに、涙がふきだした。記憶が言うことをきかない。どうしても傍に居たくなり、温もりを探してしまう。でもその温もりはもう傍にはない。わたしから去ってしまっている。しかし、戻ってくるのを待っている。見送った夫が帰ってくるかのようなロマンチックで優しい結末が来るのを待ち望んでいる。そんな現実、あるか分からないのに。
「あんた……もしかして……」
そうだよ。
まだ彼のことが、好き。
強烈に後悔した。ここにきて、こんなに愛おしさが湧きだしてくるなんて思っていなかった。
ふと、此処に来るまでに見た烏のツガイを思い出した。先ほど見た光景とは違い互いに距離をとり飛ぶツガイが浮かんだ。ツガイの距離は開けていく。その距離を離していき、ついには互いが見えなくなる。
残ったのはくたびれたわたしの『好き』だけだった。
どうにもならないと分かっていても、わたしは願わずにはいられなかった。気づいた時には遅いのに、その先を切望してしまう。こんなこと普段は言わないのに、なぜだか当たりたくなってしまっていた。
はっとなり、すぐにきつく睨みつけた目をほぐすが、もう既に目の前にはぽかーんと口を開ける七草の姿があった。やってしまった、という思いが強かった。ここまで付き合ってもらったのに、わたしは彼女の意に沿えなかった。そのことへの罪悪感と曲げられない自分との思いに揺れて、わたしは席をたち、トイレへと駆けこんだ。
どこか狭く静かなところへ行きたかった。
トイレの蓋を開けずにその上に座る。スカートが床にすらないように、なんて気にしていられなかった。ただ籠るだけ。座るだけ。したいわけじゃないからスカートもめくりあげもしない。こうしてひとりで座り、狭い空間に身を置くのは心地よかった。
今は誰かに見られる外は怖かった。裏で何かわたしのことを言っているのではないかとビクビクしてしまう。そう考えてしまうと、もういけない。外に愛想をふりまき笑顔を盾にしてしまう。そういうわたしを作り上げている。
だが、これはまだよかった。わたしにとって、自分の感情を盾の外に持ち出すことが一番やりたくないことだ。それなのに、やってしまった。
七草にだって上手くやっていたのに、全ておじゃんだ。自分の止まらない感情を吐露してしまった。今まで作り上げていたものが壊れてしまう。
すんっと鼻を吸えばしょっぱい匂い鼻先から香った。涙の匂いだ。頬が腫れて痛い。涙が乾きだして、べたつき固まりだしている。動かすだけでくしゃっと壊れてしまう枯葉のように脆くひび割れしそうだ。額に重しを付けたような、違和感がある。そっと触れる。
鬼のような鋭い角が生えていた。
また、生えていた。指先で触れてみる。額に二本。やはり左右に一つずつ生えていた。指の腹を伝わせて、角から額の肌までなぞる。スポンジでこすった食器のきゅっとした表面を触れているよう。どうやら今回の角は指の第二関節分くらいの長さがあるようだ。
また親指と人差し指と中指の三本でつまむが、思ったよりも長く三本指で鉛筆を握るような形になった。ぐっと力を込めて抜こうとするが、角ではなく頭が引っ張られる。やはり痛みはない。
今度は人差し指で角の先を押してみる。
「いたっ」
針で刺されたような刺激が指先から脳に送られてくる。反射的に指先をみれば、鮮やかな赤色が指先から溢れだしていた。切った箇所からふつふつと赤が膨れ上がり、零れだしてしまう。そうして手のひらに向かい一筋の道をしめす。鮮烈的な赤で道を照らし続ける。
真っ赤な花の道だ。その道を歩けば、やっぱり思い出してしまうのだろう。隣にいた彼の温度と匂いを。わたしは彼が帰ってくるのを空っぽの心のまま、待ってしまう。『この道で出会いましょう』と言ったはずなのに、彼は現れない。秋晴れの良い天気の時に歩いたあの帰り道が最後だと思いたくはない。まっさらな白いスカートを靡かせて、わたしは彼のためだけに待っている、そんな健気な子でありたい。
「大丈夫?」
途端、七草の声がトイレに響いた。その声色に心配の気持ちが込められていた。凍えるくらい冷たい声で、しめりっけがある。
「お腹痛い?」やっぱりどこかズレていて、悲しみが口元に広がる。
「ごめん、心配かけて」わたしは目をきつく閉じて、早くこの波がすぎるよう我慢し、頭を俯かせた。ちょうどわたしに生えている角が友達に突き出されるように、角の切っ先を向ける。
「ううん。わたしこそ、ごめん」と七草がまたしめっぽく言った。
「何が?」
「えっと……そうだよね」
何が「そうだよね」なのだろう。わたしの頬が痛むのを、彼女はそこで見ていただけなはずなのに。言葉が軽い。
「でも、秋津はやめといたほうがいいよ」
真っ赤な花が咲き誇った。あの日歩いた花の道。風で次々と揺れるぼんぼりみたいな灯りに目を細めて笑った。その隣にいるのは、わたしではなかった。
「まだ、諦めきれない」
肩が震える。
寒さに凍える。
足が痺れる。
傷は癒えない。
ふはっ、と奇妙な笑いがわたしの口から漏れ出た。
自分でもなんでこんな笑いを漏らしたのか分からない。でも、ふとした瞬間にどうしたわけか零れ落ちたのだ。自分自身を笑ったのか、目の前の彼女を笑ったのか分からない。
そっと手を伸ばして、トイレのドアを触れた。
壁一枚先の彼女の表情を想像した。普段わたしに「純粋だ」とか「優しい」だとか言っていた彼女に、わたしのこの角を見せたらどういう表情をするだろうか。驚くだろうか、それとも彼のように誠実であり続けるだろうか。温もりでそっと包んでくれるだろうか。
ちょっとした歪がわたしの中で軋む。ずっと前ならこんな感情にならなかった。彼女の言うように純粋なわたしであり続けたと思う。でも今はそんなことどうでもよかった。
わたしは、わたしとして受け止める場所がほしかった。ずっと寒いのだ。
トイレの鍵を開ける。開かれた扉の隙間からも彼女の表情が見えた。その背後には大きな鏡と手洗い場。開け放たれたわたしの姿と、目の前の彼女とが同時に見て取れた。鏡が割れるような衝撃をうけると思っていた。
ほっと、彼女の安堵した表情があらわれる。
「もう一生この中から出てこないんだと思ってた」
彼女の背後の鏡に、腫れぼったい顔をしたわたしの姿。額にはどこにも角がなかった。それなのに、先ほど角を掴んだ指先の感触は妙にリアルだった。
刺さった人差し指から流れていた赤い道は止まっている。そこから先からは行けやしない。秋の花も萎れて黒く朽ちてしまった。
「もう帰ろっか」と七草は言ってくれた。
(三)
七草と別れた後、わたしはりんごが描かれたラベルのチューハイ数缶と柿の種や、あたりめや、いかそうめんなどの、おおよそ女子とは思えないおつまみを大量に買いこんだ。
彼女とは呑みたくなかったが、一人でやけになり呑みたい気分だった。そうして呑むのが二日目で体が受けつけなかったとしても、わたしは酔ったあの記憶がおぼろげな状態に戻りたかった。
そうすれば、どこからどこまでが自分の境がなくなってくる。まるで前の自分が、今の自分であるかのように感じる。壊れてしまった関係を元通りに戻してくれる。
そんな切実な気持ちをお酒に求めていた。
部屋に戻ると、早めに酔いたくて缶のプルタブを手早くを開けた。さきほど食べたものが胃の中にまだ残っているが、そのままチューハイをのどに流し込む。ごくごくと顔を上げて、飲み干して、のどの奥で暴れまわるパンチの強い飲料をお腹へ。一方では口の端からチューハイが滴ってしまっていた。服を濡らす。床にチューハイを垂らす。一気に飲み干すと、缶を床に放り投げた。空っぽの缶が放つ音は空しく誰もいない部屋の隅々をゆきかう。
すると、世界が点滅しだした。ふと頭上の部屋を照らす太陽をみると電池切れを起こしていた。世界だって、終始灯りをつきっぱなしだと疲れる。わたしみたいに投げだしたくなることぐらいあるだろう。
だからだろうか、わたしはこの部屋に再び灯りをつける気にはならなかった。暗い部屋の中、外の儚い灯りが薄く照らしてくれる。この灯りだけで事足りた。
ぷしゅぅ、とプルタブをひねり二缶目を開ける。不思議と赤いラベルだけは暗い中でも輪郭がくっきり見てとれた。お腹がもう無理だと叫んでいるが、視界がまだぼやけていないので呑まずにはいれなかった。
今度は一気に飲まずに、ごくんと一口含んで味を確かめてから流し込んだ。買ってきたいかそうめんを頬張る。むしゃむしゃと全く腹の足しにもならない細いいかを口内で絡めては飲み込む。もやもやと絡んでのどを通過し、くすぐりつつ腹の中へと沈んでいく。腹へ沈殿してゆく感覚を忘れようと、また呑む。頭をふると、ぼんやりしてきたのか、こっくんこっくんと揺れる。酔っているのだろうか、分からない。ただ視界はぼやけていない。
広い部屋に空き缶が転がっている。それだけの部屋にしんみりと寂しさが重なっていく。床はガラスが散りばめられているくらい冷えていた。部屋の中を移動するたびにガラスが足裏に刺さってきて痛い。此処にはもうない温もりを刻んでいく。
部屋にあるソファに寝転がるも、一人で独占するその場所は空虚にしか思えなかった。
からん、とまたわたしは飲み干した空き缶を落とす。
部屋が缶で埋まるころには、彼が心配して帰ってきてくれるだろうか。
返答はなく、空しいだけ。
わたしは知っていた。誰も帰って来やしないことを。しかし、希望を失うにはあまりにも酷だった。彼のためを思って待つべきだとも思った。わたしは自身を犠牲にしてもいいくらいには彼を想っていた。
がらんどうの部屋にいるのも居心地が悪くなってきた。缶は埋まらず、口に通すおつまみの量も増えない。口の端にいかそうめんをくわえさせ、ソファではない、もっと居心地のいい場所を探した。
広い部屋。
誰もいない。
音がほしい。
狭さがほしい。
ふわりと浮かぶ足元。高揚感からか、頭を左右に傾けて、目を細める。ほとんど眠れていないせいでアルコールに弱くなっているらしい。普段ならこの缶数で、このアルコール濃度で、酔うはずはないのに足が思うような場所に行かない。
自然と、机の上に放り投げた自分のiPhoneの元に辿りついた。片手で缶を握り、横目でiPhoneを見る。
「Twitter」と、ようやく発した自分の言葉にまた奇妙な笑いが漏れてしまう。
おもむろにiPhoneを開けた。映し出されるホーム画面は、彼と一緒に行った京都の紅葉の写真だ。落ち葉と赤いもみじが目にうったえかけてくる。次第に浮き上がる彼との思い出をわたしはチューハイで流し込んだ。
iPhoneを手に取ったのは友達が言ったあの一言が気になったからだった。『Twitterで言っていた』と。見てはいけないとは思っていた。それを開けて傷つくのはわたしだ。だが気になって仕方なかった。
浮かぶ高揚感に紛れる好奇心が抑えきれなかった。
結局全く起動していなかったTwitterを開ける。様々な情報がゆきかっていた。その中にも彼の名前が見えた。
スクロールするが、リアルでつながっているアカウントと言うこともあってか、みんなあまりツイートをしていなかった。散見される日常の呟きに鬱陶しくなる。一気に上にスクロールさせると、最近のツイートが目に飛び込んだ。
日付は彼が別れを告げた日。
唇をきつく結ぶ。ごくりとりんごの味がする唾を飲み込んだ。
やはりどうしようもないツイートばかりだった。わたしのことなど知らないみんなが、本人のいないところでわちゃわちゃと盛り上がっている。まるで歩道に落ちているお菓子にはいよる大量の蟻のようだった。
誰一人わたしのことなど気遣っていやしない。裏でこういうことを言って、わたしのことは知らんぷり。そして、あげつらったかのように『別れたの?』というツイートが大々的に呟かれている。
Twitterにもこういった鬱陶しいツイートをする人を消す機能はある。わたしの視界からその人の存在を消すスイッチがあるのだ。だけどこのスイッチを押してもTwitter上の彼らがわたしの前から消えるだけでそこに居続ける。まさに嫌な相手を消すことが出来るが、実際にはいなくならない独裁スイッチのような機能だ。
だがこのアカウントはリアルでつながっている人が多い。だからなんとなくスイッチを押すのは引け目を感じた。それに、彼らは別段わたしを傷つけようとしているわけではない。気になったのは煩わしさだけだ。誰と何をしようが、目に見える形で言葉が見える煩わしさ。ふと気を抜くと、Twitterのツイートが囁きとなって耳元に聞こえてくる恐ろしさ。今はこの煩わしさや恐怖だけだから放っておいた。これもわたしが飲み込んでしまえば終わる話だ。
液晶画面に照らされた、わたしの人差し指に血の跡があった。ぺろりと舐めると血の苦々しさが口一面に広がった。お口直しにりんごチューハイを飲むと、先ほどの苦々しさが嘘のように晴れた。
iPhoneを机に置いて、距離をとる。机にあったチーズ鱈を忘れずに口に放り込んだ。手に持っていた缶の上部を持ち振る。底の方でチューハイがゆらゆらゆらぐ。一気にその残りを飲み、またチーズ鱈を歯で噛みくわえる。もう一缶開ける。
またわたしはあてどなく歩いた。おつまみを食べて、飲み込んで、ソファのずっと向こうにある部屋の端に目が吸い込まれた。テレビの横にちょうど暗い縦線が伸びていたのだ。袋小路が広がっている。
そこには何もないのに、わたしは興味がわいた。不思議と惹かれて向かいあい、座る。缶を隣に置き、その部屋の角に頭を当てた。額が角に当たるかと思いきや、当たる直前で止まった。
見れば、額に二本の鋭く尖った角が見えた。不思議と角に角がすいつく。体を角に合わせて丸まらせる。手と足は角の方へ押し込めて、ちょうど小中高でやった三角座りのような態勢で足をたたみ縮こまらせる。
どこにも行けないこの態勢が、彼の腕の中にすっぽりと収まったようで心地が良かった。
目の前に、大きすぎる部屋もない。
耳の傍でひそひそと囁く影もない。
落ち着いて、自分を確かめることが出来た。
普段は、怖いぐらいに自分が分からなくなる。どうしたいのか、どうありたいのか、分からない。すると、どこかからかやってきた人が頼んでもいないのに、耳の傍に大きな声でアドバイスを無理やり与えられる。そういう状況が怖かった。いろいろ叫ばれてもどれが正しいのか分からない。
七草の言葉だってわたしは理解しているつもりだ。彼女は心配なのだ。わたしが、好きだから。だから、わたしもそういう七草が好きだ。でも好きだから怖くなる。どのくらいの距離でどのような対応をしてよいのか、これがわたしなのか、七草が見ている自分であっているのか、どれも不確かだ。
こうして暗闇の中、一人でうずくまっているとそういった不安がない。安心して自分を感じられる。
ひりひりと頬が痛んだ。泣き疲れてしまったからか、目がしょぼくれて仕方なかった。瞼が重い。冷たい角に頭を凭れかからせて、わたしはほんのり気分に酔って、そして……
(四)
頭が重かった。ずしりと頭の上に鉛のような重しをつけているかのようだった。事実、そのわたしは額には角が二本生えていた。左右にひとつずつ。黒くまだ生えたての赤ちゃんのような角。前髪で隠せそうなほどのちびちゃん。
ふわりとその前髪が浮く。秋初めの風がわたしを襲った。近くには、真っ赤に凛と咲く花。足元に川が流れている。冷たくもなく、温かくもない川だ。しかもこの川、驚くことに赤い。彼岸のあの花のように明るく透き通る赤だ。足をちゃぷちゃぷと上げ下げして、川の水を確かめる。自身の足首までの水位があった。川岸は白い砂浜が広がっている。赤には侵食されていない。
遠くの方を目を細めて眺めていると、彼がこちらへ来るのが見えた。飄々とした風貌で、軽々しい足取り。黒を基調としたいつも着ていそうな服を着ている。
わたしは彼の元へ走った。まとわりつく透明な赤い川が、彼の元へ行くのを止めているかのようだった。次第に渦を巻き、足を溺れさせる。わたしは足を取られないように渦をかわして、駆けて、叫んだ。
「秋津くん」
凛と咲く赤い花達が教えてくれた。
「ここから先に立ち入るべからず」なんて滑稽な忠告だ。
わたしはそれでも進む。
川は諦めたのか、もうまとわりついてこなかった。
白い砂浜に上がる。
咲き誇る花はチカチカとわたしの瞳に赤を紛れ込ませる。
瞬きをして、赤を振り払った。
彼が気づいてこっちに来てくれた。それはいつもの彼と待ち合わせをしておちあった時のようだった。
「見つかってよかった」彼がほほ笑んでいた。
「わたしも。もう帰ったのかと思ってた」また待たなければならないのかとも思っていた。
「ところでさ、今日は言いたいことがあってきたんだ」
彼の言葉があの日と重なる。
同じタイミングで同じようなシチュエーションが繰り返される。
彼のトーンは変わらなかった。
あの日別れた彼とどれだけ乖離させようとしても、重なって仕方なかった。
わたしは悟ってしまう。ここで「ああ、またなのだろうか」と。そうしてどんな言葉でふるのか、そしてまた戻ってくるのだろうかと不安の波が押し寄せてくる。
「別れよう」
彼の隣に影が見えた。
小さな影だ。
わたしの背丈より小さな女性の影。
高いヒールを履いて、やっとわたしの肩ぐらいの背の子だった。
魅力的な赤い口紅をして、
赤いチークを頬にして、
赤いドレスを着て、
お腹をさすっている。
「その人、誰?」とわたしは彼に言及するも、彼は幸せそうな笑みを見せてくるだけだった。「どうすることもできませんでしたので、許してくれるでしょう?」と下心丸出しの可愛らしい丸い目だった。そうした雰囲気や態度でわたしの足元を見ている。
「子供ができたんだ」
言葉を失った。
わたしと付き合っていたのに、なぜその人と?
「えっ……待って」
「それに今はもう君のことが好きじゃない」
「待ってよ」待ってはくれなかった。
「この子とこれから真剣に付き合っていくつもり」
「待ってって」頭が重い。
「大学を卒業したら彼女と結婚もするって決めたんだ」
「どうして?」どんどん重くなる。
「子供を作らせた責任ってもんが俺にはあるし、いいかげんなことはできないよ」
「どうして、教えてよ」額がむずがゆい。
「だから、君と遊ぶのはこれで終わりにしようと思ってさ」
「これまでのことは遊びだったの?」噴き出した冷汗が体を凍らせる。
「うるっさいなあ」
胸がしめつけられた。体が縮こまる。
これまでそんな怖い顔をした彼を見たことがなかった。いつでもわたしに向けて優しい笑みで返してくれた。疎遠になってもわたしのもとへ帰ってきてくれた。いつだって誠実だった。
だから、これは嘘。
全部、夢だ。
「言ってんだろ。お前のこと好きじゃなくなったんだって。お前さ、うっとうしいよ。付き合う前は可愛いと思ってたけど、付き合ってみてからは最悪だ。こんな鬱陶しいやつだと思わなかった」
耳をふさごうとした。でもっきっとこの言葉は耳をふさいだところで聞こえてしまうだろう。
「秋穂、お前は優しくふるまう自分だけが好きなんだろ」
言葉を飲み込んだ。はっきりと映りこむ彼の姿が目新しかった。鮮明に残った記憶の断片が彼を見せているにすぎないから。
この時、わたしは彼のこの言葉は彼の優しさだと思っていた。わたしを想っているからこそ、拒み、はねのけて諦めさせようとしたのだ、と。
わたしはそうして間違いを許容していた。彼がわたしを想って言ったことだと、そう間違えようと必死だった。
そんなことはない。この言葉は彼の等身大の言葉だった。わたしが想い、待ち続けていたのは、わたしのそうありたい妄想の姿だった。
心の炎がくすぶった。この言葉でわたしはわたしでなくなってしまっていた。いつも盾にしていた仮面が崩れてしまう音が聞こえた。わたしは心の奥底にしまい込んでいた悲しみ、そして怒り抱いてしまう。それでも、好きで、愛おしくてどうしようもなかった。こんな心を持ちたくなかった。
気づいたときには、彼は遠くにいた。彼岸の向こう側へ女性の影と二人して楽し気に歩いてゆく。
狂った歯車は既に違う方へとくるくる回っていった。
ふはっ、と小さく声をだして笑ってしまう。
足元には赤いカーペット。此処を彼と歩いていたのが既に懐かしくなる。ここで彼と二人して歩いている時、真っ赤な花のことを聞いた。
この花、『彼岸花』は火事が起こる家に咲く迷信があった。
「そっか。これ、夢だぁ」
胸を焦がしていた。真っ赤に熟れて、はちきれてしまうほど。心は炎のようで、燃え滾り消えることはない。次の瞬間、火はゆらゆらと揺らめき、彼が歩いた方向に燃えあがった。彼岸の花は示していた。真っ赤な赤を。冷たい赤い炎を。
透き通った赤い川は潮をひき、そして大きな潮となって押し寄せる。わたしも、彼のとりまく炎も、全て飲み込んでいく。
そうして全てなくなってしまってほしかった。
全部、全部、ない方がよかった。
わたしがまだ彼を好きなわけは、
自分に優しさがほしかったからだった。
わたしが彼を待っているのは、
自分の優しさに溺れていたからだった。
わたしが諦めきれないのは、
彼への愛ではなく、
自分が優しくあろうとしていることだった。
頭が重い。角が伸びているのが伝わる。どんどん伸びて伸びて天高く伸びて、わたしを鬼たらしめる。
わたしはずっと昔から優しい鬼でありたかったのだろう。誰かと関わる時、優しい声をかけて、綺麗な言葉だけを使って、汚い言葉を排除したかった。
そうして優しい青鬼になりたかったのだろう。
純粋で優しい、誰かのために自己犠牲をできる人に。
優しくありたい、ではなく優しい人そのものになりたかった。
でもそれは、きっとわたしではなれない。
(五)
知らないうちに眠っていたらしい。
目にすぐに飛び込んできたのは袋小路になった角だった。部屋が冷たく暗い。
頭がひどく重い。鈍く痛む以上に頭を上げていられないほど重かった。目線を下におろすと自分の体が見えた。縮こまって、体を角に必死に挟み込んでいる姿。その態勢は滑稽だった。
自分の姿を見ているとじんわりと嫌悪感が内から湧き出た。このままではいられない、と思って角から立ちあがる。傍にあったりんごチューハイの缶を持って、机に行く。
iPhoneに七草からのLINEがきていた。内容は謝罪と遊びの誘いだった。返信はしない。そうして返ってこない返信に一喜一憂している七草を思い浮かべた。
彼女は一番わたしを心配してくれた。だがわたしのことは見抜いてくれなかった。本音で話し合うことなんてできないと考えれば考えるほど、彼女に嘘の優しさを押し付けようとしているわたしは、浅ましく滑稽に思える。
もう面倒な嘘の優しさをふるうのはやめた。
次にTwitterを開けた。さきほどから耳の傍で言葉がうるさかった。ツイートの内容がわたしの耳元で囁かれるのだ。そして、また違った方面からの囁きがあるのではないかと勘繰ってしまう。聞きたくもない事柄が見えてしまう。わたしが見ていないと高をくくっている彼らの顔に腹立たしさすら感じる。
だからわたしのアカウントから見える全てのアカウントを余さず消し去った。独裁スイッチを押し続けた。
そうして誰もいなくなった。
すると、安心してため息が零れてしまった。
ため息はアルコールの匂いがした。りんごと血の香り。唇が切れて、血が滴っているのを忘れていた。舌で舐めとると、今度は口の中で血の味がはじけて苦みをにじませる。目の前が真っ赤になった。
その時、電話がかかってきた。
『秋津くん』と画面に表示された彼の名前に、真っ赤に冷たく燃える思いがふきだす。全ての彼への思いが、わたしを電話に出させた。
「もしもし」
毅然とした冷たいわたしの声にわたし自身驚いた。
「秋津くん?」
「もしもし、俺だけど」
「知ってるよ」
彼はいつもの温もりある喋り方をしていた。今にもこちらにキスをしそな軽々しさを纏っている。
「また付き合わない?」
その言葉を何度も聞いた。そのたびにわたしは喜んでいた。
「このあいだの女さ。嘘ついてて、」
言葉が入ってこない。
「俺と結婚がしたいがために子供ができたなんて言ってたんだ」
呆れてしまう。
「だから、俺、今フリーなんだ」
バカバカしくって仕方がない。
「また付き合おうよ」
でも、そういうところが好きだった。
そういう彼を見て、
わたしは待ってしまっていた。
彼が一人になるのが、
かわいそうで、
わたしは同情して、
優しくして、
いつでも隣を空かせ、
そのたびに落ち込み、
寂しさに震えた。
わたしだけが我慢すればいい問題だと思っていた。
だから、いつだって返事は同じだった。
「冗談じゃない」
いいよ、といつものように答えることが出来なかった。
後悔が渦を巻いたが、わたしの中で沈んでしまった気持ちを、もう一度再熱させるにはもう疲れてしまっていたみたいだった。「優しくありたかったなあ」なんて、呟くぐらいに。
「……今、なんて?」
「あんたみたいなクズ男、金輪際付き合うもんかって言ってんだ」
電話を一方的に切った。
初めての汚い言葉に息が上がった。
その後、わたしはiPhoneを床に投げつけた。
液晶が割れるのを視界の端でとらえるが、
もうどうだっていい。
机にあった、
いかそうめんも、
チーズ鱈も、
柿の種も、
あたりめも、
カルパッチョも、
全部床にぶちまけた。
全部どうだっていい。
捨ててしまった。
わたしの優しさも、
そうあろうとしたことも。
わたしはもうわたしではなかった。
大好きなわたしはどこかへ行ってしまって、
好きも嫌いも何にもなくなってしまった。
優しい鬼になりたかった。
自分の本物の優しさを誰かに見せられるような、
自己犠牲と言う形でもなんでもいい。
わたしはあの青鬼や赤鬼のように、
優しくありたかったのだ。
頭が重い。既に上げることすらできなくなっていた。どれぐらい大きなものが頭についているのだろうかと、洗面所まで足取りうつろに歩いた。電気をつけて鏡を前に自身の姿を見る。
そこには自己を犠牲にして赤鬼を助ける青鬼にも、人間が大好きな赤鬼にも見えない、
黒く猛々しい、大きな角が生えた鬼が立っていた。
冴えわたる牙、黒い角。
赤でも青でもない黒い鬼。
もう誰も近寄れない風貌に、わたしはふはっと嬉々として牙を見せ、笑ってしまった。