第九十四話 敬虔な悪魔
ヘクゼダスが謎のおぞましい部族に掴まってしまった頃、そこから三十キロほど北に行ったところの木にギダリアド族のグムデアテルが引っかかっていた。そこのフロント部分に空いた穴から何かが垂れており近づいてみてみるとそれはロバトの上半身であることがわかる。死んでいるのだろうか、それは彼が気が付いたことでそうではないということは証明される。
「おっ……うぐぐぐ…………ああ?」
全身がキリキリと痛むことに疑問を覚えつつもロバトは目を開け世界の確認を行っていた。彼の目に映るのはなんと空が地上にあり地上や木々、沼が空にあるという不思議な世界であった……と思いきや、頭に上る血の感覚に彼は自分がひっくり返っているのだと気づき体を起こした。彼の体は腰に巻いたベルトにつながれた操縦席と舵取りを結ぶ安全用の接続具のおかげで機外に投げ出されずに済んでおり、もしそれが無かったならば彼は今頃沼の底に沈んでいただろう。
上下が正常となった世界を改めて見渡してみるも、やはり見覚えのない景色が広がっているので彼はまだ曖昧な頭を休ませるために目を瞑って腰の接続具を外すと床に座りこんだ。機体は斜めになっているので自然とお尻と足で突っ張る姿勢となっていたがそれすらもきついと感じられるほどに体が痛んでいた。
「どこだあ……何が起きたんだってほんとさあ」
彼の村がある禁断のアキメイデルトという地を産まれてこの方十五年、一度も出たことのない彼にとっては、高低がなくこうも地面が低い土地は初めてであったため、違和感が半端ではなかった。
「あーそうだ」
そういえば後ろに乗っていた者たちはどうなったのだろうかと頭だけ振り返ると、すぐ目の前には体が変な方向に捩じれて動かない男の姿があった。彼はゆっくりと目を見開いていくと、非常事態であることにようやく気付き体をわなわなと震えさせ始めた。
「うそだ、う、嘘だ……ベルガンさんが………そんなあれでも絶対……はあ、はあ、はあ……」
全身から血の気が引いてくのがわかる。彼は勇気を振り絞ってもう一度振り返った、今度はベルガンの体がまっすぐ正常な位置にあることを祈って。だが当然ながらそんなことがあるわけもなく、隣の家に住んでいる農家のベルガンは死んでいた。顔こそこちらを向いてはいないものの、ギダリアド族には少なくとも首が百八十度も後ろを向けるような身体的特徴などないことは彼も知っている。
「うああ、ああ……あ、ああああ」
叫ぶでもなく、泣き散らすわけでもなくただただ力なく体を床に投げ出すばかりであった。最早後二人を探す気にもなれない、もしかすると悪魔たちなら体も強いであろうから生き延びているのかもしれないが、だとしても何だというのだろうか。これから一体どうすればいいのだろうか、自分が今どこにいるのかもわからなければ村の人は死んでしまった。グムデアテルも動く気配は無い、何故なら動力が生きていることを示すパレという赤い石が通常ならば内に影が揺らいでいるのに今は完全に赤黒くくすんでしまっているのだ。
もうどうにでもなれと諦めていると、突然大きく四、五十センチほど大きく下に落ちたのだ。
「おおおっ!!??」
大きな声を上げ出っ張りに咄嗟にしがみつき周囲を見回す。傾斜はより酷くなっており、先ほどまでは窓から空と対岸の森しか見えなかったのに、今は半分ほど沼だか池だかが視界に入っている。彼はグムデアテルが木に引っかかっていることを知らなかったのだ、そのため始め彼はついフォルタニッツァが近くを歩いたのかと思ってしまったのだが、ここはアキメイデルトの地ではないのでフォルタニッツァがそこらへんにうろついている確率はほぼ無いに等しい。彼は揺れる機内で恐る恐る立ちあがって外の様子を窺ってようやく自分の置かれている状況を知った。
「やっばいやばいやばいやばいやばい!!!」
彼は痛みも脱力感も忘れて機体の後ろへと駆け上がる。途中ベルガンやもう一人の男クンタウの亡骸を飛び越えていく。機体はさらに大きく揺れ傾斜は増していく、彼が激しく動いたことでひっかかりが余計に外れてどんどん下へと滑り落ち始めたのだ。かといってあのまま残っていれば彼は確実に真庭あなかったに違いない。ロバトは体当たりでドアを開けようと試みるも傾斜のせいで歩くよりも遅い速度になってしまっておりタックルの威力など出るはずもなかった。徐々に滑りゆく足、彼の手はあと少しの所で取っ手に引っかかろうとしていたが、届かない。
そして彼は思い切って跳びあがった。丁度良くクンタウの体が座席と座席の間に引っかかっていたために彼はそれを踏み台にして飛ぶことが出来たのだ。彼の体重がかかったドアはバキバキとレールから壊れつつ剥がれていき遂に彼ごとドアは重力に惹かれ機首の方へと落ちていった。
「あ」
途端に遠のく空、このまま彼は座席と壁に激しく叩きつけられて動けぬまま溺死するのだろう。ドアが壊れて外れた瞬間にすべてを察したバロトは口をぽかんと開けたまま落ちていった。
グムデアテルは天地がひっくり返った姿勢で沼に落ちると、ゆっくりと沈んでいった。折れた羽が水に浸かり、透明に染まっていく。
「………あれ」
冷たくもなければ痛くもない。水にぬれたような感触がないのは何故だろうか、彼は恐る恐る目を開けると、何者かが彼の腕をつかんでいたのだ。
「ふう……あなたくらいは助けられたようですねえ」
聞き覚えのある女の声、それにこの言語は聞き間違えようのない悪魔語の特徴的な闇の深い発音。
「あんたは……」
彼の腕をつかんでいたのはヴェッチェであった。ヴェッチェの蔓状の足が数本、彼の点に向かって伸びた腕に巻き付いて落下を阻止していたのだった。まさか悪魔に命を救われるとは思っていなかったロバトは、どう感謝の言葉を伝えればいいのか上手く頭が働かずにいた。どうもまだ事故の後遺症が痛むらしい。
「なるほど、お二人は死んでしまったのですね」
沼の畔で座りこんでロバトとヴェッチェは互いの見たものについて情報を交換し合っていた。といってもロバトにはさし出せるほどのろくな情報は無かったのだが。
「ホロス(※1)は見ていませんね。私もキエリエスとトットット、あと間抜けを探しているのですがどうも気配をつかめないのです、役立たずはどうやらここからしばらく南下したあたりにいるような気配があるような気もするのですが、曖昧で」
ヴェッチェはこの初めてくる土地にどうにもぬぐえぬ違和感をはじめから感じていた。いつもなら百キロ程度であれば知っているサイカロスを例え千人分の人間のミンチの中に埋まっていてもわかるというのに、この場所では寝ている間でもわかるほどの簡単な察知さえ効かないのだ。この歯がゆさに彼女は顔をしかめながら周りの景色を睨みつけていた。この土地はおかしい。
「そっすか……せめてホロスさんだけでも生きていればいいけど」
「ひとまず、この近くには町があるようですよ、行ってみましょうか」
唐突に素っ頓狂なことを言い出したヴェッチェに彼は耳を疑った。まさかショックで自分が悪魔だということを忘れてしまったのではあるまいか、と。だが彼女はいたって真面目にそう口走ったようだ。
「でも」
と口を開いた彼に、わかっているとばかりにそれを制すると何やら呪術を唱え始めた。
「ラットラ エクセルトルール ファーラオナオアン」
長くはない術を詠唱の後、彼女の体は変化を始めた。ものの十秒ほどで変化が終わるとそこにはペラミナム教というこの世界の人間の間では最も普及している宗教の修行婦が立っていた。ヴェッチェの面影はなくとても敬虔そうな佇まいをした彼女はどこからどう見てもそこらへんにいそうな、美人でもなければ不細工というわけでもない、これといって身体的特徴のない人間に化けたのだった。
「すっげえ」
茫然とする彼に、彼女はまた何か術を唱えると今度はロバトにかけた。慌てる彼を、声すら変わった彼女は落ち着くように伝える。
「落ち着いてくださいな、貴方のお姿では目立ちすぎるのです。貴方を失礼ながら修行子へと変えさせていただきました。ご安心を、いつでも戻して差し上げます故」
そう微笑む彼女は、狂乱の死刑執行人ではなかった。
※1 ホロス:同行していたギダリアド族の女性




